第九章 感情の欠片は追憶の中に

【追憶の六 禍狗の望み】





『あ、ヤッホー龍ちゃん』


にこっと人当たりの良い笑みを浮かべる上司。


彼女の名は菊池ルナ。


「ルナさん、その綽名はやめて頂きたいと幾度も申してる筈です」


この会話を何度したことか。だが、いつものようにこの人はへらりと笑い、聞き入れはしない。


『龍ちゃんこそ、その“さん”付けやめない?同い年なんだし』

「貴方は僕の上司故。敬意を込めてお呼びするのは至極当然の事」

『えー。いつからそんないい子になっちゃったのよ龍ちゃん!しくしく』


ハンカチを目に当てながら泣き真似をするルナさん。台詞と所作が今一合っていない。この人、悪の方が好みなのか。全く理解できぬ。


『はーあ、私を殺そうとしていた頃が懐かしいよ』


ハンカチを仕舞ったルナさんが真意の読めない笑みを浮かべる。

 
その笑みを見て、僕は彼女から視線を逸らした。



今でも容易く過去の記憶が脳裏を掠める。



何の感情も含まぬ瞳。
凍てついた殺気。



僕はあの時、初めて“敗北”を知った。




ならば、今日は僕が彼女と初めてまみえた時の追憶でも語るとするか。




これはまだ本当の恐怖を知らなかった或る“弱者”の話だ。









____6年前の追憶____



少年は血反吐を吐いた。


それが薄汚れた地面を赤く染めるのを見据え、荒い己の呼吸を耳元で聞く。骨を砕かんばかりの容赦ない拳。それが少年の鳩尾を打ったのだ。


少年、芥川龍之介は噎せ返る血を吐き出し、自分を殴った男へと視線を向ける。芥川を殴ったのは彼の上司となった男、太宰治だった。太宰は五大幹部へと昇進したばかりだが、歴代最年少でその地位に上り詰めた男だ。そんな太宰が数ヶ月前貧民街へ自ら赴き、そこで見窄らしい少年を拾った。それが芥川。着ている衣服を操るという異能力者だ。


「その程度か。そんなんじゃポートマフィアでは生き残れないぞ」


冷たい無慈悲な言葉を太宰は芥川に浴びせる。芥川も負けじと自分の異能力である《羅生門》で攻撃するが、異能無効化能力を持つ太宰には効かず、代わりに太宰の蹴りが芥川の腹に入った。


後方へと吹っ飛ぶ体。音を立て軋む骨。そして、内臓が圧迫される感覚が呼吸を奪った。細身で軟弱な芥川は木材に体を預け、立ち上がることはできない。そんな彼を見据える瞳は何処までも冷酷だった。


「はあ、これじゃあ何度やっても同じだ。もう止めるかい?私も弱い君に構っているほど暇じゃないのだよ」


芥川は血が滲むほどに拳を握りしめた。だが、太宰はそんな芥川に背を向け歩き出す。呼吸も儘ならぬ声で必死にその背中を芥川は呼び止めた。


「ゲホッゲホッ。僕はまだ、やれます」


よろよろと立ちがる芥川だったが脚に力が入らずその場に膝をつく。立つことも儘ならない体ではもうこれ以上は無理だろうに、それでも芥川は立ち上がろうとする。


全ては力をつける為、強くなければ死ぬ。それは貧民街で厭でも思い知らされた事だ。そして此処はそれ以上。弱者から死んでいく。そう云う闇の世界だ。


一点の光のない闇に染まった黒い瞳が太宰を映す。その瞳を見据えた太宰はある事を思い付いた。


「芥川君。君に私直々の任務を与える。なーに簡単だ。今夜0時、首領執務室に向かう廊下にある人物が通る筈だ。その人物に一度でも攻撃を当てることが出来たなら、先刻君に云った言葉は訂正してあげよう」


人差し指を立てて口角を上げる太宰。芥川は好機とも云えるそのチャンスに拳を固く握って決意した。


「その人物とは」

「君と同い年で、そうだな…。迚も変わった瞳をしているよ」

「…たった一撃などで僕を認めてくださるか?」

「嗚呼。それに方法は問わない。何なら殺してもいい」


殺れるものならね、と意味深な笑みを浮かべて扉から出て行った太宰。その背中を見届けて芥川は血が伝った口許を拭い、立ち上がった。





***



時刻は0時。



僕は広い廊下が続く曲がり角に身を潜めていた。太宰さんによればこの時刻に例の人物が此処を通る筈。


気配を絶って誰もいない廊下を見据える。暫く待っても誰かが来る様子はなかった。まさか、またあの人の娯楽に付き合わされただけだろうか。有り得る事だと僕は一つ息を吐いた。



だが、その瞬間。


カツンッと響いた靴の音。


静寂中で振動のように震える音が僕の全身に響く。吐いた息を飲み込むように呼吸を止めた。


誰かがきた。


そっと廊下を覗き込めば慥かに誰かが此方に向かって歩いてきている。顔はよく見えぬ。緑掛かった青の髪だが、毛先だけはその色とは異なり白銀色。服とは云い難い黒い布のようなものを纏い、首には緑のマフラーを巻いていた。



––––––––––女だ。



勝手に相手は男だと想像していた。故に驚く。そしてあの人が云うには僕と齢は同じ。となれば、まだ齢14の童で女。


僕の異能力で攻撃すれば簡単に首を取れる相手。
何故そのような者をあの人は……。


ぎりっと奥歯を噛み締めた。僕を嘲笑うあの人の顔が脳裏を過ぎる。


また僕を試しているのか?
こんな小娘一人殺せない程、僕は弱者だと?



–––––––––云わせぬ……。



「《羅生門》!」


黒布を刃へと変じ、女目掛けて放った。


羅生門の刃は凡ゆるものを斬り裂く。故に女の胴体を貫き引き裂く事も容易い。か弱き者の命を奪い踏み越えてでも僕は振り返らぬ。さすればあの人は二度と僕を弱者と云わぬ筈だ。



そうだ、僕はここでその小柄な体を貫く。



––––––––––––筈だったのだ。






気付けば僕は地面に背をついていた。


冷たい床の感触。
否、それよりも首に当てられた鋭利な短刀が酷く冷たい。



目の前でオッドアイの瞳が僕を見下ろしていた。



–––––––––何が起きた?



僕は羅生門を放った。
黒布が女目掛けて宙を走った。


しかし、女は体を少し避けて刃と化した黒布を躱した。なんの予備動作もない一瞬の事だった。一瞬で僕の間わいに入り込んだ女が襟首を掴み上げ、勢いのままに僕の体を床へと投げつけた。そして、何処からか取り出したかも判らない短刀が僕の喉にその冷たさを感じさせていた。



これは僕がこの女を攻撃して数秒もない内の出来事だった。



その一瞬で僕は床に背を預けていたのだ。



僕はただ呆然と目の前にあるオッドアイの瞳を見据えた。


どんな闇よりも深く冷酷な瞳が僕を映している。その瞳からは何の感情もみられない。



その瞳を見て、僕の頭を支配した単語はたった一つ。


〝 敗北 〟


僕は負けたのか?この女に。



目を瞠った僕を見下ろし、女がゆっくりと口を開く。



『アンタは、何?ポートマフィアに…、
––––––––––首領に害をなす者?』



僕を敵か否か探るが如く女はそう問うた。


無論、首を縦に振ることはしない。僕の目的とは違うからだ。故に僕は「否」と云った。だが、女は短刀を離す事はしなかった。変わらぬ無機質な声を僕に向ける。


『皆口を揃えてそう云う。だから、拷問して口を割らせるのが此処のやり方。まず、腕を貰う。その次は脚』


無意識に喉が乾いた音を立てた。女の視線が僕の右腕へと落ちた時、自分の腕が千切れる情景が脳内に映し出される。


だがその時、誰かが此方に向かってくる足音が聞こえた。其方に目を向けたのは僕だけでなく女も同じだった。


「嗚呼、悪いねルナ。それは私の部下だ」

『……部下?』


其処にいたのは太宰さんだった。彼は笑みを浮かべて其処に立っており、倒れる僕に目を向ける事もなく“ルナ”と呼んだ女にそう云った。


『なら、これはどう云う心算?』

「私が彼に命令して君を攻撃させた。それだけだけど、何か問題でも?」


数秒の間沈黙があった。


太宰さんは相変わらずの笑みで女を見据える。
女も無表情に太宰さんを見据えていた。


『否、首領に害がないのなら問題ない』


ルナという女はにこりと笑う太宰さんを数秒見た後、視線を離し、同時に僕の上からも身を引く。刃が僕の首を離れた筈なのにそこはまだ凍った様に冷たかった。そして、彼女は僕に目を向けることなく、そのまま暗い廊下へ消えて行った。



倒された上体を起こし拳を握りしめる。
顔を俯かせて歯を食いしばった。


視界の端に見えた太宰さんの靴先。


「落ち込む事はないよ芥川君。君なんかがルナに敵わない事は最初から判っていた事だ」

「そのような事は決して!今回は少々油断が過ぎたこと。次こそは必ず!」

「無理だ」


無情な言葉が頭から振り下ろされる。


「これで判ったろう?己がいかに弱いか」


太宰さんはそれだけ云って去って行く。遠い背中。その距離が物語る。認められない僕の力を。己の未熟さを。これ以上、失望させる訳にはいかぬ。何としてもこの汚泥の底から抜け出さなければ、僕に残るのは弱者として強者に食い尽くされる道のみ。


「ッ…、殺す」


這い上がる為には、証明しなければならない。



太宰さんがあの女を強者と認めるならば、あの女の屍を踏み越える事こそが、僕が弱者ではないと云う証。


その証を必ずや手に入れてみせる。





***



「《羅生門》!」


無数の黒い刃が斬撃を繰り返す。壁を裂き、床を裂き、天井を裂き、空を裂いた。それでも、標的であるルナには擦りもしない。


連続に攻撃を繰り返す黒布の動きが鈍くなる。軈て、元々ない体力がついた芥川は地面に膝をついて、荒い呼吸を吐き出した。


ルナは息一つ乱すことなく軽やかに床に着地して、跪く芥川を見下ろす。


初めて芥川と逢った日から3日が過ぎた。飽きることなく毎日のように攻撃を仕掛けてくる芥川に対して、ルナが反撃をしたのはあの日だけ。それに気づいている芥川は今日も反撃をしてこなかったルナを憎悪の瞳で睨みつけ、声を荒げた。


「何故だ!何故、反撃してこぬ!」


殺す心算で攻撃をしている。手加減なんて全くしていないというのに涼しい顔で攻撃を交わし、反撃さえしてこないルナに苛立ちを見せる芥川。


『私には貴方と戦う理由はないから』

「貴様の首は僕が狙っている。ならば、撃退する事が当然たる理由だ」

『首領への害。それ以外に私が刃を抜く理由なんてない』

「…己の命では理由にならぬと?」


芥川は何の感情もみえないルナの瞳を見据える。ルナは頷きはしなかったが、恐らく肯定の意だ。


己の命に価値がない。


目の前の女は生きることに執着を持っていない。それは嘗て、芥川も同じだった。吠えぬ狂犬と恐れられていたあの頃。貧民街を死んでいるように生きていたあの頃。しかし、芥川は変わった。ある人に出逢い。己に生きる価値を求めた。そして、今、それを証明する為に芥川をここに立っている。


「ふ…、面白い」


口角を上げて芥川は嗤った。


「ならば、僕が貴様に価値を与えてやろう。

––––––––––––《羅生門・顎》!!」


黒布が獣のような形へと変わり、巨大な顎が開く。そのまま獲物を喰らうようにルナ目掛けて黒獣の顎が放たれる。



しかし、黒獣は動きを止めた。



黒獣だけじゃない。自身の体も見えない何かに押さえ付けられているように動けなかった。迚も体が重い。まるで、重力そのものがのし掛かったかのような。


「手前、何してやがる」


背後から聞こえた声。芥川は金縛りにでもあったかのように動かずに視線だけを背後に動かした。黒帽子を被った男が殺気を放ち、そこに立っている。


『中也』


ルナが目を瞬かせて芥川の背後にいる彼の名を呼んだ。中也は動けずにいる芥川から視線を逸らして、ルナを見た。


「ルナ。此奴ァ、敵組織の刺客か?」

『違う。太宰の部下』

「あ?太宰の?」


ルナを襲っているからてっきり侵入者かとも思った中也だったが、ルナのその言葉に眉を寄せて芥川を睨む。


「嗚呼、そういや太宰の野郎が云ってやがったな。丁稚を拾ったとか何とか。此奴がそうか」


芥川の横を通った中也。はっきりと見えた中也の姿は芥川にも見覚えがあった。太宰の相棒である中原中也。直接話した事はなかったが。


「ンで?その丁稚が何で手前を攻撃してやがる」

『…さあ』

「おい判んねぇのかよ。まあどうせあの糞鯖に何か吹き込まれてんだろうよ」


中也は帽子に手を当てながら大きく溜息を吐いた。そして、芥川にかけていた重力を解く。急に軽くなった体に芥川は蹌踉めいた。


「おい丁稚。手前がしてる事は組織への裏切りだ。どんな理由があれ、首領専属護衛のルナを殺そうとしたんだからな」


芥川は目を見開いてルナを見た。


「首領専属護衛?」


驚く芥川を見て、知らなかったのか?と問う中也に芥川は拳を握り締めて頷いた。


何も知らなかった。太宰は何も云わなかったし、剰え太宰はルナを殺しても良いと芥川に云ったのだ。あれは何の意図があっての言葉だったのか。


「つっても、知らなかったじゃ済まされねぇぜ。処罰は直に下る。それまで」

『必要ないよ、中也』


中也の服の袖を引っ張ったルナが首を横に振る。


「あ?何云ってやがる手前。此奴は手前を殺そうとしたんだぞ」

『判ってる。でも、首領に害はないの。だからいい』

「ざけんな!手前の命狙われといてそれを何で」

『でも、首領に害はないでしょ?』


中也は眉を潜めて口を噤む。そして、大きく息を吐き出しながら襟足を掻き毟り、苛立ちのままに芥川に目を向けた。


「いいか丁稚!ルナに免じて今回だきゃ見逃してやらァ。だが、二度目はねぇ」


芥川に背を向けて歩き出した中也。ルナはその後を追う。去っていく二人の背中を見据え、芥川が思ったのは何か。彼の心を知るものは、握り締めたその拳だけだった。




***



ルナは一歩先を歩く中也の背を眺める。何処となく雰囲気は重かった。また、何かしてしまっただろうかと振り向いてくれない中也を見てルナは目を伏せる。


「なァ、ルナ」


しかし、立ち止まった中也。ルナも足を止めて振り返った中也を見上げた。


「何で反撃しなかった。手前なら出来ただろ?」

『だって、ひ』

「必要がないから。……そう云いてぇんだろ?」

『……。』

「首領には害はねぇかもしれねぇ。だが、手前には如何なんだ?」


中也の手がゆっくりとルナに伸ばされる。黒手袋を嵌めた手がルナの頬に触れ、優しく撫でた。


「頼むから、もっと手前の命を大事にしろよ」



揺れる蒼い瞳はまるで海のようだった。その瞳を見るとルナの脳裏にあの時の中也の言葉が蘇ってくる。


『…そうだった』


ポツリと呟いたルナに首を傾げる中也。頬に添えていた手にルナの手が重なって、中也は胸の鼓動を鳴らす。


『私は、中也の為に生きるんだよね』


また、笑った。


それは見落としてしまうくらい小さなものだったが中也は慥かにルナの口元が緩むのを見た。


「お、おう」


気恥ずかしさに耐えかね視線を逸らしてから、一つ後悔。もっとルナの笑顔を見とけばよかったと中也がもう一度視線を戻せば、いつもの無表情のルナ。


『ありがと中也。助けて、くれたんだよね?』

「何で疑問形だ莫迦。ま、手前なら避けられる攻撃だったろうよ。兎に角、あんま無茶するんじゃねぇぜ。俺ァ仕事に戻る」


手を振って去って行く中也の背中が見えなくなるまで見送った後、ルナは中也の言葉を思い出す。


『命を大事に、か…』



***



中也は廊下を速足で進んでいた。


その靴音はどこか苛立ちさえ見せる。辿り着いた部屋の扉を乱暴に蹴り開き、無遠慮に部屋に足を踏み入れる。そして、ソファでだらだらと寝転がっている男を見て、ピキッと額に青筋を浮かべた。


「起きろこの人間失格野郎」


ソファの前で仁王立ちして眠る太宰を叩き起こした中也。その声に閉じていた目蓋を開けた太宰は中也の顔を見た瞬間、あからさまに顔を歪ませた。


「何だい中也?目覚めた時に見るのが君の顔なんて最悪だね。しかも、人間失格野郎とは非道い云われようだ」

「はっ、事実だろうが。ンな事より手前、丁稚の教育ありゃ如何なってやがる」


上体を起こして伸びをする太宰は「如何って?」と欠伸をしながら中也に問う。そんな太宰の態度に舌打ちを溢しながら中也は続けた。


「手前の丁稚がルナを殺そうとしてやがった。ありゃ手前の指示か?」

「嗚呼、芥川君まだ諦めていなかったのだね。結構粘り強いじゃあないか」

「巫山戯んじゃねぇ!手前、ルナが反撃しねぇと判ってやってんだろ!ルナが死んでもいいってのか!?」

「なら、君はルナが芥川君に殺られると思っているのかい?」

「そういう問題じゃねぇだろ!」


太宰は怒りを露わにする中也を見据え、一度言葉を噤んだ。そして、ゆっくりと口を開く。


「前から思っていたのだけれど、何故君はそんなにルナを気に掛けるんだい?」


今度は中也が口を噤む番だった。太宰の探るような瞳に胸の内にあるルナへの想いを見破られそうで中也は太宰から視線を逸らす。


「別に、俺はただ…」


静かに言葉を止める。沈黙を作って心の中を覗く瞳から逃れたかったのかもしれない。ただ言葉が見つからなかっただけかもしれない。


俯き黙る中也。そんな彼を見ていた太宰の瞳が黒く陰った。


「気に食わないな」

「あ?」


ボソッと呟いた太宰の言葉に中也は怪訝な瞳を太宰に向ける。


「マフラーをあげたり、必要もないのに心配したり、君は一体ルナに何を求めてる?覚えているかい?私が前に云った事を」


中也の脳裏に太宰の言葉が過ぎる。一年前、血溜まりの中で白銀の獣とルナを前して太宰が云った言葉。



「あれは忠告の心算だったのだけれど、まだ理解してないようだからもう一度云うよ。これ以上ルナに余計な事をするな。どうせルナあれは感情を持たない人形でしかない。ただ云われたままに動く道具でさえあればいいんだ」

「……ざけんな」


胸の内から沸沸と湧き出る怒り。震えを覚えるばかりの激昂を手に集めて、中也はその手で太宰の胸倉を掴み上げた。


「巫山戯んじゃねぇぞ手前!」

「何が?」

「ルナは道具なんかじゃねぇ!彼奴にはちゃんと意思がある!感情だってちゃんと持ってンだよ!彼奴は!ルナはな!」


–––––––––ルナは……。



『ちゅ、うや』

『うん、凄く楽しかった』



胸倉を掴む手に力込めた中也。脳裏に焼き付いたルナの姿を思い出して溢れる想いに歯を噛み締めた。


「ルナは、涙を流して泣くことだって出来るし、楽しかったって笑うことだって出来る」


見開かれる太宰の瞳が中也を見下ろす。中也は太宰の胸倉を掴んだままその瞳を睨み上げた。


「ルナは人形なんかじゃねぇ。

–––––––––彼奴は人間だ」


掴んでいない方の拳は固く握られていた。一発殴ってやろうかと思っていたが、中也はそれをせず乱暴に太宰から手を離す。


「次、彼奴をそれ呼ばわりしてみろ。今度は容赦しねぇ」


空気が震える殺気がその言葉が冗談でない事を示している。何も云わず前髪に顔を隠している太宰を睨みつけ、中也は部屋を出て行った。



一人残った部屋の中で太宰は先刻の中也の言葉を思い出す。


「ルナが笑っただって…?」


ルナには感情がない。だから、ルナは怒る事も泣く事も、まして笑う事も出来ない。何をしても何をされても何も感じない人形でしかないのに。


–––––––––中也の前では違うと云うのか?



「だから…、私は君が嫌いなんだ」


自身の前髪を掴んで俯いた太宰はどこか苛つかせた声でそう呟いた。





***





ルナは何時ものように廊下を歩いていた。そして、今夜もルナの目の前に立った影が一つ。


「今日こそは決着をつけてやる」


殺気に満ちた瞳でルナを睨み付ける芥川。ルナが首領専属護衛だと知った今でも芥川の目的は変わらなかった。たとえ此処で裏切り者の汚名を着せられても、死刑になったとしても構わない。今の芥川には目の前のルナを殺す事しか頭にない。


自身の外套を刃、黒獣、様々な凶器に変えてルナを攻撃していく。素早い攻撃。だが、それを上回る速さでルナは芥川の攻撃を避ける。


床が削られ、壁が破壊され、それでもルナには当たらない。連続で攻撃を放つ芥川。彼は貧民街では負けなしだった。何時だって敵を排除する術を持っていた。故に今回も同じだ。ただ攻撃を繰り返すばかりが戦い方ではない。


ルナを攻撃していた黒布が床を削り取った。大きな落とし穴のように空いたその場所は丁度ルナが着地した位置。重力のままに下へと落ちていくルナ。だが、落ちているのは芥川も同じだった。


「空中ならば避けられまい」


芥川が黒布が黒獣へと変化する。


「《羅生門・顎》!!」


芥川の叫びと共にルナを喰おうと一直線に向かっていく黒獣。空中では足場がない。故に避けることは出来ない。


このまま胴体を喰われるだろう。


ルナは迫り来る黒獣を見て何処か他人事のようにそんな事を思っていた。死への恐怖など微塵もない。


だから、このまま死んだって構わない。


腹を喰われようが、頭を喰われようが、どんな残虐な殺され方をしようとも構わなかった。




––––––だけど……、




「頼むから。もっと手前の命を大事にしろよ」




脳裏を過るのはそんな中也の言葉。


揺れる蒼い瞳で私を見詰める。


どうして、どうしてそんな顔をするのだろう。


判らない。


判らないけれど……、



『もう、あんな顔、させたくないの』



ぽつりと呟いた言葉。それはルナの本心だった。自身の命など如何でもいい。けれど、中也が云った言葉が頭から離れない。中也の悲しそうな顔が頭から離れなかった。



ルナは前を見据える。迫りくる黒獣がもうそこまで来ている。死は間近。だが、ルナの瞳には強い“何か”が宿っていた。


『だから悪いけど、“抵抗”させてもらう』


右手をゆっくりと前に出してルナは呼んだ。


『おいで、イヴ』


–––––––––己の内に住う獣を。


ルナの周りを包むように湧き出た黒い影。そこから出てきた巨大な獣の腕が芥川の黒獣を切り裂いた。


「何!?」


何が起きたか判らず、芥川は目を見開いた。だが、次の瞬間には巨大な何かに体を圧せられる。まるで隕石が上から降ってきたかのような衝撃に芥川は血を吐いた。受け身を取らなかった体が地面に叩きつけられ軽い脳震盪を起こす。回る視界に芥川は自身の身に何が起こったのか顧みた。


何処からか出てきた何かに《羅生門》が裂かれた。どんな武器でも裂く事が出来ない《羅生門》をだ。


一体、何に?


骨が軋むような痛みに顔を歪ませながら芥川は体を起こし、ぐわんぐわんと回る頭を片手で押さえた。


––––––––––唸り声。


それが真上から聞こえて芥川は目を瞠って上を見上げた。そして、一瞬で呼吸を止めた。


大きな爪。鋭い牙。血のような赤い瞳。


それは、この世のものではない獣。


その白銀の獣が大きな爪を掲げて芥川を見下ろしていた。


冷や汗が額を流れる。震える体。


芥川は声もなく、体を硬直させて目の前の化け物を見上げていた。


今、芥川を支配する感情はたった一つ。


〝 恐怖 〟


戦慄が体に突き刺さる。これ程までに何かを恐ろしいと思った事があったろうか。死よりも“死”に近い恐怖。声を発する事すら儘ならない。


『イヴ、もういいよ』


その声に唸り声が止む。靴音を響かせながら獣の足元に悠々と立ったルナが無表情に芥川を見据えていた。



そのルナの瞳を見た瞬間、そして、自身の震える体、動かない体に気付いた時、芥川に再び叩きつけられたのは残酷な二字だった。


–––––––––敗北。


今度はもう成す術もない。勝てない。勝つことなど不可能。そう、ここでもう芥川は死んだのだ。ルナが本気で芥川を殺そうとしていたのなら。


「僕の、負けだ…」


認めざるを得ない。己の弱さに。


「敗者に生きている価値などない。……殺せ」


弱々しい声で芥川は俯く。


此処は強者のみが生きる闇の世界。ならば、敗者となった芥川はその道理に従う。もうルナを殺す心算はない。太宰が云ったように不可能だと悟ったからだ。己の弱さを知ってしまったから。


『私は貴方を殺さない』


ルナの言葉に芥川は顔を上げてルナを見る。いつの間にか巨大な獣は消えていてそこにはルナ一人が立っていた。


「何故だ…」

『抑も、私は反撃する心算なかった』


そうだ。ルナはどんなに芥川が挑発しても反撃することはなかった。それ故に何日も勝敗が付かずにいた訳だが。今まで攻撃を避け続けていたルナが何故今回反撃をしたのか。


「今更になって死を懼れたのか?」

『違う。私にはそんなものない。如何いうものなのかも判らない』


虚無な瞳。変わらぬ表情。ルナは感情を知らない。心を持たない人形だから。恐れを知らず、喜びを知らず、悲しみを知らずに今迄生きてきた。けれど…。


『でも、最近判ったの。胸が苦しくなると涙が出て、胸が温かくなると迚も心地よくなる』



–––––––––中也といると、心が苦しくて温かくて。


『だから、抵抗した。貴方と同じように』

「僕と同じだと?」

『貴方は死を望んでいない。だって、貴方は私より“生”に縋り付こうとしているから』


芥川はルナの云っている意味が判らなかった。


『貴方は私を殺す事で生きる事を認めて欲しいと思っている。自分の中に生きる価値を見つけようとしている。必死で、死に物狂いで、生きる証を得ようとしている』

「貴様に…、」


そのルナの言葉に拳を握りしめ、掠れる喉を無理矢理動かす芥川。


「貴様に僕の何が判る!」


その目には怒りや憎悪、形容し難い負の感情が宿り芥川を呑み込んだ。爪が掌に食い込む痛みも枯れるような喉の痛みも芥川は感じていなかった。ただ目の前のルナに己の感情をぶつけるように叫ぶ。


「僕に情けをかけている心算か!?巫山戯るな!そんな物いらぬ!僕が望むのは哀れみでも生でもない!僕の望みはたった一つ!」


–––––––僕の望みは……、


『でも、それは生きていなくちゃ得られないものでしょ?』

「っ…!」


目を瞠いて芥川はルナを見遣る。そこには変わらずの無表情。オッドアイの瞳が真っ直ぐ芥川を見据えたまま続けた。


『それが欲しいなら今迄のように死に物狂いでまた私を殺しにくればいい』


ルナはそれだけ云って去って行く。無防備な背中。今なら再び攻撃する事も出来る。けれど、芥川はしなかった。どうせ避けられるとか、もう勝てないからだとか云う諦めでもない。


気付いたのだ。自分が本当に望んでいるものに。それはルナを殺す事でも勝つ事でもない。本当の望みはそんな事じゃなかったのだ。


––––––––––ただ、認めて欲しかっただけ。


それなのに、己の中に広がった焦りと不安がいつの間にか自身の望みを見失わせていた。


芥川はもう一度思い返す。


己が望むものは何かと。


それはルナを殺す事で得られるのか?


芥川は自身に問いかける。そして、ゆっくりと立ち上がり、ルナが消えた先を見据えた。


見失っていた。

己の進むべき道を。

だが、完全に失くす前に気付かされた。


「…敵わぬな」


芥川は自嘲地味に笑った。だが、その瞳には怒りや悔しさ、憎悪も諦めもない。寧ろ暗闇だった道に光が差したような、新たな道が開けたような真っ直ぐな瞳だった。













***





–––––––––––あの日、僕には一つの望みが出来た。




『あれぇ。でも、龍ちゃんが私を殺そうとしなくなったのって何時からだっけ?』


顎に指を当てて首を傾げるルナさんを見遣る。



あの日から六年の月日が流れた現在いま


この月日の間、僕は……。




「ルナさん」

『ん?』

「……否、何でもありませぬ」

『えぇ!何々!?気になるじゃん!』

「……。」

『って無視なの!?一寸龍ちゃあぁん!!』

「その綽名はやめて頂きたい」





僕は、強くなっただろうか。



––––––––––––貴女に認められるくらい、強く。









* .・☆. 【追憶の六 禍狗の望み】fin .☆・. *
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