第六章 過去


 ヤートの目の前で彼女は吠えるように泣いた。その悲痛な叫びと同じ声が、抑揚無く響く。
『それから数日、私は母を探し続けた。そして……』
 場面が変わり、タイヤが積まれた空き地のような場所になる。ゴミ捨て場と大差ない空間に、廃棄されたタイヤと共に、彼女の母親が変わり果てた姿で捨てられていた。
 身ぐるみ剥がされた血だらけの身体に、彼女は近寄る。泣きもせず、ただ無言で涙を流す彼女は、泣き叫ぶことにすら疲れていた。鮮やかな赤のところどころに、飛び散るような白が混ざっている。その嗅ぎ分けたくもない男の臭いに、全身の毛が沸き立つ。彼女の小さな細い拳は、強く強く握られていた。
『私は、犯人共に復讐を誓った』
 彼女は軍部の人間と共にいた。例に洩れずいきなり変わった場面に、ヤートは一瞬頭がついていかなかった。
 風景はこれまで見てきた彼女の部屋なのに、彼女の目の前にはこの部屋には不釣り合いな裕福そうな軍部の男がいた。
『ボロボロになった私の前に、父親の親友だという軍部の人間が現れた』
 その人間は軍人とは思えない丁寧な態度で彼女に接している。しかし彼女の目は彼ではなく、彼の後ろの空間を見詰めており――
 その時、ヤートは空間の異常を感じた。何かを破るような轟音が響き、音に合わせるように空間そのものにもヒビが入る。景色が一気に闇に包まれ、漆黒の空間に逆戻りした。
「なんだ!?」
『レイルの心がこれ以上見るのを拒否してるんだよ。フェンリルと恐れられる彼女ですら忘れたい光景なんて、ボク……正視出来る自信もないよ』
 久しぶりに聞くようなナオの声。
「……いったい、何なんだろうな」
『気になる?』
「当たり前だ」
『なら、続きを見ようか』
 ヤートとしては真面目に言ったのに、ナオのふざけたような声が響き、空間に変化が現れた。
 先程の場面に戻ったようで、レイルの前には黒髪の神経質そうな男が立っている。紺色のスーツ姿が良く似合う、優しそうな顔立ちをしている。
 男の狐色の瞳からは、戦場の気配は感じられなかった。立ち姿もどちらかというと隙無く立っているとは言い難い。
「わかった。こちらでなんとかしよう。また明日来る時には、君も連れて行く」
 男は事務的な台詞を優しい笑顔で伝え、外で待機していた兵士達を連れてどこかへ消えた。彼女にとって扉を出て行った彼らは見えないから、そういう映り方をしたのだろう。
『軍の幹部だった男によって、私は次の日には訓練生として学校に通うことになっていた……』
 漆黒の闇の中、彼女は主の居なくなったベッドに横になっていた。目の前の彼女は、眠っていなかった。闇の中に浮かぶエメラルドグリーンの瞳は、どこまでも美しい。まだ幼さを残す顔には、男を惑わす資質があった。
 そんなヤートの目を釘付けにする横顔に、いきなり刃が突き付けられた。
「お偉いさんと繋がってたのは、母親だけじゃなかったようだな」
 覆面により聞き取り辛い声がそう言った。いつの間にか彼女が眠っていたベッドを、四人の男が取り囲んでいた。夜の闇に紛れた男達の姿は、強盗のそれだった。
 一気に恐怖に揺れる彼女の瞳は、すぐに生気の無いものに変わって閉じられた。彼女の意識が混濁したのと同時に、周りの景色も変わる。
 何度も繰り返す景色の変化には、ヤートはどうも慣れそうもなかった。足元から変わる景色に、浮遊感などは感じられない。
 景色が完全にどこかのボロ小屋に変わったところで、彼女は目を覚ました。彼女は、木製の椅子に手足を縛りつけられた状態で座らされていた。
「今軍部を脅迫してる。これで俺らも大金持ちだぜ。お前の家には金が無いのはこの前わかったからな」
 そう言って下品に笑う男達を、レイルは精一杯睨みつけた。この男の口ぶりからして、母親を殺したのもこいつらだろうということはわかった。いかにも悪そうな、品性の欠片も漂わない顔つきだ。
「アニキ! 軍部の奴ら、ここがどこか聞いてきやがる!」
 連絡係であろう男が、電話を持ったまま聞いてきた。どうやらリーダー格らしい男は、それを受け取ると電話相手を威嚇する。
「ここの場所なんて関係ねぇ!! 早く金用意しないと昨日のメスガキが死ぬぜ!?」
 そう怒鳴ってから男は電話を操作する。すると受話器からの相手の声が、部屋中に響くまで大きくなる。
『彼女はまだ生きているのか!?』
 聞き覚えのない、若い男の声がそう叫んでいる。リーダー格とは違う男が、後ろから彼女の座る椅子を蹴った。
「うっ……あぁ……」
 口を塞がれていない彼女は、腰から響く激痛にうめき声を上げる。
『大丈夫かっ!? 生きてるんだな!?』
「そうだよ! だから早く金用意しやがれ!!」
 リーダー格の男が苛立った声を上げると、急に電話の向こうの男の様子が変わった。
『そうか、生きているんだな……なら良いんだ』
 穏やかな声には、奥底に隠した憎悪が混じっている。そのあまりの変貌ぶりに、リーダー格の男の顔が歪む。
『そこはイースト通りの廃屋だな?』
 電話の向こうの声に、全員が驚いた。リーダー格の男が震える手で受話器を投げ捨てた。力いっぱい床に投げ付けられた受話器は、粉々に壊れる。
「てめぇ!! 何しやがった!?」
 男は彼女を椅子ごと振り回し、床に押し倒した。その拍子に拘束されていた腕が自由になったが、彼女に抵抗する力は残っていない。振り回されて身体のところどころをぶつけた彼女の体は、痣だらけになっている。
 彼女は何もしていない。スラムを我が物顔で歩くゴロツキ程度には、軍部の情報網の恐ろしさはわからないのだろう。昨日の時点で、彼女は軍部の所有物になっている。
 何も言わない――言えないのだが――彼女に、男は苛立ったのか腰のベルトからナイフを抜いて叫んだ。
「てめぇが! てめぇがっ!!」
 男は錯乱したように騒ぎ、ナイフを彼女の左腕に振り下ろした。
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