第二章 脱出、船
隣からの小さな話し声によって、レイルは瞼を開いた。
心地好いまどろみの中、薄暗い室内の無機質な天井を見上げる。隣からドアを蹴り開けるような音が響き、レイルは完全に目を覚ます。それと同時に、先程の物音が部屋の扉を乱暴に開いた音だということと、小さな話し声が隣の部屋の大声だったということに気が付いた。
怒鳴り声に近かったが、何だったのだろうか?
レイルが不審に思い上体を起こすのと、扉が開けられるのは同時だった。
「……起きてたのか。リーダーが安静にしとけって」
「そのつもりだけど、あんたが来たら安静に出来るの?」
笑顔で入ってくるロックに、レイルも微笑みながら答える。
まるで恋人同士のような自然な動作で、ロックはレイルの横に座る。彼の体重を支えるために、簡易ベッドが必要以上に悲鳴を上げた。
隣の暖かい気配に誘われるように、レイルはロックにもたれ掛かった。そのまま彼の開けた血のように赤いシャツの上から、自らの頬を擦りつけるようにして甘える。
彼はジャケットを脱いでおり、赤いシャツに黒のスラックスという格好だ。
――いつもながら、良く似合う。
「約束の、激しいの出来ないね」
「……まだ痛む? 熱い?」
「ちょっと熱い、かな……」
そう言いながらレイルはロックにキスを仕掛ける。少し首は痛かったが、ロックはいつものように情熱的に受け止めてくれる。そのまま押し倒される形になったところで、レイルは唇に違和感を感じてロックの頭を手で遠ざけた。
レイルの首筋にキスを落としていたロックは、不愉快そうに軽く睨む。彼の頭から手を離しながら、レイルは呟いた。
「男の匂いがする……」
「……それって、どういう意味?」
「誰かとしちゃった?」
「……しちゃいねーよ」
心当たりがあるのか、ロックは苦笑い。
「もしかして、隊長さん?」
「味見しようとしたら拒否られちった」
「私が狙ってんだから、最初は私だろ」
ニヤニヤしながらそう言うレイルに、ロックは真面目な顔になった。
「……お前、なんでそんなにあの隊長のこと気に入ってんの? 正直、気持ちわりーんだけど」
最後の方には冷たい目で見られ、今度はレイルが苦笑いをする番だった。
「……あんたを初めて見た時を思い出した」
「……かなり本気じゃねーか」
そう言って頭を抱えるロック。一心不乱に求め合った夜を思い出す。
「公然の浮気だなんて……」
ああ、と続けて大袈裟に嘆くロックに、レイルは少し困った顔を作りながらフォローする。
「あの隊長さん、多分本部に連れてったら死ぬよ。そういう頭の作りだから」
「頭の作りって……まさか! あの隊長さんはゼウス計画にっ!?」
諦めたようなレイルの言葉に、ロックは驚いて動きまで止まる。金色の瞳が探るようにこちらを見ている。
「そ! だから刺激的なアバンチュールは今夜だけ。で、私の身体はセックスには耐えられない」
わざと軽い調子でそう答え、自分のシャツの襟を直す。治療のためかジャケットは脱がされている。肌の上から直接着ているシャツの下に、包帯が血で滲む独特の不快感を感じた。
「ジャケットどこ?」
「テーブルにかけてある」
「電気点けてくれない?」
「もう出ていくから、その時に」
「あれから、どうなった?」
「おせーよ」
二人共、顔を合わせることもない淡々としたやり取りはすぐに終わり、ロックは溜め息をついてからこれまでのことを教えてくれた。
「じゃあ、私はもう一眠りするかなぁ」
目的地まではまだ一日あるので、傷を癒すことに専念することにした。
「あんま無理すんなよ。じゃないと僕が我慢した意味がない」
「お心遣い感謝いたしまーす」
「早く寝とけ」
そう笑ってロックは、レイルの頭を軽く撫でてから扉に向かう。細いくせに男の色気が滲み出ている彼の手に、一瞬だけ性欲を刺激されながら、レイルはゆっくりと息を吐いた。
「後で……ゼウス計画について、リーダーが隊長さんに話を聞きに行く」
扉に手を掛けたロックが、振り返らずに言った。レイルは、何も言わずにベッドに横になる。
「会いには……行かない方が良い」
間接的な制止が、直接的な制止に変わった。
「……わかってる」
レイルは小さく呟いた。リーダーとは、そういう人間で、“普通”の人間の精神は弱い。
「わかってるよ」
扉が閉まると同時に、レイルはもう一度呟いた。彼は――ヤートは、フェンリルとは違うのだ。