第九章 感情の欠片は追憶の中に

【 追憶の一 白銀の獣 】








死体が転がる血の海の真ん中に佇むルナを呼んだ。


血に染まった顔で振り返ったルナは俺を視界に捉えると、口元に笑みを浮かべる。


〝 中也 〟


ルナの前には手足が喰いちぎられた死体を咥え、低く唸る化け物が赤い瞳を光らせている。ルナと同じように俺を赤い瞳で捉えたそれは巨大な獣。


惨たらしい殺戮を終えた景色を前に、俺の背後に控えていた部下が青褪めた目でその化け物とルナを見ているのが判った。敵は殲滅したと云うのに銃を構えるのを止めない部下。


菊池ルナが懼れられる理由。


それを俺が知ったのはいつの日だったか。




覚えているのは


この世のものではない巨大な生き物への恐怖と


輝く白銀の毛並み。


そして、血のように赤い瞳の美しさだった。










____7年前の追憶____




「中也や。これを鴎外殿に届けてはくれんかのう?」

「はい、姐さん」


紅葉の姐さんから書類の束を受け取り、俺は首領の執務室へ向かう。


硝子張りの昇降機から見える横浜の街。今日の天気は快晴だ。硝子に反射して太陽の光が一層にこの街の景色を引き立たせていた。それに反して、昇降機から降りた後に続く廊下は淡いランプが灯るだけの薄暗さ。雰囲気の所為か廊下はひんやりとしていて、肌に突き刺さると迄はないが、薄手の生地だと身震いはしてしまうだろう涼しさを感じた。幾多の監視カメラが作動する長い廊下を終え、辿り着いた首領の執務室。扉の前に立つ見張りの黒服達に名と要件を告げ、その扉を開けた。


「首領、中原です」

「うげっ。最悪のタイミングだ」


首領の返事より先に聞こえたその声に眉間に皺が寄るのが判った。そこに糞太宰が居たからだ。奴は首領を前にして此方を振り返り、心底厭そうに顔を歪めていた。


「何で手前がいやがる」

「それはこっちの台詞だね。用が済んで戻ろうって時に君と出くわすなんて。はあ、最悪だ」

「それこそこっちの台詞だ包帯野郎。何で会いたくもねぇ手前にはこうも会いやがンだ」

「はいはい。君達、その辺で。太宰君はもう戻っていいよ。中也君は、何か用かね?」


首領の声で睨み合っていた太宰から視線を外し、俺は首領の前まで進み、書類を首領に渡した。


「紅葉の姐さんからです。代わりに俺が」


手渡した書類をペラペラと捲りながら確認していく首領を待ち、ふと視線を背後に向ければそこにはまだ太宰がいた。早く帰れよ、と目で訴えるが太宰は何かを思いついたのかニヤッと胡散臭い笑みを浮かべている。


「うん、問題ない。御苦労だったね、中也君」

「いえ。では、失礼します」


頭を下げて戻ろうと身を翻し、扉に向かえば太宰が「そういえば森さん」と首領にそれはそれは愉快な声で話しかける。


「明日もルナを借りるよ」


ルナ、という名で無意識に扉に向かっていた足が止まる。


「嗚呼、構わないよ」


首領の許可にそれじゃ、と俺の横を鼻歌を歌い出しそうな足取りで通り過ぎていく太宰。ドアノブに手をかけた太宰に「おい」と声を掛ける。


「何の為に彼奴が必要なんだ?」


何故こんな事を聞いているのか自分でもよく判らないが、先刻、“明日も”と、“も”を強調して云った此奴が気に食わない。そんな俺を知ってか知らずか振り返った太宰は何とも嫌味ったらしい笑顔で、「教えなーい」とケラケラ笑いながら部屋を出て行った。
あンの野郎!!


ピキッと血管が切れるような感覚で怒りがふつふつと湧き上がってくる。此処が首領の執務室じゃなかったら一発蹴りをお見舞いしていたところだが、ここは盛大な舌打ちで耐えた。



太宰の口振りから奴はルナとよく逢っている事が判った。俺はあまりルナとは逢っていない。時折、首領執務室に来てもその姿を見る事は稀。だからこそ、「僕は君が中々逢えないルナに逢えたるんだよ。いいでしょー」とでも云っているあの勝ち誇ったような糞太宰の笑み、それが癪なのだ。


再度舌打ちを溢した俺の耳に聞こえたくすくすと笑う声。眉を潜めて振り返る。首領が口許を押さえて笑っていた。何か可笑しなところでもあったろうか。


「安心し給え。ルナちゃんは私が太宰君に任せた任務の手伝いをしているだけだ。行動をずっと共にしている訳ではないよ」

「えっ…。いや、俺は別に」


俺が今考えていた事を見透かしている。そんな首領の口振りに言葉が詰まった。何となく居た堪れない気持ちになり、俺は早々に部屋を出ようともう一度首領に頭を下げ、扉に手をかけた。


「今、ルナちゃんは屋上にいるよ」


思わず振り返って首領を見据えれば首領は目を細めて微笑んでおり、そして続ける。


「もし会いに行くのなら、気をつけなさい」





***




首領が云った意味を俺は理解できなかった。一体、何に“気をつけろ”と云うのか。その言葉の意味を考えながら屋上へ続く階段を上がっていく。上に上がるにつれて大きくなる風の音。


それを聞きながら階段を上がる俺はふと思い留まる。何で俺はルナに逢いに行こうとしてんだ。その理由が浮かばず、先刻まで軽やかに進んでいた足を止めて踵を返す。しかし、片足を一段下に付けた時、ふとルナの顔が浮かんだ。


「(……少し顔を見に行くだけだっつーの)」


俺はもう一度方向転換し、一つ上の段に足を運んだ。




何段上がっただろうか。漸く辿り着いた扉。それを開けて屋上へと出る。空が近い為、澄んだ空気を全身で感じる。照りつけてくる太陽の眩しさに目を細めながら俺は前方を見た。



そして、目を瞠る。


驚きの声が喉から発せられる前に空気となって喉から鳴った。



風がふわりと吹き抜ける開けたその場所。
そこに居たものを見て一歩後退った。


大きく鋭い赤い瞳が此方をジッと見据えている。静かに体を伏せて、動くわけでもなく、ただ此方を観察するように。


––––––巨大な獣。


人の何十倍にも及ぶ巨体。姿形は犬…、否、狼と云った方が正しいか。だが、明らかにこの世のものとはかけ離れた存在。



ふと、俺はその獣の脇腹に微かに動いたものを見た。大きな尻尾に隠れてよく見えないが、微かな隙間から綺麗な水浅葱色が覗いた。


「––––––ルナ」


それは確かにルナだった。


巨大な狼に躰を預け、横たわっている。
ルナは眠っているのだろうか。



一歩一歩足を前に出し、近づいていく。俺が近づく間、一瞬も目を逸らす事なくその大きな瞳に俺が映っているのが判った。巨大な獣の影がルナの顔に照りつける陽の光を遮り、時折吹き抜ける風で体が冷えないように白い毛並みの尾がルナの体に優しく掛けられている。その姿はまるで我が子を守る母親のようだった。



初めて、彼女が寝ている姿を見た。


「ルナ」


もう一度名を呼び、眠る彼女に手を伸ばす。


その瞬間、全身の鳥肌が立つ。
体中に突き刺さる殺気に体が悲鳴を上げた。


辺りに響く地獄の底から這い出たような唸り声。赤い瞳がより一層鋭さを増し、狂気を宿して俺を睨みつける。唸る口から鋭利な牙を剥き出しにするその姿に額から厭な汗が滲み出た。



地獄の権化のようなその唸り声はルナに近づく敵を噛み殺さんばかりの威嚇。



その時、俺の脳裏にある噂が過った。マフィア内はおろか裏社会にはルナについて多くの流言飛語が飛び交っている。その中でも群を抜いて異様な噂。



“菊池ルナは白き化け物を従えている”



そんな噂だった。



––––––––白き化け物。



それが今、俺の目の前にいるこの獣のことなのだろう。俺はいつでも戦闘態勢に入れるように身構えた。だが、此処で此方も殺気を向けたら最後だろう。重力だけで防げるかも判らない。一瞬で噛み殺されるかもしれない。


体が小刻みに震える。武者震いなら嬉しいが残念ながら違う。勝てねぇと思ったものに出会した時の頭より先に気付いた体の反応だ。



額に冷たい汗が伝った。


だがその時、唸り声に混ざった小さな声が耳に届いた。俺はそのくぐもった声への主へと視線を向ける。


閉じられていた瞼がゆったりと開かれ、睫毛の影を落としながら左右色の違う瞳を覗かせた。数度瞬きを繰り返したその瞼は俺を映す。


『……ちゅ、や』


俺の名を呼んだのだろう。まだ寝ぼけているのか細まった瞳で俺を見ているルナに自然と頰が緩む。ルナの前に腰を下ろそうとした時、また唸り声が響いた。警戒されている。ルナに近づく者は容赦ないという訳だ。首領が俺に“気をつけろ”と云った理由はこの事だったのだろう。


『イヴ、大丈夫』


獣の毛並みを撫でながら呟いたルナの言葉に反応し、唸るのをピタリと止めたその獣は瞳を閉じて、上げていた顔を伏せた。目を閉じ眠るそいつの横顔を撫でて、俺に『何か用?』と尋ねてきたルナ。前にも似た問いに苦笑しながら、俺はルナが撫でるそいつに視線を向ける。


「其奴は、イヴ、つっーのか?」


小さく頷いたルナはイヴから視線を離し、此方を見据える。光が宿らない瞳はいつも何を映しているのかは判らない。左右の瞳は色の違うオッドアイ。そして、その右目は人間とは思えない程に異様で美しい瞳。


「(人間とは思えない、まるで獣のような……)」


––––––獣?


俺はハッとしたして瞳を閉じているイヴへと視線を移した。そうだ、イヴの目を見た時、感じていた違和感。それの正体に今気がついた。


イヴの血のように赤い瞳。
ルナの血のように赤い右の瞳。


これは偶然か?


–––––––––否、そんな筈ないだろう。



「なぁ、ルナ。手前の、その右目_____」

「ルナ」


俺の言葉は続かなかった。後ろから聞こえた胸糞悪い声に遮られたからだ。


「チッ、何の用だよ糞太宰」

「はあ?君に用なんかないさ。……と云いたいところだけど、森さんからの指示だ。僕達に仕事が来た」

「達ィ?誰のことだそりゃ」

「僕と君、そして、ルナ」


太宰は俺達を指を順番に差し、「敵対組織の殲滅だってさ」と気怠そうに仕事内容を云った。


「如何やらつい先程ポートマフィアのフロント企業が襲撃を受けたらしい。宣戦布告だね。新首領を立てた今のポートマフィアだからこそ、挙って虫けらが湧いてくるんだ。はぁ、面倒臭い」


深い溜息を吐き出しながら階段を降りていく太宰を見送り、背後を振り返る。立ち上がったルナを見届けて黒い影となって消えたイヴ。ルナは相変わらず無表情で、俺の横を通り過ぎた。結局、訊きたかった事は訊けないまま。




***




「あちゃー、これは派手にやってくれたね」


黒煙が上がるビルを見上げ、太宰が場に似合わない声で呟いた。黒服の構成員は短機関銃を構えたままこの任務の指揮権を任されている太宰の指示を待つ。

中也はと云うとそんな太宰の隣で、何でこんな野郎の指示に従わなきゃなんねぇ、と乗り気ではない。が、仕事は仕事。首領の命である限り、任された仕事はきっちりこなす心算ではいる。


「敵はビルの中で僕達が潜入してくるのを待ち構えているだろうね。勿論、重装備で。……さて、この場合は如何したものかな」


顎に手を置きボソボソと一人呟く太宰は視線を彷徨わせて黒服の男達を見た。こちらも負けも劣らず重武装。人数こそ少ないが、突撃すれば勝算は十分にある。しかし、太宰は興味なさそうに黒服から目を離し、今度は中也を見た。目があった事で「ンだよ」と最大限に顔を顰める中也に冷めた視線を送り溜息を一つ。


そして、最後に自分の一歩後ろにいるルナへと視線移した。相変わらず無表情な彼女は目を逸らすことなく太宰を見据えている。顎に手を当てたまま太宰は薄く口角を上げた。


「よし、作戦が決まった。今から潜入する。
但し、ルナ、君一人でだ」

「はあ?」


太宰の作戦に顔を顰めた中也。同時に黒服達も同じようにざわつきを見せる。


「ルナ以外の者は全員この場で待機だ。もし、ビルから漏れ出てきた奴がいれば始末する。それじゃあ、作戦開始」


静かな声で太宰がそう云った瞬間、更にざわつきが広がった。その場を緊迫として空気が呑み込む。それは太宰の胸倉を中也が掴んだ故だ。


「巫山戯た指示出してんじゃねぇぞ包帯野郎。ビルん中は敵組織の野郎どもがわんさかいやがる。そん中にルナ一人で行かせるってのか!?自殺行為だンなもん!」

「ルナ一人なら被害少なく敵を殲滅し終える。僕はこれが最適解だと思うけど?」


鋭利な瞳の太宰を睨み付けて、中也は歯を食いしばる。本当にこれが最適な作戦だと迷いのないその態度に更に胸の内から怒りが湧いて出た。何をそんなに苛ついているのかわからないまま中也は胸倉を掴む手に力を込める。


『命令は、敵の殲滅?』


誰も声を掛けられなかった雰囲気を破いたルナが睨み合う二人に近き、太宰に問う。太宰は一言「嗚呼」と頷いた。通常、ルナへの命令権は森鴎外にあるが、「太宰君と行動を共にする時は彼の命令に従うように」と云う命令を森から受けている為、ルナの命令権は太宰にもあった。


だからこそ、ルナにとって命令を受ければそれを実行するだけだ。


何も云わずにビルの入口へと進んで行くルナに中也は掴んでいた太宰の胸倉を離して、その小さな背中に呼びかける。


「おい、ルナ!待て!おい聞いてんのか!」


呼び止める声など無視してルナはビルの中へと消えていった。それに舌打ちをして、追いかけようとした中也の肩を太宰が掴んで止める。


「てめっ、離しやがれ」

「指揮権は僕にあるんだ。ちゃあんと従って貰わないと困るよ」

「最低な野郎とは思っちゃいたが、ここ迄とは救いようがねぇぜ。無謀にも程がある。女一人潜入させんのが作戦たァ。ルナに何かあったらどう責任取る心算だ手前」


肩に置かれた手を振り払って太宰を睨み付ける中也。殺気が含まれているその瞳を見て、太宰は呆れたように一つ息をついた。そして、温度を感じない瞳を中也に向ける。


「中也、君はルナあれを何だと思っているんだい?」

「あ"あ?」

「か弱い少女?それとも子供?守ってあげなきゃいけない女の子?そんな風に思っているなら、それは大きな勘違いだ」


腕を組み太宰は中也を睨み付ける。その瞳はまるで間違いを犯した者を罰する目。何も知らない愚かな者を蔑む目のようだった。そして、「君達も知っておくべきだ」と背後を振り返り、佇む黒服の構成員達に怜悧な目を向けた太宰は続ける。


「たかが齢13の少女が何故首領の護衛を任されているのかをね」


太宰がそう云い終えた瞬間、地面を震わすような轟音が響き渡った。それは獣の咆哮。地獄の底から湧き出たようなその唸り声に其処にいた全員がビルを見上げた。


鳴り響く銃声と悲鳴を掻き消すようにその咆哮はどこまでも響き渡る。全ての音が鳴り止んだのはそれから数分のこと。


ビルを見上げる中也の脳裏には白銀の獣の姿が映っていた。屹度、あの咆哮はルナがイヴと呼んだあの獣のもの。


冷や汗を垂らす黒服の男達を横目に見た太宰は「却説」と呟いて歩きだした。


「そろそろ僕達も潜入しようか」


それだけ云ってビルの中へと入っていく太宰を見て、黒服の男達は互いに顔を見合わせる。戸惑う黒服達を押し除けて中也は太宰の後を追いかける。それに続くように漸く黒服達も動きだした。




***



噎せ返る血の匂い。
バラバラに喰いちぎられた死体。


それが道端に転がる小石のように点々と転がっている。


奥の大広間。空間が広がるその部屋はまさに血の海だった。俺の後ろで声を失った黒服達が無意識に銃を握り締めたのを感じた。


その場にいた全員が呼吸を忘れていただろう。


目の前に広がる光景。


死体が浮かぶ血の海の真ん中に佇む少女。
その傍らには巨大な白銀の獣。


異様なその生き物とその光景に一人の黒服が呟いた。


「ば、化け物…」


それは何に対しての言葉だったのか。


この世のものとは思えない白銀の獣にか?


–––––––––それとも……。



オッドアイの瞳が俺達を映す。
氷のように冷たい無の表情。
血に染まったその顔からは何の感情も感じられない。


「これで判ったろ?あれが菊池ルナだ」


俺にしか聞こえない声で太宰は続ける。


「か弱い子供でも、守ってあげなきゃいけない女の子でもない。
––––––––––あれは……」



太宰はその続きを云わなかった。一度だけ俺の方へ視線を向けた後、固まっている黒服達に指示を出し始め、この場の片付けを始めた。



俺はその指示を聞かずにルナの元に足を進める。此方を見たまま動かないルナの前で止まって血に染まった顔を見据えた。




––––––それは大きな勘違いだ



脳裏に太宰の声が響いた。


確かにそうなのかもしれない。


此奴は守られる側じゃない。自身を護る術も相手を殺す術も全て備わっている。だからこそ、首領はルナを護衛として傍に置いている。


だが、死体が転がる血の海の真ん中で、仲間にさえ“化け物”と懼れられたルナの瞳は迚も孤独の色を宿していた。


それでも、それが寂しいことだとさえ感じない冷たい瞳。だが、俺にはその瞳が悲しそうに見えた。迚も寂しそうに。


俺をジッと見据えてくるルナの方へと手を伸ばす。そのまま柔らかい髪に触れて頭をそっと撫でた。


「無事でよかった」


勘違いだ。そう云われようが構わなかった。たった一人で圧倒的な力を持って敵を殲滅してみせたルナ。だが、どんなに強くても化け物と懼れられても、そんな事は関係ない。



俺は此奴の事は何一つ知らない。


何故、人にある筈の感情が欠落しているのか。

何故、 その右目がイヴの瞳と同じもの・・・・・・・・・・・・・・なのか。


俺は菊池ルナを知らない。


だがらこそ、これからはもっとお前の事を知っていきたい。




 






––––––––––7年前のこの時。




俺は、そう思ったんだ。









    

     * .・☆. 【追憶の一 白銀の獣】fin .☆・. *
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