第十六章 蠱惑な蝶よ、魅惑の花よ




「急げ人虎!」

「判ってる!」


芥川が背後を振り返って叫ぶ。怪我と毒で動けない中也と太宰を連れて地上を出るまであと少しの処まで来た芥川と敦は息を切らしながらも全速力で拠点からの脱出を目指していた。


敦は太宰を担ぎ汗を垂らしながら走る。しかし、ふと視界の端にあるものが映った。足を止めてそれを見据える。


「……水?」


まるで川のように何か液体のようなものが地下に向かって流れて行く。


「何をしている!人虎!止まってる時間などないぞ!」


芥川の声を聞き、敦はハッと我に帰る。


そうだ。止まってる時間なんてない。ルナに五分以内にこの拠点を出ろと云われた。その猶予はもう一刻もない。


敦は枯れた喉を動かして唾を飲み込み、再び走り出す。五分以内にこの拠点を出る為に。一体その時間は何を意味しているのか。敦の片隅にその疑問が残っていたが数秒の猶予もないこの状況でその答えを見つける事は出来ない。だから、敦は走るしかなかった。


五分以内に中也と太宰を連れてこの拠点から出る為に。


それが、身代わりになったルナの頼みなら必ず成し遂げるべきだと敦は自分に云い聞かせて、走り続けた。




***




裂けた筈の傷が蝶達によって塞がった。


女王は閉じていた目を開けて、自身の掌を見据えた。体の傷が完治した事が判ると顔に掛かっていた自身の髪を後ろに払って、息を吐いた。


「ちゃんとした人間の姿に戻るのは、もう少し時間が掛かるわね」


女王の体には蝶の羽のようなまだら模様が右腰から右肩に掛けて浮かび上がっている。右の背中からは巨大な蝶の羽が生えており、最早その姿は人間でない。


「若い男の精気を摂らなくては」


そう云って歩き出そうとした女王はふと視線をある一点に留める。そこには幾万の蝶達が群がる塊があった。そこから香るのは毒と血が混じった匂い。それが男ではなく、女であると女王は判った。そして、その塊に蔑むような冷たい視線を送る。


「ふんっ、当然の末路ね。人間の女如きが私のお楽しみを邪魔した罰だわ。蝶達の毒で苦しみ踠いた後の死体は嘸かし滑稽な姿なのでしょうね。後であの男を捕まえて、貴女の死体の傍で思う存分まぐあってあげる」


口許に歪んだ笑みを浮かべた女王はその場を悠々と歩き出した。


だがその瞬間、ゾワッと体中を駆け巡った悪寒に足を止め、自身の腕を摩ろうとした。だが、それは叶わず体が動かなくなる。女王は自身の体に巻き付いた鎖に目を見張り、勢いよく後ろを振り返った。



蝶達が群がる塊から鎖が伸びている。そして、その隙間から覗く鋭い瞳孔をもつ赤い瞳が女王を鋭い眼光を宿して睨みつけていた。


「な、何なのよアンタ!この子達の毒は人間には有毒なのよ。多量に体に入れば、生きていられない。有り得ないわ…この数の毒に耐えられる訳ない……」


白い手は血で真っ赤に染まり、握っている鎖が血で滑る。それでも鎖は強く握られ、女王を捕らえて離さなかった。


女王は冷や汗を垂らしてその鎖を解こうとしたがそれは叶わない。そして、その鎖が強く引かれ女王が蹌踉めき、地面に倒れる。


地面に倒れた拍子にバシャっと液体が体にかかり女王を目を見開いた。


「水?……違うわ、この臭いは」


地面に倒れたまま女王は辺りを見渡した。地面に広がる液体。上層から、壁から、配管から、至る所からその液体は流れ落ちてきていた。


その液体は、水ではない。


それは、

———————瓦斯倫ガソリン


それが川のように流れ、拠点を浸水させていた。


『行かせ、ない、よ』


女王の耳に悪魔のような声音が響いた。女王は地面に伏せたまま顔だけを上げて振り返る。


群がる蝶達をそのままにゆっくりとこちらに歩み寄ってくる女。絶対零度のオッドアイの瞳が女王を捉えて金縛りのようにその場から動けなくさせた。


腹の傷口に集まる蝶達を引き連れてルナは女王の目の前に立ち、地面に這い蹲る女王の胸倉を掴み上げる。女王の体に纏わり付いた油が跳ね、蝶達の羽を濡らした。


『赦さない、ってアンタは私に云ったよね。でも、それはこっちの台詞だよ。私こそ赦さない。アンタは、中也に触れた。中也を傷付けた。中也を犯そうとした』


狂気に満ちたオッドアイの瞳。それを向けられ女王は自身の喉が締まるのを感じた。恐怖で声が出ない。抗えない捕食者に狩られる寸前の漠然とした恐怖が女王を襲った。


『絶対に赦さない』

「だ、だったら何だって云うのかしら。私は殺せないわよ。蝶達がいれば私は何度だって再生できる。銃も刃も私には効かないわ。たとえ首を撥ねられようともね」


女王は口許に引き攣った笑みを浮かべる。女王は人間ではない。故に手足がバラバラになろうと、首を斬り落とされようと死ぬ事はない。蝶達がいればその体は無限に再生できるからだ。


『……そう。なら、これは如何かな?』


ルナが懐からあるものを取り出した。女王はルナの手にあるそれを見据える。赤い釦がついた小さな機器。そして、ルナは躊躇いなく手にしたその機器の釦を押した。


直後、爆発音が響き渡る。


女王が辺りを見渡せば、爆発音が起こったその方から炎の水が流れ込んできた。


爆発によって火が瓦斯倫に引火し、拠点内を炎を纏う龍のように駆け巡る。四方から聞こえる爆発音はまるで煉獄の炎を呼び覚ます龍の怒号のようだった。


炎は瞬く間に広がり、ルナと女王がいる地下まで埋め尽くす。そして、女王の体に纏わり付いた瓦斯倫にも引火し、一瞬にして女王の体は炎に包まれた。


「あ"あ"あ"あ"ッ!熱い熱い!イ"ヤァァァァ!」


女王が絶叫する。


ドレスが焼け、髪と羽が焼け、皮膚まで焼けていく。女王は自身の手で顔を覆い、皮膚が焼かれる痛みに踠いた。そして、このままでは拙いと女王は叫びながら蝶達を呼んだ。だが、蝶達は女王の元へ来ない。女王は辺りを見渡した。


吸血蝶達の羽にも火がつき、そのまま焼かれて灰になって落ちていく。


「何でッ…こんな……何処から火をッ」


この拠点は蝶華楼の城になる以前、大戦末期に使われていた戦闘機などの軍の兵器を製造する工場だった。


故に終戦後もそのまま瓦斯倫は拠点内に保管されていた。


そして、その瓦斯倫を拠点内に漏れさせ爆弾を起爆させたのだ。


それを仕掛けたのは誰か。


女王は目の前にいる女を見遣る。ルナに群がっていた蝶達が羽を燃やしながら息絶え、何匹も何匹も鮮やかなその羽が黒焦げになりながら、ルナから離れた。女王は露わになったその姿を見て、息を呑む。


まるで墓から起き上がった亡霊のよう。蒼白い顔からは生気が感じられない。だが、そのオッドアイの瞳だけは燃え盛る怒りに包まれ、女王を喰らいつくさんと凄絶な意志を宿している。


「わ、わたくしの蝶が…蝶が…」


幾万もいた蝶達がその羽を焼かれ、炎の中へと沈んでいく様を見て、女王は灰と化していく蝶達に手を伸ばした。



———————自分は何を間違ったのか。



そんな疑問が女王の脳裏を掠めた。



美しい女の姿を装い、人間の男を虜にしたのが間違っていたのか。


否、今までそれで全て手に入れてきた。


男も、快楽も、権力も。


人間の男は女王の美しさと快楽を求めた。だからこそ、それを与えられた女王が彼等を殺すも生かすも自由だった。だって、それが女王なりの“愛”だったから。


女王が知る人間の“愛”は慈愛と純真に満ちたものだ。だからこそ、それを無理矢理奪い、自分の毒牙で汚すのが堪らなく楽しかった。


「(嗚呼、そうだ……あの男に手を出したから。……でも、この女の“愛”はあまりにも)」


今、目の前にいる女が彼に向ける“愛”はあまりにも異常だ。


異常な迄に膨れ上がった彼への愛情。


それは己の身を焼き焦がす程。


女王の毒牙などでは到底汚せやしない。寧ろ彼に手を出す者がいれば、それ以上の報復を以て焼き殺される。


女王は皮膚が焼かれる痛みに耐えながらルナを見据える。ルナの外套に炎が移り、ルナの躰も炎に包まれていく。


「ッ…手を、離しなさいよッ!このまま此処にいたらアンタだって死ぬわよ!?」


女王は胸倉を掴むルナの手を振り解こうと踠く。しかし、ルナは手を離すことなく、より一層力を込めて引き寄せた。


ルナは一つ気付いた事があった。


ルナが女王の体に傷をつけた時、吸血蝶達は女王の傷を治す為にこの場に集まった。


吸血蝶には血の匂いに惹き寄せられる習性と女王の傷を癒す意思がある。


その為、血だらけのルナと体を焼かれ続けていく女王がこの場にいれば吸血蝶達はこの拠点から出ることは決してない。


故にルナが女王の手を離す事はない。
この場で女王諸共幾万の吸血蝶を全て燃やし尽くす。



たとえ自身の躰も焼かれようと。



ルナは笑みを浮かべて、女王の恐怖に染まった瞳を覗き込んだ。



『さあ、我慢くらべしようか。私とアンタ何方が先に焼け死ぬかな』



炎がより一層燃え上がった。


右往左往に宙を舞っていた蝶達が黒い灰となり、無惨に降り落ちていく。



そして、女王も同じように炎に焼かれ、黒く焦げていく。



ルナはその様を虚な瞳で眺めた。気を抜けば意識がなくなる。そうなれば自分もこの女王と同じように灰になるだろう。



ルナは炎に包まれる間、中也の姿を思い起こした。


そうする事で何とか朦朧とする意識を繋げながら、吸血蝶が一匹残らず焼け死ぬまでルナは燃え盛る炎の中でその熱さと痛みに耐え続けるしかなかった。







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