第二章 脱出、船
ミネラルウォーターの入ったボトルを片手に、ヤートはベッドに腰掛けた。先程ロックから貰った水分――彼は結局これを取って来るのに数十分待たせた――を飲んで喉を潤し、暇を持て余す。
目は完全に覚めており、あのラボで起こった息苦しさもない。体調はいつも通りなのに、自分を取り巻く環境だけが劇的に変わった。
「入るぞ……良いか?」
扉をノックする音と共に、クリスらしき声が聞こえた。
「どうぞ」と言いながらヤートは姿勢を正した。
部屋に入って来たクリスの表情はもう見慣れた無表情で、それでも言い知れない緊張感をヤートに与えた。
「ロックから聞いた。体調は良いらしいな。バーガーも好みで良かったよ」
冷徹な口調でそう言う彼に、ギャップは感じたが。
「本題に入ろう」
ヤートが返事をする前に、クリスが話を続けた。
「車で話していた“機械になる”、ということについて教えてもらいたい」
クリスはヤートの真正面のテーブルの上に座った。なんとなく、彼らしくない行動に思えた。
「約束だったからな」
ヤートは目を閉じ、どこから話すか考える。
「……“ゼウス計画”、と呼ばれていた。国の科学者達の言葉をそのまま話すことになるが、ゼウス計画とは俺をマザーとした大規模な魔力のネットワークだ。人間をコンピューターの脳とすることで、今までの機械では成し得なかった高度な情報処理と、ネットワークによるリンクによって強大な魔力を行使することが出来る」
「リンク先は機械だけか?」
「まだ人間へのリンクの技術は確立されていないようだ。我が国でも、自国で生産された機体のみにネットワークを広げることが出来た」
「魔力を集めるのが目的か?」
「末端の機械達を自分の意志で動かすことが出来る。また、機体が持てばという前提で、集めた魔力をそちらに流すことも出来る」
「つまり……一人の人間の範疇ではなくなるな」
「そうだ。だからこそ、全知全能の神の名を語ったんだろう。機械達の目が全て自分の目となり、国中のコンピューターを観覧出来るんだからな」
「……それだけじゃないな?」
「ああ、これは俺がラボのネットワークと繋がった時に流れてきた情報なんだが、あの中央塔を砲台とした魔導砲が最終計画だったようだ」
「集めた魔力を凝縮して発射……魔力が自国に拡散しないために、対魔合金の塔を砲台に選んだのか」
「資料が一瞬流れ込んで来ただけだ。詳しくはわからないがな」
「充分だ。本部に報告しておく。後、仲間達にも俺から説明しておくよ」
「……本部への連絡に関しては、こちらは既に大打撃だ。焦る必要もない」
皮肉のつもりはなかった。そう呟いてからはっとしてクリスを見ると、彼は酷く寂しげな目でこちらを見ていた。
「……ゼウス計画のコアだが」
頭を軽く振ってから、クリスは何事もなかったかのように話題を変えた。
「あんたの頭の中か?」
「ああ……日常生活には支障はないらしいが、詳しく聞く前にそちらのお嬢さんに邪魔されたんでね。とにかく、一生入ったままらしい」
「暴走の心配は?」
「過度にネットワークに繋がない限り大丈夫だそうだ。己の意思で全て制御出来る」
いや、制御してみせる、とヤートは心の中で誓っていた。
「……なるほど」
クリスは腕組みすると、部屋を軽く見渡した。
「俺はこの国の軍用船は初めてなんだが……端末型のコンピューターの類いはあるか? あんたのコアが取り出せるかどうか調べたい」
「君達の目的はゼウス計画だからな。確か一台は標準装備しているはずだ」
感情を出さずにそう言うヤートに、クリスは苦笑しながら返す。
「そうだ。俺達はゼウス計画のコアを奪還する為にあんたの国を襲った」
本部が手に入れた情報通りに行けば、コアを入手しマッドなサイエンティスト達を拉致って終わりな単純な任務だったはずだ。予想外の捕虜だったが、クリスとしては嬉しい誤算だ。
「だが、勘違いするな」
そこでクリスは笑顔を作る。
「コアを摘出したらあんたは用済みだ。後は俺達の好きに出来る」
「……それは、どういう意味だ?」
聞き返してきたヤートの表情には警戒の色があった。
「あんたのことが気に入った。だから……両手両足の骨を折って、飼ってやるよ」
笑顔のままそう言ったら、ヤートの表情が引き攣った。からかいがいがある。
「……って、普段だったらあいつらは言うんだが、あんたは特別だ。悪いようにはしない」
今度こそ、ヤートが少しだけ安心したような顔になった。口数が少ないのは、先程の言葉にプレッシャーを感じたからだろう。
本当に、普段ならそうしていた。現にフェンリルの人間は、自分の気に入った相手を傷付けることに喜びを感じている。好きな相手はイジメてしまう。そんな子供のような愛情で、欲望のままに人を殺している。
だが、今回はしない。特別だから。特別な人だから。
「ちょっと待っててくれ。端末があるかどうか探してくる」
そう言って席を立とうとしたクリスに、ヤートが声を掛けた。
「科学者の言葉をそのまま借りたというのに、君の理解力には驚いたよ」
「これくらい、フェンリルなら全員わかるさ」
「見た限り、皆若い。エリートなのはわかるが、努力も沢山したのだろう?」
クリスは振り向いた。ヤートがどういう意図でそう聞いたのかわからなかったからだ。彼は悪意の無い目でこちらの答えを待っている。グレーがかった美しい瞳に、彼の真面目さが窺い知れた。
「俺達は訓練や勉強だけじゃなく、実戦も多いからな」
「実戦……か」
クリスは目を伏せ、黙ってしまったヤートを残して外に出た。閉まった扉に背中を預け、天井を見上げる。
細長い照明が、波に揺れる暗い船内の中の唯一の光だった。視界をカバーするには細過ぎるその光は、まるでこれからの未来のように感じられた。
クリスは足早に階段に向かう。光の届かない暗闇に、飲み込まれる妄想から逃れるように。
デッキの上の操舵室になら、端末があるはずだ。とにかく、彼の処遇が目先の問題だった。