第六章 過去


 全身を包む生暖かい風に、ヤートは目を覚ました。
 目を開けているにも関わらず、真っ黒の空間に漂っている。風だと思ったのは、この空間の空気の感触だった。異世界、という言葉が当て嵌まる気がした。
『気がついた?』
 遠くで、近くで、ナオの声が聴こえた。頭に直接響いてくるような、不思議な聴こえ方だ。
「ここは? どこにいる?」
『ここはあの塔の中、精神世界の入り口だ。君はこれからフェンリル四人の心の中を覗くことになる。ちなみにボクは常に近くにいる。姿形は見えなくても、ちゃんと声も届くし、同じものを見てる』
「死んだかと、思ったよ」
 強く拳を握り締めながらヤートは言った。
 握り締める感覚はあるのに、それによる痛みは感じなかった。自分の姿も確認出来ない。漆黒の闇の中に漂っている。もしかしたら足はついていないかもしれないが。
『手荒な真似になってごめん。こうしないと、この世界に生きたまま案内出来なかったから』
「……まぁ、良い。さぁ、早く案内してもらおうか」
『わかった。なら、行こうか』
 ナオがそう言うと同時に、真っ黒の空間が白色に塗り潰された。思わず目を瞑るヤートは、世界の空気が変わるのを肌で感じた。





 次にヤートが目を開けると、汚らしい路地の真ん中に立っていた。
 灰色に埋め尽くされたヒビの入った建物に道路、汚い小さな川に少量の血痕。どこにでもあるスラムの光景だった。
 一瞬ヤートは遠い昔を思い出したが、どうやらここは、自分の知っているスラムとは違う場所らしい。
 人通りの少ない路地に、夜がやってきた。まるで早送りのように時間が過ぎるなか、その通りは昼間とは打って変わって人に溢れた。
 きらびやかとは程遠い、若い貧しそうな少女達が、金持ちとは程遠そうな普通の身なりの男達に買われていく。少女達は、汚い水を吐き出す噴水で客待ちをしているらしい。
 ヤートは何かに誘われるように、路地からそこを目指して歩き出した。そして自分がこの街の人間達からは見えていないことに、唐突に気付く。
『ここは他人の記憶の中であって、ボク達はいない存在だから干渉は出来ないよ』
 ナオの補足で納得するヤートの目に、見慣れた赤髪が飛び込んできた。
 その少女は、自分が知っている彼女よりも幾分幼く見えた。それでもその美しさは、まわりの少女達と比べても群を抜いていた。
『私はクソみたいな場所で育った』
 不意に“彼女”の声が頭に響いてきた。まるで物語を読み聞かせるかのように、その声は静かに語る。
 彼女はゆっくりと座っていた噴水から立ち上がると、近付いてきていた一人の男に寄り掛かった。
 ヤートは慌てて二人に駆け寄る。
 彼女は男性の首に両腕を絡め、蠱惑的な視線を投げかけている。見ただけで興奮しているとわかる男性は、あたふたとした動きで路地を目指して歩き出した。彼女も腕に絡み付きながらついていく。その光景を周りの男性達が、羨ましそうな表情で見ていた。
 人通りの無い路地裏まで来た所で、急に男は彼女に襲い掛かった。乱暴に彼女の上着を開けさせ、露出した白い首筋にかぶりつくようにして顔を埋める。彼女も抵抗する様子はない。
 無機質な瞳はずっと宙を向いている。男性から低い声が洩れた。小さく痙攣した身体が、首から鮮血を飛ばしながら崩れ落ちる。
 小さなナイフを持った彼女は、倒れた男性を冷たく見下ろす。男性を音も無く刺し殺した彼女は、無表情のままその死体から財布と貴金属を奪って歩き出した。
 その迷いの無い足取りから、彼女が殺人を日常的に行っていることが安易に想像出来る。
『身寄りもない、学のない女が生きるにはそれしかなかった』
「……ここは地獄だ」
 産まれた境遇を理由にする殺人鬼を、哀れむつもりはない。スラム生まれが全員こうなる訳ではないからだ。ただただ、素直な感想が口から出ていた。
 彼女は狂った環境で育っていた。殺人が肯定される環境で、人を傷付ける喜びを知ってしまったのだ。
 家路を急ぐ返り血を浴びた彼女の美しい唇は、怪しく笑っていた。
『昔は、こんなクソみたいな街でも幸せになれると信じていた』
 彼女の声に合わせるように、周りの景色が変わった。
 ボロボロの風通しの良すぎる部屋の中で、ベッドの横に立つ彼女の姿はあった。先程よりも更に幼い。学校に行っているならミドルスクール程度の年の頃……学校に行っていれば、だが。
 おそらく地毛なのであろうウェーブがかった赤髪は、ヤートが知っている彼女のそれより幾分柔らかく感じる。髪質だけでなく、彼女の纏う雰囲気自体が柔らかい空気に包まれている気がした。
 彼女は紙袋を持っていた。ベッドサイドに置いていた水の入ったグラスと共に、紙袋から出した錠剤を、ベッドに起き上がった女性に渡している。
「いつもありがとう。お母さんの病気が治れば、貴女にこんなお使い頼まなくても良いのにね」
 ベッドに座る女性は彼女と同じ髪質をしており、一目見ただけで血の繋がった親子だとわかった。青白い顔色が、不吉な予感を掻き立てる。
『母親は病弱で、そんな母を助ける為に私はいつも薬を買うお使いをしていた。父親は遠い都市の軍事工場で働いていて、特別な日にしか帰ってこなかった』
 相変わらず場面は早送りで進んでいく。その飛ぶように進むシーンの全てで幸せそうに笑う彼女の姿に、ヤートは心が締め付けられるような感覚を味わった。
『軍事工場で働いていた父親の収入は少ないながらも安定していて、スラムの住人にしては裕福な生活を送れていた。あの時までは……』
 平穏だった風景がいきなり真っ赤に染まった。一面の焼け野原に、座り込む彼女の背中。
『工場の事故で父親が死んだ。賠償金で少ない財産は全て持っていかれた』
 舞台はまたボロボロの部屋の中に戻っていた。ベッドの横に立ち竦む彼女と、先程より明らかに具合の悪そうな母親。
『父親が死んで母親は後を追うように衰弱していた。増えた薬代もすぐに賄えなくなる……私は、初めて男に買われることを決意した』
 場面が合わせるように変わり、彼女はスーツ姿の男に押し倒されていた。男は下品な笑みを浮かべながら、幼い彼女の服を剥ぎ取っていく。あっという間に産まれたままの姿にされた怯える彼女を、男は鼻息荒くまさぐりだした。
 室内ですらない路地裏の一角で、彼女の震える手が男の背中に爪を立てる。赤い筋が垂れるまで強く立てられた指先が、どんどん男の腰まで下がってくる。そのいやらしい手つきに男は興奮して彼女の尻を触りだした。
 その行為に彼女は不快そうな顔になり、男の腰のベルトから引き抜いたナイフで、彼の首を後ろから突いた。女性の、それも子供の力で突かれたナイフは、一撃では男を絶命に至らせることが出来なかった。
『本当は殺すつもりなんかなかった。普通に快感を提供してやるつもりだった。子供ってのは考えが浅い生物で、特に土壇場の恐怖というものには浅はかな予想しかなかった』
 目の前の彼女は、泣きながら男にナイフを振り下ろし続けた。無我夢中に振り下ろされる刃は急所を捉えることが出来ず、その度に男のうめき声が響いた。
 数分の、長い時間が流れ、男性は動かなくなった。先程まで一定のリズムで噴き出していた動脈血が、今はただ流れに従って溢れている。
『初めての経験ってのは思った以上の恐怖だった……おまけに尻の方が好みだったオッサンの気持ち悪さで、気がついた時には刺し殺した後だった』
 飛ぶように流れる時間の中で、幼い彼女は立ち竦んでいた。やがて夜の闇に気が付き、服を纏い、足早に家に帰る彼女を迎える者は居なかった。
 開けっ放しの扉をくぐり、空っぽのベッドに駆け寄る彼女。
『たとえ貧しくても軍事関係の父親がいる我が家は、周りからしたら羨ましい家庭だった。弱った母しかいない時を狙って、無い金目当てに強盗が入った』
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