第十六章 蠱惑な蝶よ、魅惑の花よ



イヴの背に乗って向かったのは、横浜の街外れにある山際だった。


爽やかな風が揺らす草原に足を付けた中也は目の前に広がる花畑に目を瞠る。


「こんな場所、あったんだな」

『えへへ、凄いでしょ』


中也の手を引きながら軽やかな足取りで花畑へ歩き出すルナは自慢げな表情で微笑んだ。


『この場所はね、前に任務終わりにイヴの背中に乗って拠点に帰ろうとした時に見つけたの。空から一瞬見ただけだったから、こんなに沢山の花が咲いてるとは思わなかったけど』


日の光に照らされ、優しい風が吹く度に柔らかく揺れるその白い花々はまるで純白の絨毯のようだった。


その中をルナは花を踏まないように優しく歩く。鼻歌を歌いながら手を引く彼女の背中を見つめ、「躰はもう大丈夫なのか?」と中也は問うた。


先刻医務室を飛び出すように出てきてしまったが、ルナは重傷を負っていたのだ。無理をして此処に来たのならば今直ぐにでも戻って安静にしていた方がいい。そう思ったのだが、ルナの足取りは思ったより軽やかでルナ自身も『大丈夫だよ』と小さく微笑む。


そのルナの微笑みを見ると中也の脳裏に過去の記憶が過った。


傷だらけで微笑むルナ。その傷の理由を決して云わなかった。『大丈夫だよ』と安心させようと見せるその微笑みを見て見ぬ振りをしてはいけなかったのに。


「なぁルナ、覚えてるか?四年前、お前が太宰に理不尽な暴力を受けていた時のこと」

『………。』


ルナは中也のその言葉に口を噤む。するりと引いていた手も離れた。


中也は黙ってしまったルナの背中から、視線を下に落とし、地面に広がる白い花を見つめながら過去を思い起こす。



太宰がルナに与える暴力は、太宰の“娯楽”だと思っていた。まるで玩具を乱暴に使う子供の気紛れのようなものだと。実際、太宰のルナに対する扱いは昔からそうだった。まだ太宰がポートマフィアにいた頃、それは目に余るものさえある程に。


それでも、それが太宰の娯楽であれどうであれ、太宰がルナを傷付けているという事実が中也には腑が煮え繰り返す程、赦せなかった。


———————だから、4年前のあの日。



『……うん、覚えてるよ。中也、私の為に怒ってくれたもんね。五大幹部だった太宰を殴り飛ばして、謹慎を喰らっちゃって』


中也はルナが太宰に暴力を受けているのを見た。太宰とルナが共に行う任務前はルナが怪我をする。その理由を、その時その光景を見た時に理解した。


「嗚呼。だからあの時、俺は思った」


中也は自身の掌を見やり、力を込めて拳を握り締める。あの時、拳に感じた痛みを思い出すように。


「これ以上お前を太宰の側にいさせちゃならねぇって。昔からあの野郎はお前を物扱いしてやがった。俺はそれが赦せなかった。お前を俺の目の届くところに置いておかねぇと、また彼奴に傷付けられちまうと。

……だが、それは」



「——————君に、汚濁を使わせない為だ」



今更、本当の理由を知った。


太宰に理不尽な暴力を受けていた理由も。
マフィアを抜けた太宰の命令に従う理由も。
自分の身を犠牲にする理由も。


全部、全部、全部。


「俺の所為じゃねぇか」


今になって知った自分の不甲斐なさ。


守っていた、守りたかった筈なのにルナを傷付けていたのは紛れもなく自分だ。


「お前はいつだって俺の為に傷付く」


中也は握っていた拳を力無く下ろした。


後悔とやるせなさ、そして自分自身への怒り。その感情が中也を支配して、自分の不甲斐なさに絶望する。こんなにも自分の手が弱く、大事なものがすり抜け落ちていく感覚が、酷く痛い。


風が吹いた。


今の中也にはその風が酷く冷たく感じた。その冷たさを噛み締めるように瞳を閉じる。



『ねぇ中也、

———————見て』



だが、冷たい風の合間からルナの優しい声が聞こえ、閉じた瞼を開ける。


その瞬間、白い花弁が舞い上がった。


風に揺れた花はまるで穏やかな日の光を祝福するかのように白い光となって煌めく。


中也は目を見開いて、その美しい景色の真ん中で両手を広げて空を仰ぐルナを見やる。


『とっても綺麗でしょ。でも、昔の私はこの景色を見ても〝綺麗〟何て思わなかった。あの頃の私は何も見ていなかったから。綺麗な景色も何もかも。視界に入っていた筈なのに、見えてなかった。見ようともしていなかった』


ルナは視界いっぱいに広がる白い花畑を眺めながら穏やかな空気を吸い込むようにその場で深呼吸した。花が風に揺れ、花弁と共に優しい香りが宙を舞う。


『でも、今は違う。中也と出逢って、中也を好きになって。この世界にはこんなにも美しい景色があるんだって知った。何もなかった灰色の世界に、光が差したみたいに』


ルナはそう云って振り返った。白いワンピースがまるで花弁のように揺れる。風が吹き、花とルナの美しい髪を穏やかに靡かせた。



『——————中也が私に光をくれたの』



光と花々に包まれながらルナは穏やかに笑った。


その微笑みは目を奪われる程綺麗で、この世の何よりも美しい。


『中也が傍にいたから、私はこの世界の美しさを知れた』


中也がどれだけ沢山のものをくれたのか。
中也は知らないだろう。


ルナにとってそれがどれ程かけがえのないものなのか。


果てしない闇を彷徨い続けるルナに手を差し伸べ、その暗闇に眩い光を照らしてくれた。ルナの心に幾つもの感情を芽吹かせてくれた。


この世で唯一のルナの光。


この世の何よりも愛しい人。



『だからね、中也。私の傷に貴方が自分を責める必要なんてない。どんな傷でも、それが中也を守れた証ならばそれは苦しみにはならない。決して』


だから、

だから、どうか、


『中也、中也。私の光。


これからもずっと、ずっと


———————私の傍にいて』



ルナは中也の傍に歩み寄り、触れるだけの優しいキスをした。


ふわり、と花の香りが二人を包む。



静かで、優しげで、儚い世界。


二人の吐息と風で花々が揺れる音以外何もない。


二人だけの美しい世界がそこにあった。



そっとルナの唇が離れる。
ルナはふわりと花ように微笑んだ。



この世の何よりも彼女は美しい。
その愛らしい笑顔に魅了される。



中也はルナを見つめ、その小さな躰を引き寄せた。そして、強く抱き締めた。ルナの想いに応えるように強く。


背中にルナの手が回るのを感じた。愛しい温もりが腕の中にある。それだけでこの世界の全てに温かな光が差し込んだようだった。


「好きだ」

『うん』

「好きだ、ルナ」

『うん。私も大好き』


声が震えていた。ルナの耳元で中也は何度も彼女に愛の言葉を囁く。


ルナが傷付く度に自分の不甲斐なさを思い知った。自分の所為でルナが傷付くならば傍にいない方がルナの為になるのではないかと莫迦な事を考えた。


そんな事、ルナはこれっぽっちも望んではいないのに。ルナは自分を光だと云ってくれた。かけがえのないと。


「(——————俺の方こそ)」


何よりも大切で、愛しい女。


その手を離す事なんてできやしない。
離したくない。誰にも奪われたくない。


「ルナ」


愛しい彼女の名を呼び、その唇に深く口付けた。
口付けたまま決して離さないように抱き締める。


風が中也とルナの髪を揺らした。もうその風は冷たくなどなかった。迚も心地よく、温かな風。甘い香りと白い花弁を乗せて飛んでいく。


白い花々は儚い徒花であれ、この美しい世界に幾千も咲き誇る。その景色は全ての者の目を奪う程の美しい。


その美しく繊細な花々の中、中也とルナは何度も何度も口付けを交わした。


中也がルナの躰を更に引き寄せる。隙間などないくらいに縋るように舌を絡ませ、吐息を溢すルナの唇に口付けた。


背中に回ったルナの手に力が入る。息を吸う間もない口付けにルナは躰の力が抜けていくのを感じた。


『んっ、んんっ』


それでも中也はルナを離さなかった。躰の力が抜けたルナをそっと押し倒すようにして、二人で花畑の上に寝転ぶ。


幾つも花弁が舞う。


それがシャワーのように降り注ぎ、ルナの髪に絡まった。


『ん、ちゅ、や』


そっと名残惜しげに唇が離れる。


青い瞳に頬を紅く染めた自分が映っていた。真っ直ぐに逸らさせる事なく自分を見つめるその瞳に胸が高鳴る。


中也の手が伸びて、花弁が絡まったルナの髪を掬い、口付けを落とす。ルナは更に顔を赤くさせた。そんなルナの表情を見て、中也はふっと優しく微笑む。


「綺麗だ」


耳元でそう囁き、ルナの頬に口付け、額に口付け、そして再び唇を塞いだ。


ルナは擽ったそうに身を捩った。だが、優しく降り注ぐ口付けに幸せを感じて、嬉しそうに微笑む。


花の中で幸せそうに微笑むルナはまるで花畑に住む妖精のようだ。


中也はルナの頬を撫で、優しく額を合わせた。温もりを感じる。触れ合う部分から、確かに互いの体温を感じる。


それが堪らなく愛しかった。


日の光が優しく照らし、白い花弁が舞う二人だけの美しい世界で、二人は互いの愛を感じていた。









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