第十二章 古の記録
「こいつぁ、随分豪快な水飲み場になっちまったな?」
目の前に広がる水面に、津波でも起きそうな勢いで鼻先を突っ込んだ巨大な狼――召喚獣フェンリルを眺めて、エイトはなんとかそう零した。恐怖なんてものは召喚の瞬間に既に吹き飛び、今はただ、召喚を行った四人への呆れとも哀しみとも違う……なんとも言えない感情が胸を支配している。
フォックスからこの都の過去を聞かされていたエイトだが、突然対岸から激しい光が放たれ、ずぶずぶに溶け出るヘドロのようになった地中から、巨大な狼が姿を現したのだ。その姿はまさに『魔獣』と呼ぶに相応しい禍々しさで、足元のヘドロ状のものはどうやら、その身体から零れる血とも体液ともわからない液体が積み重なった末のものらしい。
巨大な口は都の建物なんて一口で飲み込める大きさで、瞳は空洞のように暗い闇に包まれている。遠く離れた対岸にいても、その巨体故にエイトからも鮮明に見えた。
――対外的なことを考えたらせめて、雷神ディアスの召喚を確認してから“ヤる”だろうが。まさかあのリーダー、頭沸騰しちまったのか? あんなもん呼び出しちまったら、確実に各地方の軍に察知されるぞ。
狂犬達のリーダーから与えられた情報は、この都での過ごし方と雷神ディアス召喚時の制圧方法のみ。まさか先手を打ってフェンリルを召喚するなんて思ってもみなかったし、ゼウスのオッサンを魔王の死体まで案内しているのもたった今フォックスから聞いたくらいだ。ことごとく蚊帳の外のような仕打ちを受けるのは、おそらくそのリーダーが、自分のことを『気に入っていて、甘やかしている』ことが関係しているのだろう。それはここに、自分と同じく『リーダーに甘やかされている』フォックスがいることがなによりの証拠だ。
「湖の底にはゼウスだけやなくてルツィアさんもおるで。“ほんまの底”はまだ露出してへんみたいやけど、フェンリルのあの動きを見るにバレとるみたいやしな、魔王の死体がそこにあるってのも。ほんまに……ボクだけこんなとこで、生き残ってもしゃーないのに……」
あーあ、と年相応の表情でそう呟いたフォックスに、エイトは言葉を掛けようとして、結局その小さな身体を後ろから強く抱いてやることしか出来なかった。
彼は気付いているのだ。自分の役割を。
フォックスの役割は召喚獣ディアスの召喚“のみ”。召喚が行われた後は、その命が続いている限り、作戦に支障は出ないのだ。つまり、彼はこれから先、安全な場所にいれば良い。そう狐達のリーダーは考えているのだ。だから、今回の作戦において部外者であるエイトを連れ出す役割を与えた。そして、それは狂犬達のリーダーも同じだった。
エイトは今から行われる召喚獣での制圧には必要のない人材ということで、安全圏からの傍観を余儀なくされたのだ。
――確かにオレの目的はデミの回復、だけだけどよ……邪魔者全部吹き飛ばした後で、『さぁ、危険はなくなったからおいで』っていうのは、どうにも甘すぎるんじゃねえの? オレが言うのもなんだけどよ。
「あれだけ力持ってんのに、任務に命を懸けるのかよ……」
街一つ簡単に吹き飛ばせるのが召喚獣の力だ。高い魔力を持つ術者だけでなく人知を超える存在との契約が必須なために、最高位の魔法に分類される召喚術は、大陸全土でも数える程しか確認されていない。フェンリルクラスとなるとそれこそ神話レベルの存在となる。
そんな神と呼ばれる存在を呼び出せる特務部隊フェンリルは、本部からすればいつ懐で爆発するかわからない爆弾を抱えているような気持ちだろう。今は穏やか――命令違反をしていないという意味だ――に命令に従っているようだが、その牙が抜けているということはない。
それは狂犬達自身もわかっているはずだ。自分達がその気になれば、簡単に安定を崩せると。そんな彼等が命令を守り、その命を懸けるのは、どこか不気味なようにすら思えた。
「特務部隊は他部隊から特に嫌われるんやけど……その理由、エイトさんならわかるやろ?」
「そりゃあれだろ……内部の浄化が任務だからな」
突然のフォックスの問い掛けに、思考中のエイトは、それでも淀みなく答えた。それは、自身の答えが正解であると、エイトにでも確信が持てるからだった。
特務部隊は軍の裏側の仕事を主に行う。要人の暗殺もあれば軍内の反乱鎮圧もある。もちろんやり方は得意の殺しで、だ。他にも拷問などの血生臭い噂が絶えないため、軍内部では嫌われている、というよりも恐怖の対象だったという印象だ。
「正解。嫌われモンは嫌われモン同士、身を寄せ合ってまうもんなんやわ。それこそ、家族みたいに、な」
「お前、両親は?」
抱き締めていた身体が小さく震えた。だが、エイトは静かにその答えを待つ。
「……殺された。特務部隊……フェンリルに。ズッタズタになってもた『親』、まだ大事に持ってる」
「……オレと一緒だな」
具体的にどういう状態なのかなんてことは、エイトには必要のない問いだった。大事な相手を大切に扱うのは、当たり前のことだから。そこに他者の中での常識なんてものが、入り込む余地はない。
「このままやと召喚獣同士の戦闘になんで? フェンリルとボクら、どっちかが死ぬまで殺し合う。まぁ、多分……ボクらじゃ勝てんやろうから、ボクがここにいるんやろうけど」
魔力を分散して召喚を行う場合、一人でも術者が倒されると途端に魔力の安定が鈍り、そのまま暴発事故に発展してしまう。大部分を占めるであろう都の住人達の魔力を用いたとしても、術の方向性を決定するのは狐達の仕事だ。舵取りが削られれば、暴発は避けられない。
そうなっても逃げられるように、湖の畔にいるように言われたのだろう。真っ先に湖に口を突っ込んだフェンリルの動きを見ても、狂犬達もわざわざこの幼き狐を狙うということはなさそうだ。
「エイトさんはどうするん? 別にボク、ここまで来たらエイトさんのこと邪魔しようなんて思わんけど。なんかボクら、似てるみたいやし」
腕の中でもぞりと動いて、フォックスがエイトを振り向き見上げた。今では淀みすら見通せる狐色の大きな瞳には、愛らしい色合いを夢想してしまう。
「オレは、リーダーの野郎に協力するって決めた。だからここで、お前のこと護ってやるよ。多分それが、オレに求められていることだ」
寡黙な男の口元に笑みが浮かぶところを想像しながら、エイトはぐっとフォックスの小さな身体を抱き直した。
その時、湖の中心部に浮上したヤート達の姿が見え、それに合わせてフォックスが己の懐から取り出した無線機の電源を入れてエイトにも聞こえるように音量を調整した。