第六章 救済の標べ





「おや?…織田作ー!」


先程まで部下に冷淡な声で指示を出していた太宰が弾むような声でその名を呼んだ。


スキップし出しそうな軽やかな足取りで駆けていく太宰。“織田作”と呼ばれた男はそんな太宰に視線を向け片手を上げて返事をした。背の高い赤毛の男。初めて見る顔だった。


私は遠くから二人の姿を眺めていた。


見た事ない顔をしている。


織田作と云う男と話している太宰を見て私はそう思った。いつも“退屈”を言葉にしたような表情をしている太宰がこの時は“退屈”から解放されたように見えた事を今でもよく覚えている。


だが、この頃の私はその太宰の表情にも織田作と云う男にも全く興味はなかったのだ。






***





ポートマフィアには“マフィアになる為に生まれてきた”と云われ、恐れられる人物が二人・・いる。


「やァ、織田作。」


一人はこの男、太宰治。


少年とも見紛うような若造だが、彼のマフィアでの偉業、闇と血のリストを見れば誰もが震え上がる。


俺はいつものように片手を上げて返事をし、太宰の隣に腰かけた。


杯を手で遊び乍ら今日あった仕事の内容を詰まらなさそうに話す太宰。銃撃戦があったらしい。太宰はまた死にそびれた、と至極残念そうに呟いた。太宰の体は包帯がいくつも巻かれている。増えたそれに銃撃戦の際に負った怪我かと問うたら、太宰はニコニコと笑顔を向けながら「排水溝で転んだ」と答えた。


太宰と話すのは飽きない。少し変わっているが興味深い話が聞けるからだ。喩えば物凄く硬い豆腐の製造に成功したとかだ。薄く切って食べれば旨いらしい。今度食べさせて貰うことにした。


豆腐の話で盛り上がっていれば、バーに新たな客がやってきた。丸眼鏡と背広と云う学者風な格好をした男、坂口安吾だ。彼は呆れた目を俺達に向けながら太宰の隣に腰掛けた。


今日は何に乾杯しようかと俺は空中を見て考えた。そして、徐に出てきた。


迷い犬ストレイドッグに」


俺の言葉に二人はグラスを持ち上げる。


「「迷い犬ストレイドッグに」」


店内には静かにグラスの音が響いた。




その後も話が弾んだ。いつものように言葉を交わすだけ。だが、それが心地よかった。太宰は俺の仕事内容を聞いて目を輝かせていたが、俺の仕事なんて大したものじゃない。寧ろ誰もやりたがらない仕事だらけだ。会話の途中、突然太宰が写真を撮ろうと提案した。




三人並んで写真を撮った。


一葉の写真。
そこに映るのは三人。


ポートマフィアの五大幹部である太宰治。
専属情報員の坂口安吾。
最下級構成員である織田作之助。


彼等は立場や年齢が違う。だが、彼等の関係を言葉に表すのであれば、世間一般で云う“友人”と云われるものだった。


それを形として残したのは後にも先にもこの一葉の写真だけとなったのだ。





***




ポートマフィアの本部ビルに或る男が立ち寄った。彼は緊張した面持ちをしていた。何故なら、彼はポートマフィアの最下級構成員。本来なら本部に足を踏み入れることすらない。



その男、織田作之助は上昇する硝子張りの昇降機から横浜の街を眺めながら考えていた。非合法組織ポートマフィアのトップである首領が自分のような下級構成員に一体何の用件なのかと。頭に浮かんだ単語を三つ、《用済み》《排棄》《人事整理》。


緊張しない訳がない。薄暗いカーペットが敷かれた廊下を歩く足がやけに重く感じた。所々に立つ黒い背広服の見張りに名を告げ通してもらう。それを幾度となく繰り返しながら漸く目的の部屋へと辿り着いた。


見張りの黒服によって開けられた扉。その扉の先にはまるで地獄の閻魔が待ち構えているような気がして脚が凍ったように動かなくなる。だが、織田は一度深呼吸をしてから、「首領、織田です。入ります。」と告げ中へと足を進み入れた。


「ねぇエリスちゃん、ドレス着てよう。一瞬ちょこっと!一秒さっと着るだけ!」

「厭よ」


不穏な声が部屋に響いた。

その声の主はポートマフィアの首領、森鴎外。そして今、首領は自分の趣味を無意識にお披露目している処だ。偉大なポートマフィア首領としては有り得ないし考えたくもない絵である。




だが、織田はそこに突っ込む事なく首領に用件を問うた。暗くなる室内。先程まで横浜の街を映していた硝子窓が通電遮光され厳重な灰色の壁面に覆われる。


「却説、織田君。君は何も見ていない。善いね?」

「はい、何も見ていません。首領は幼女の着替えに忙しい中、俺のような者に時間を割いてれました。それで、ご用件は?」

「ふむ……ん?まぁいい。それで用件というのはだね」


織田の言葉に一瞬引っかかったが、特に気にせず本題に入る。そして、森が織田を呼んだのは、用済みでも排棄でも人事整理でもない。人探しであった。


その人物はつい昨日酒場で飲み交わした男、坂口安吾。


マフィアの情報員である坂口安吾の行方の調査。もう既に殺されているかもしれない、或いは自分の意思でポートマフィアから手を引いたのかもしれない。理由は判らない。だが、探す必要がある。何故なら首領の命令は絶対だからだ。



「これを持って行きなさい」


森はそう云って或る物を取り出す。それは“銀の託宣”と呼ばれるものでこの紙片の所有者の発言は首領の発言に等しい、と云う事を示すもの。


「これがあれば幹部でも顎で使える」


森はにっこりと笑って銀の託宣を織田に渡す。それを受け取った織田は丁寧に折り、内ポケットにしまった。


「そう云えば、君は幹部の太宰君とは個人的な友人なのだったね。立場を越えた友情という訳だ」


森は微笑みを崩さぬまま云う。まるで興味深いものを見つけたような瞳だ。笑顔を絶やさぬまま森は続けた。


「彼は優秀だ。あと四、五年もすれば私を殺して首領の椅子に座っているだろうね」


冗談なのだろうか。首領の真意は何年経っても読み取れないだろう、と織田は汗が滲む掌を感じながら心の中で驚いていた。


森に頭を下げて踵を返した織田に「織田君」と呼び止めた森。そして、興味深そうに視線を織田に向けたまま笑顔で問う。


「君は肩から下げているその銃で人を一度も殺した事がないと云う噂だが、何故かね?」

「その質問は組織の長としての命令ですか?」

「いいや、私個人が発した単純な興味だよ」

「なら、答えたくありません」


森はその織田の言葉に一度きょとんと目を丸くたが、数秒後吹き出すように微笑した。


「そうかね。では行き給え。善い報告を期待しているよ」






**




俺は首領の部屋を出た後、再び長い廊下を歩いていた。重い空間から抜け出したようにどっと緊張感が抜けたような気がした。だが、自分の懐にある銀の託宣がやけに重い。首領直々の命令であり、然も坂口安吾の行方の調査に向かうのだ。失敗など許されない。気を引き締めるように先ずは何処から調べるかと頭を回した。


そんな時、前から一つ人影が歩いてくるのが見えた。俺は足を止めた。


黒い布のような服を纏い、首には緑色のマフラーを巻いている。一見遠くから見ると死神に見間違うような格好。その人物は毛先が白銀に染まった水浅葱色の髪の小柄な少女だった。


彼女は足音を一切立てずに此方に向かって来ていた。前から来たから気付いたものの、後ろから来ていたら決して判らなかっただろう。


俺は道の端に避けた。
後ろ手で腕を組み頭を下げて敬礼した。


少女が俺の前を過ぎた時、急に彼女が足を止めた。


俺は頭を上げることなく暫くそのままだった。だが、少女は歩みを止めたまま動かない。いつまで下げていればいいのか、上げるタイミング判らなくなったが、それから少しして俺は顔を上げる。


オッドアイの瞳が俺を映している。


色の違う二つの瞳がじっとこちらを見て緊張感が走った。吸い込まれそうな瞳だ。特に異様なのは右目。血のように赤く鋭い瞳孔。人ではないみたいだ。


沈黙が数秒続いた。だが、俺にはその短い時間でさえ長く感じ、額に汗が滲むのが判った。こう云う場合、先に声を発して善いものかと悩みながら沈黙を続けた。


しかし、その沈黙を破ったのは意外にも少女の方だった。


『貴方、太宰の…、友人とか云う人?』


正直驚いた、彼女程の人が俺のことを知っていた事にだ。


俺は彼女に会った事は殆どない。
だが、噂では幾度となく聞いていた。


彼女の名は、菊池ルナ。


不思議なオッドアイの瞳をしているとポートマフィア内ではよく知られている事だ。


そして太宰と同様、“マフィアになる為に生まれてきた”と云われている一人。


その幼い容姿からは想像も出来ない程、闇と血で染まっている。齢はまだ16歳だというのに首領補佐を務め、そして、首領の専属護衛でもある。


「俺を知ってるんですか?」

『太宰が、話していた。“織田作は面白いから一緒にいて楽しい”、って。貴方が太宰と一緒にいたのを見たこともある』


一体いつだろうか?その考えが一度は頭を過ったが止めた。思い出しても仕方ない。


『首領に呼ばれてた?』

「はい。命令で人探しを」

『…そう』


小さく呟いた彼女は歩みを進める。恐らく首領の元へ行くのだろう。


下級構成員の俺が彼女に会って話したともあれば同僚に自慢できそうな程光栄な事だった。それ程、彼女の噂は黒社会内で有名だからだ。だが、有名であってもその容姿を知る者は数少ない。噂では年老いた男、屈強な男、痩せこけた老婆、美しい女。噂される容姿はバラバラで誰もその正体を知らない。知られているのは血のような赤い瞳を持つオッドアイである事と“闇の殺戮者”という異名。誰もこの幼い少女がそうだとは思わない。だからこそ、恐ろしい事である。

しかし、俺は下級構成員でありながら彼女の事をよく知っていた。それは太宰繋がり。よく太宰がバーで彼女の事を話しているからだ。



歩み出した彼女の背中を見て、俺も仕事をしなくては、と逆方向へ進もうとした時『…ねぇ』と後ろから声を掛けられ俺は振り返った。


彼女も同じように振り返ってが此方を向いている。何も感じ取れない無表情な顔で。


「何か?」

『友人、ってどんな感じ?』


それは喩えるなら、まだ幼い子が学校の教師に投げかける単純な問いのような感じだった。何も知らない無垢な子供が興味あるものを知りたくなった瞳。なんてことない質問だ。だが、否、だからこそ答えるのが難しかった。俺は数秒考えるように顎に手を当てた。


「友人って云うのは……、何でも気軽に話しが出来たり、相談に乗ったりしてもらったりする関係、のことですかね」

『じゃあ、私にとって中也は“友人”にもなるの?』


……中也?


「中原準幹部のことですか?」


こくりと頷いた彼女にどう答えたらいいか戸惑う。何故、ここで中原中也の話になったのか判らなかったからだ。その時、俺は以前太宰がバーで云っていた事を思い出した。


「そう云えば最近、中也とルナが付き合いだしたらしい。マフィアともあろう者がやい恋だの愛だのほんとお気楽な二人だよまったく」


不機嫌そうにそう云った太宰の話に結構驚いたのを記憶している。……と、なると先程の彼女の質問には否定しといた方がいい気がした。

確かに他人との関係は言葉一つで表さなくとも幾つもあっていいだろう。喩えば「知り合い」「同僚」「友人」「恋人」。世の中にはそう云う関係を表す言葉があるが、「友人」であっても「同僚」である場合があるし、もっと云うと「知り合い」でもある。だが、それぞれその単語に込められた関係の深さは異なる。「恋人」と「友人」を比べる場合、男女の関係であるなら「恋人」の方がより近い関係を表すように感じるだろう。


「いや、貴方と中原準幹部は“友人”とは少し違うと思います」


俺は思った事を正直に答えた。


その答えに彼女がどう感じたのかは判断出来なかったが彼女は『そう…』とだけ云って再び歩みを進める。


それ以来、彼女はもう振り返ることはなかった。
結局、彼女が何を訊きたかったのか判らないまま。




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