第十三章 フェンリスヴォルフ
狐色の瞳を細めて、その男はそっと報告書を閉じた。
神経質な性格の滲むその内容は、男を満足させるには充分で。
全てが自分の思い描いた通りに進む全能感は、王の隣で過ごした日々を思い出させる。
身体を刻まれ精神すらも刻まれてしまった今でも尚、この感覚は何物にも勝る快感と直結しているように思えた。
油断すると笑い出してしまいそうになる己を抑えて、作成されたばかりのものとは異なる報告書を棚から取り出す。
しばらく見ない間に随分と古ぼけてしまったその報告書は、今正に読み終わったばかりの事件の当事者達が、“当事者となる最初の事件”のものだ。
彼らが彼らである所以こそ、彼らが目指し、成した事件の結末に他ならない。
そこには己の思惑なんてものではない、彼ら自身の思惑があり、理想があり、そして願いがあった。
ただ、それだけだった。
その日、いけ好かない南部支部からの特命を受けたロックは、普段の任務となにも変わらない感覚で一人、大陸北部にある小さな村に向かった。
その村は本部がある大陸中央部からは距離も離れており、『監視』や『支配』といった本部が行う裏の行いからは見逃されていた。
また、それは距離という物理的な問題だけでなく、この村に住む人間達の文化という精神的な問題も原因のようだった。
この村は北部の人間が大半を占める、規模としては小さい村で、そのほとんどが顔見知りと言えるくらいに、古くからの“繋がりの強い”人々が暮らしていた。
本部からの監視のために送られてきた軍人も何人かはいるのだが、その内訳が各地方からの諜報員なのだから足並みが揃うはずはなかった。
南部の特務部隊所属のロックも、その流れで任務を請け負うことになったのだが、どうやら……
一足遅かったようだ。
村に着いてからの合流ポイントである軍所有の建物――村の入り口近くにある木造の平屋だ――に足を踏み入れた瞬間、ロックは反射的に背負っていたライフルに手を伸ばした。
殺気があったわけではない。人影なんてものもない。
ロックが入った玄関からは奥に続く廊下が見通せていて、その左右にいくつか扉で仕切られた部屋がある造りだ。北部の田舎のほとんどは襖だったり畳だったりの文化だと聞いていたので、この建物は軍が後から建てたものだと推測できる。外観の見てくれだけ真似たところで、中身がこれではハリボテも良いところだ。
狙撃手としての習性か、それとも狂った行動原理からくる本能からか。ロックは息も気配も殺し、廊下を音もなく進んでいく。
あるひとつの扉の前で、ロックはライフルを構える。
扉の向こうでは音も気配もしないというのに、なぜかロックは確信していた。
血に狂った人殺しが、この扉の向こうにいるということを。
この村は農業や狩りを生活の中心としているような、そんな平和な――村を演じている。
そんな情報を掴んだからこそロックは今ここにいる。
単体で敵陣を制圧できる戦闘力と判断力、もしもの時には簡単に切り捨てても問題のない人材。そんないくつもの難題をクリアしたロックが受けたのがこの任務だ。
当然、ここには他の地方の、それこそ同じような境遇で問題のある人間が派遣されてきているはずだった。
そうでなければならないし、そうでなければ承諾なんてしないはずだ。
神を殺せという指示を、狂わずに受けられる人間なんていないからだ。
その日、あまり居心地のよくない東部支部からの特命を受けたルークは、普段の任務となにも変わらない感覚で一人、大陸北部にある小さな村に向かった。
村の入り口に着いたところで、ルークは既に手遅れであったことに気付いたが、それでもこの地に漂う強い“死臭”の原因を探るべく、合流地点に設定されていた建物に向かった。
目的の建物はすぐに見つかり、ノックもせずに扉に手をかける。音もなく開いた扉からは、案の定歓迎の声はおろか人の気配すら感じない。
ここに至るまで人の気配は皆無である。これはいよいよマズそうだと溜め息をひとつついてから、ルークは室内に足を踏み入れた。
人の気配は相変わらずしない。合流予定の軍の人間はおろか、村人一人も見ないのはどう考えても緊急事態が現在進行形でおこっている証拠だ。
廊下を進みながら両隣の扉の向こうに気配を探しつつ、両手に愛銃を構えて振り返る。
「っ!」
開きっぱなしの入り口の扉から、小柄な人影が入って来た。
それは、ウェーブのかかった赤髪とエメラルドグリーンの瞳が印象的な、とても美しい少女だった。年はルークと変わらないくらいだろう。かなり若い。腰に二振りの剣をぶら下げていて、おまけに特務部隊の制服を着用している。違う地方からの応援だ。
銃を構えたルークの反応速度に驚いた顔をしているが、彼女は彼女で腰の剣を既に半分ほど抜いている。踏み込みではルークの方が完全に出遅れていた。
――この子、強い。
発砲する様子もなければ同じ制服に身を包んですらいるルークを見てとって、彼女はふっと笑ってから腰の剣から手を下ろした。
ふわりと笑うだけで空気が変わる。とんでもない美人がいたものだと、ゲイの自分でも感心してしまう程だった。ルークも同じように銃を下ろしてホルスターに戻した。
「あんたも任務で来たのか? 俺は東部支部からだけど」
「『あんた』じゃなくて、『レイル』。私は中央部から。あんた、めちゃくちゃ強いだろ?」
わざとあんたと問い返してくる彼女のお茶目さに笑ってから、ルークも答える。
「俺はコ……ルーク。レイルこそ、あのまま突っ込まれてたら危なかったよ」
なんだか久しぶりに楽しい会話ができているような気がして、ついつい本名を語りそうになったがなんとか誤魔化せた。
東部支部ではなかなか“腹を割って”話せる関係性の相手ができなかったので寂しかったルークだが、なんとなくレイルとはこれからもずっと仲良くできるような予感がしていた。女なのが本当に残念。
「よろしく、ルーク。なんだか初めて会ったような気がしねえな。この感じ、しっくりくる」
「俺もそんな気がしてた。年も近いよな? 良かったらこの任務が終わってからも――」
「――まだ集合までは時間あるだろ? せっかく宿舎にいるんだ。部屋の中で待ってようぜ?」
いつの間にか身体が密着する位置まで距離を詰めていたレイルが、上目遣いにそう誘ってきた。ルークからしたらこの建物が宿舎を兼ねているなんて初耳だったし、集合時間というものが今更なんの役に立つのかも疑問だ。
だが、ルークとしてもこんなにストレートに女の方から誘われたのは初めてだったし、おまけにこんな感情になったのも初めてだった。
だから、その感情に素直に従うことにした。
レイルの細い腰に手をまわしながら部屋の扉を開けつつ、ルークは少しの不安を好奇心で消し去ることにする。
女を抱いてみたいなんて思ったことは初めてだから、失敗したら恰好が悪いななんて、そんなことは考えないことにした。
その日、嫌な予感しかしない本部からの特命を受けたレイルは、普段の任務となにも変わらない感覚で一人、大陸北部にある小さな村に向かった。
村に着いた時点で既に、生きている人間の気配がないことにうんざりした気分を味わったが、今更引き返すこともできないので、仕方なく合流地点に設定されていた建物の扉を開けた。
その瞬間、強烈な殺気を浴びせられ、半ば反射的に剣を抜き飛びかかろうとしたところで、相手も特務部隊所属の人間だとわかりお互いに戦闘態勢を解くに至った。
足音も気配も殺していた。だが、相手――ルークと名乗ったが、どうもその前に本名を言いそうになっていた気配がある。本当のバカかお気楽な人間なのはこれだけでも理解できた――は真っすぐにこちらに銃口を向けてきていた。一寸の狂いもなく眉間に向いた銃口に、バカを補って余りある戦闘センスを感じて、レイルは久しぶりに本心から惹かれる感覚を覚える。
――バカっぽいけど男前だし身体もしっかり鍛えてる。おまけに魔力もかなり高そう……こりゃセックスの相手としちゃ最高なんじゃねーの?
下心はもちろん有りだ。男と女が共に行動すれば、そこに愛や情と名の付くいろいろなものが絡まり合うのは常というもので。そんな生物としては至極真っ当な本能のことを、レイルは否定していないしむしろ肯定し利用している。組織内での立ち回りのために使用することもあれば、仲間内での繋がりを強めるために行うこともある。背中を預けなければならない相手とのコミュニケーションに、セックス以上に効率的な手段をレイルはまだ知らずにいた。
だが、そんなメリットを抜きにしても、ルークは男性として魅力的だった。こちらから誘ってやると、すっと腰に回された手は自然にレイルのことを抱き寄せていて、そこには自分の魅力を充分に理解している強者の余裕が垣間見える。バカで少し嘘は苦手そうな笑顔だが、しかしその青色の瞳にはどこか闇が潜んでいて、そういう二面性がたまらない。
今レイル達がいる建物は本部からの軍人の宿舎としても利用しているものなので、扉を開けたすぐの空間はテーブルとベッドしかない小部屋になっていた。交代で二人が寝れる仮眠室のような室内にはシングルサイズのベッドが並んでおり、そのうちのひとつにレイルは優しく押し倒される。もちろん情熱的なキスを挟んでのことだ。
自然と甘くなる声を隠すこともせず伝えてやりながら、レイルはルークの太ももをスラックス越しに撫でる。
「……」
穏やかな笑顔だったルークの眉間がぴくっと歪んだ。あまり積極的すぎる女はタイプじゃないのか。だが、それならさっきの時点で嫌がるだろう。
少し攻め方を変えようか、そうレイルが考えていたところに、ルークが小さく呟いた。
「……やっぱダメか……」
そう零したルークの手が、腰のホルスターから銃を抜く。
大袈裟過ぎる発砲音が響いて、更にあとから奇妙な金属音が続いた。
