第八章 歪な群れ
ルツィアの戦意が戻ったことを背に感じながら、エイトは戦況を冷静に分析する。
最後の薬を飲んだのがこの洞窟に侵入する直前だった。それが二日前だったか。入り口の警護がやけに厳重だったので、高速の移動により突破した。内部には何故か人がいなかったが、奥へと続く扉の向こうに“なんとも嫌な気配”を感じたので、そこから先へ踏み込む機会を窺っていたのだ。機械類の陰に隠れていたが、その際に忘れもしない赤髪が見えて慌てて後を追った。
レイルは相変わらず殺しに狂った笑みを浮かべて『人間の余り物』を切り刻んでいる。数日間飲まず食わずのエイトも相当な風貌なはずなのに、それ以上の狂気を彼女からは感じるのだ。神経を過敏にする薬の影響はもう切れかけているが、興奮状態においてエイトは、飢えも渇きも疲労すらも感じない身体になってしまっている。
この先に待つ“彼”に会えればそれで良い。だから、それまで身体がもてば良いのだ。
片手だけでは満足に振るえないのか、棘のついた鞭がバタバタと足元を掠める。先程掠めた矢とは明らかに違う。この鞭先には何もない。感情も悪意も、何もないのだ。
この鞭を愛用していた“同僚の女”とは、エイトはあまり親しくはしていなかった。気にしていなかったと言うのが正しいだろうか。彼女の名前が『カレン』だと言うこと。その家名が東部から流れ着いた移民の名だったこと。それから南部の軍に根付いていた夫が惨い殺され方をしてから、どうにも精神的に不安定になっていたということ。エイトが耳にしたことはこれくらいだ。特に興味もなかったから本人に確認なんて取ってもいない。
目の前にて動くこの身体のメインは、特務部隊の男のものなのだろう。男にしては細身な身体には無駄な筋肉がついていない。褐色の肌なのでエイトと同じく南部生まれなのだろうか。
――くそ、フェンリルのデータなんて対象となるあの女のことしか頭に入れていなかったぜ。こいつの武器は捻りのねえ長剣か?
肩の後ろから歪に生えた両腕が、オーソドックスな見た目の長剣を振り下ろす。純粋に振り下ろされただけの剣先に、エイトはそれを避けながらひゅうっと口笛を吹く。
剣術の型を見るに南部の軍でのもののようだが、少しばかりアレンジもされていそうだ。その細腕には似合わない長剣を、その身体は何よりも雄々しく振るっている。人を切り慣れた軍人の動きだ。足運びもスピードも、そこらの兵士の比ではない。
その剣は何かしらの魔剣かもしれないとエイトは危惧していたのだが、どうやらそういったこともなさそうだ。ただ目の前の敵を切ることのみに特化した刃には、魔力の反応も見られない。
――それにしても気持ち悪い見た目してやがる! 顔は萎んでわかんねえが、エロい男の身体に……乳が突き出てんのか?
南部生まれ南部育ち――正確にはデザートローズから少し離れた都市である『デザキア』生まれ『デザキア』育ち。陸軍に入隊するためにデザートローズへと渡ったエイトは、女の身体が大好物だ。軍の規律のために欲望を抑えるのに苦労するくらいには旺盛な性欲も自覚している。
しかしそれは、“彼”がくれた違法なる薬の影響だった。女性に対して好意も抱くし、今だって大事に大事に“抱いている”女だっているが、そもそもエイトは男だってイケる人間だ。寧ろ経験だけで言えば男の方が多い。陸軍での生活には苦労がつきものだ。
カレンと混ざり合っている男の身体は、正直、こんな状況じゃなければごくりと喉が鳴る程には好みだった。いやらしい、フェロモンがその褐色から滲み出ている。軍での情事を思い出す。狭い兵舎で愛し合った。何度も、何人とも。確かにそこには『本物の愛』というものはなかったかもしれないが、お互いを求める『目的』はあった。
本来のエイトは確かに性欲は強いが、乱暴な行為で興奮する程狂ってもいない。もちろん相手を残虐に殺す過程に絶頂を見出すなんて趣味もない。今も視界の隅で鮮血を撒き散らすあの女とは違う。
――あの女、ちゃんと殺さずにおいとけるのか?
彼女が相対している一体の生死が不安になり、一瞬そちらに目を向ける。その隙をついてカレンの混ぜ物は長剣と鞭を器用に振るって襲い掛かって来た。
直線的な剣先を避けて、のたうつ鞭を飛び越える。
レイルはちゃんと相手を瀕死の状態で抑えていた。紫電の光に焼かれながら六本の手足が痙攣しているのが確認出来た。あれならもう“彼”は動けないだろう。
あとは自分の敵を倒すだけだ。
カレンの混ぜ物が大きな胸を揺らしながら跳躍。悍ましさすら感じる大きなその重圧は、薬の効果の切れたエイトにとってはチャームポイントになりえない。精神面への薬の効果は既に切れている。その副作用のせいで昨日一日は動くことが出来なかった。
副作用からくる幻覚や寒気をじっと耐えていたために、エイトの指の爪には洞窟の土が入り込んでしまっている。如何なる声も気配も晒してはならなかった。入り口の警護は健在で、結局レイル達が来る直前までその人数が減ることもなかったのだから。
頭上からその重さを最大限に活かして長剣が叩きつけられる。それを高速の動きで躱し、そのまま前方の腕に凶器である爪を両方突き刺し、断つ。堪らずその細腕が剣を取り落としたので、その勢いで血が噴き出た腕に足を掛け、後方で無事だった右肩も刺し貫く。
相手がエイトよりも身長が高いためにこんな動きになってしまった。身動きの取れない相手の上で、エイトは隙だらけになってしまう。しかし、それで良い。
矢が刺さったままの左肩が動き、鞭から放していた手がエイトに向かって伸びる。それをルツィアがもう一度射抜く。更に彼女は連続で三連射。まだ無事だった両足を潰し、腹にもご丁寧に一撃くれている。
歪な身体がエイトごと後方に倒れる。まだ息があるようだったので、エイトは一緒に倒れながらその二手に別れた首元を爪で深々と切り裂いた。この身体にはなんの未練もないので、徹底的に始末しておくべきだろう。
どさりと倒れた身体の横で、エイトは問題なく着地を決める。
「……大丈夫、ですか?」
「ああ。もう死んでる。“悪夢”を、よく射抜いたな。上出来だぜ」
その言葉に込められたあらゆる意味を考えて、エイトはそれは自分の役割ではないと理解しながらも、ルツィアに向かって返事をしていた。
振り向いてちゃんと顔を確認してやる。視界の隅から深紅が消えるが、今更問題もないだろう。あのクソ女の考えることなんて、その意思を宿した紫電が貫いた時に嫌という程理解している。
エイトは手前の空間にて、彼女達の抱擁を見ていた。濃厚なる口づけも囁き合うような愛の言葉もなかったが、その関係性くらい想像がつく。何より『人を動かす』という点で、好意の操作程重要なものはないと、エイトもここ数年で嫌という程理解しているのだ。
「……悪夢……きっと、その言葉が一番近いんでしょうね」
その美しい碧の瞳は、何も淀んでいなかった。その矢に乗せただけでは足りぬ嫌悪のはず。それでも若き特務部隊の新人は、エイトが想像していた通り、染まり切らない純粋さで、物事を見ていた。悪意なんてもので、人は強くはなれない。
「ああ、悪夢だよ。こんなもんを嬉々として殺れるなんて、正気の沙汰じゃねえ」
視界に戻した深紅の口元が歪むのを認めて、エイトは溜め息をつく。その息と共に力まで抜けてしまいそうだった。未練がある相手かどうかなんて関係ない。短い間でも仲間だった人間の余り物だったのだ。その萎んだ顔が見えなかったわけではない。
――よく見知った“身体”なんて、二度と切り裂かないと思ってたのによ……
地面に転がったままだった血塗れの長剣の輝きに心の内が映り込みそうに思えて、エイトはそれを悪態と共に蹴り飛ばした。
ガシャンと音を立てて壁際まで吹き飛ぶ長剣を見て、レイルの歪められた口が開く。
「これがお前の望んだ狂犬の姿だ。今度は最後まで見せられて、私も嬉しいぜ」