第十六章 蠱惑な蝶よ、魅惑の花よ



「くッ……ウッ」


地面に伏せたまま体中の痛みに呻く事しか出来なかった。少し離れた場所では芥川が壁にめり込んだまま微動だにしない。


額から血が流れ、ボヤける視界で敦は前を見た。


巨大な斧を肩に担ぎ、詰まらなさそうに溜息を吐き出した男が地面に伏せっている敦達を冷酷な瞳で見据える。


「こんなもんかよ。残念だ」


5人の護衛団の一人。そのNo.3の男の実力は圧倒的だった。彼から発せられる威圧感そのものが彼の強さを物語っている。二対一でも手も脚も出ない。巨大な斧を持っているのにも関わらずその動きは俊敏で、虎の防御ですらその威力を殺す事は出来なかった。実力の差は一目瞭然だった。


「悪く思うなよ」


“No.3”が斧を掲げる。死が間近に迫るのを怯えながら震えるしかないように体が動かなかった。敦は如何する事も出来ず、襲いくる死を前に強く目を閉じた。



だがその直後、何処からか巨大な衝撃音が辺りに響き渡った。敦は閉じていた目を開けて、視線を上に向ける。


敦は崩壊した壁の穴にその姿を見た。砕け飛んだ壁が隕石のように辺りに降り落ちる中で、そこにいた全員が壁を突き破って現れた人物に瞠目した。



オッドアイの瞳が猛獣のような眼光を宿している。白い肌も髪も外套もまるで赤い池に潜ったかのように血だらけだった。その姿はまるで地獄から這い出てきた亡者のようで、誰もがその姿を見て息を呑んだ。


「何だ…お前は………ッ!?」



“No.3”が冷や汗を掻いてそう問うたが、ルナの手にあるものを見て言葉を失った。ルナの手からボタボタと血が落ちている。


ルナの手にあるもの。


それは、


———————人間の生首だった。


“No.3”はそれを見て目を見開く。その首は“No.3”がよく知る人物。護衛団の仲間である“No.2”のものだった。


「…嘘、だろ?……あの“No.2”が、負けた、のか?」


“No.2”は5人の護衛団の中で二番目に強い。実力において3番目である自分でも“No.2”との実力の差は大きかった。それ程までの強者が殺れた。それも、あんな小柄な女相手に。


「ッ!」


鋭い眼光が男に向けられた。血のような右目が恐ろしい迄に殺気を含んでいる。その見た目からは想像も出来ない程の圧倒的な威圧感を放っており、あのオッドアイの瞳に見下ろされた瞬間に斧を持つ手がガタガタと震えた。


だが、護衛団の一人として此処で背を向ける訳にもいかない。“No.3”は震える手で斧に繋がっている鎖を握り締め、力の限り斧をルナに向かって投げつけた。


「死ねぇ!女ァ!」


斧がルナの立っていた地面を抉る。ルナはその攻撃を避け下へ飛び降り、持っていた生首を放り投げて“No.3”に向かって一直線に走り出した。


「クソッ」


男は鎖を引いて斧を手元に引き寄せ、もう一度ルナのいる場所に斧を投げつけた。だが、そこにルナの姿はない。斧だけが地面に刺さっているだけ。


「何処行きやがったぁ!」


“No.3”がそう叫び、辺りに視線を配ったその瞬間。持っていた鎖が何かに引っ張られた。“No.3”は振り返る。先程まで地面に刺さっていた斧がそこにはない。代わりに死神の囁きが背後から聞こえた気がした。


焦燥に駆られ、“No.3”は振り返る。自分の得物である筈の斧を横へ振り翳し、此方を絶対零度の瞳で捉えた死神がいた。その直後、耳元で空気を割くような音が鳴り、その後は何も聞こえなくなった。



———————ズバッッン!



耳障りな音が辺りに響いた。宙に男の生首が飛び上がり、地面に血飛沫を撒き散らした。切断された部分から血を流しながらそれはベシャッという不快な音を立てて地面を跳ねるように転がった。


敦はその一部始終を瞬きすら出来ずに呆然と眺める事しか出来なかった。ルナが自分の背丈より大きい斧を持ち、それで何の躊躇もなく“No.3”の首をぶった斬ったその光景を。


首を無くした体は首から血を流しながらその場にバタリと倒れ、暫く痙攣した後に動かなくなった。ルナは手に持っていた斧を投げ捨て、一度天井を仰ぎ、息を吐き出した。


その場にいた敦と芥川はその光景を見据える。あんなにも強かった“No.3”がこんなにも呆気なく殺された。そして、それを殺したのは紛れもなくルナ。数刻前までその姿を捜していたのに、今目の前にいる事を喜ぶべきなのに、敦にはそれが出来なかった。


何故なら今のルナの姿が人間には見えなかったから。


——————化け物。


血に飢え、命を喰らい尽くす、死の権化。




ルナは死体となった“No.3”には目もくれずに辺りを見渡す。そして、敦と芥川をその視界に捉えると再び視線を辺りに彷徨わせてから、


『——————中也は何処?』


と、ただ一言そう問いかけた。


その声はあまりにも静かだった。今のルナの瞳は先刻迄の殺気はなく、まるで迷子になった幼子のような無垢な瞳。不安に揺れるその様は痛々しい程だった。



敦はその瞳を見て体の震えが止まった。そして痛む体を起こし、首を横に振る。


「ごめん。僕達も逸れたんだ」


敦のその言葉にルナは目を伏せて、そう、と静かに呟き、首に巻かれている自身のマフラーに触れた。


「ルナさん、ご無事でしたか」


額から流れる血を拭いながら芥川が此方に歩み寄ってくる。此方の身を案じてくれたが傷だらけの芥川の姿を見て、この二人も大変だったんだなとルナは悟る。


『龍ちゃんもね。少し手こずっていたようだけど』

「人虎が無駄な動きをする故。僕一人ならばあのような輩に遅れは取りませぬ」

「おい!僕がいなかったらお前の方が危なかったんだぞ!大体倒したのはルナちゃんじゃないか……って危なッ!」

「貴様!前々から思っていたが、ルナさんに対してその呼び名は何だ!無礼にも程がある!」

「一応ルナちゃんに許可は得てるんだよ!」


如何でもいい事で云い争い出した二人を見て、ルナは気を張っていた神経が少し緩むのを感じた。屹度、今頃こんな風に中也も太宰と云い争いをしているかもしれない。そう思えば、躰中を支配していた焦りと怒りが幾分か和らぐ。


『いいよ人虎君。好きに呼んで。龍ちゃんも〝ルナちゃん〟って呼んでもいいんだぞ。同い歳なんだし』


肘で芥川を突けば芥川は眉間に皺を寄せて首を横に振った。そんな芥川を見て、小さく笑みを溢したルナだが、此処で時間を無駄にしてもいられないと踵を返してまだ通っていない道を見据える。


『二人ともまだ動けるよね?』


ルナの言葉に二人が頷く。その返事を見て、ルナは二人に向き直った。


『此処辺りの監視カメラは殆ど無力化した。私達を分断させる能力者は監視カメラでしか私達の位置を把握できない。能力を使えるのも私達の位置が判らないとできないみたい』


ルナが監視カメラを壊して回っていたからか、明らかに黒い穴の出現率が減った。最初こそあの能力に手を焼いていたが、此方の居場所を気取られさえしなければ、思うように異能力を使えないだろう。


『とは云っても、この能力が厄介な事は慥か。そこで二人には監視カメラ越しにいるこの異能力者を見つけ出して倒して欲しい』


その能力者は恐らく護衛団の一人。たとえ女王を見つけ出してもその異能力者がいれば厄介になる。あの能力があれば隠れる事も逃げる事も出来る。女王を守る能力としては護衛適役だろう。


二人が強く頷いた事を見届けて、ルナはその場から駆け出した。ルナに続いて敦と芥川も駆け出す。


敦は走りながらルナの背中を見遣った。髪も外套まで血に染まっている。ルナの血なのか、それとも返り血なのか定かでないが、その血の多さはこの数刻でルナがどれ程の敵と戦闘をしてきたかのか窺えた。


けれど今、ルナは生きていて、こうして逢う事ができた。ルナの事を誰よりも心配していた中也に彼女が無事であった事を伝えたい。



そう考えていた時、突然ルナが動きを止めた。あまりに突然だったから、勢い余ってそのまま小柄なルナにぶつかりそうになる。だが、後ろから襟首を引っ張られて何とかぶつかるのを阻止できた。振り返れば芥川が乱暴に襟首を掴んだまま睨み付けている。今のは不可抗力だと敦は目で訴えた。



敦は急に足を止めたルナを見やった。ルナはある物を視界に捉えたまま暫く何か黙考した後、足を其方に向けた。


『二人とも黒い穴の異能力者は任せたよ。私は急用ができた』


何処に行くのか聞こうとしたが、隣にいた芥川が「行くぞ」と肩を引いたので敦はルナに背を向けてその場を駆け出した。最後に視線だけ振り返った敦の視界には巨大なタンクの前で腰を下ろし、何かを弄っているルナの姿が見えた。





***








ガシャン、ガシャン…と音を立てて宙を飛び交っていた剣が地面に落ちた。


「お見事」


中也が振り返れば太宰が態とらしく手を叩いていた。その巫山戯た態度に青筋を浮かべて、中也は「んで、これから如何すんだ」と乱暴に聞き返した。


「護衛団の一人、それもNo.1を倒されたとあっては流石に女王も焦り出すだろ。このまま待っていれば女王は姿を現す筈さ。それまでは……」


太宰は言葉を止める。先程“No.1”が殴り飛ばされた方向からキラリと何かが光った。太宰は冷や汗を垂らして、「中也!」と叫んだ。その太宰の焦りように中也は振り返る。



その刹那、巨大な何かが此方に向かって放たれた。まるで戦闘機が空から衝突してきたかのような衝撃。重力で防いでもその威力は中也の体を吹き飛ばす。何かが突っ込んできた風圧で太宰の体も吹き飛び、壁に激突する。頭を強く打ち、脳震盪を起こした。


「ガハッ……ッくそ、何だ…ッ」


中也は血を吐き出して、めり込んだ壁から前方を見据える。目の前にあったのは巨大な剣だった。そして、それを構えるのは人の何十倍の大きさのある鎧。


「先程の連携した攻撃は慥かに見事だった。だが、あと一歩勝利には届かなかったな」


その巨大な鎧の下には先程倒した筈の“No.1”が剣を地面に刺したまま立っていた。そして、鋭い眼光を光らせ、騎士たる構えで声を張り上げた。


「私は女王を護る騎士。この身こそ我が女王の盾であり剣。曲者ごときに折られる訳にはいかぬ」


その声に反応して巨大な鎧が仮面から覗く赤い閃光を光らせ、巨大な剣を振り翳す。先程の戦闘機のような衝撃はこの鎧が振り下ろした剣だ。尾崎紅葉や泉鏡花の異能力と似た系統。異能生命体を操る能力者。



中也は痛みが走る体を無理矢理動かして、振り下ろされた巨大な剣を避ける。一瞬太宰の無事を確認する為に視線をやったが、頭から血を流した太宰が力なく壁に凭れ掛かっているのが視界の端に見えた。


中也は巨大な鎧の攻撃を避け、“No.1”に向かって拳を振り上げる。だが、巨大な鎧の腕が“No.1”を守り、中也の拳は防がれた。拳から腕にかけて衝撃が体を襲う。中也はその腕を足場に飛躍し、距離を取った。


“No.1”は無表情にその場に立ったまま。手に持っていた剣で再び地面を叩いた。巨大な鎧が剣を構える。また攻撃が来る。そう思った瞬間、“No.1”の冷たい瞳が中也ではなく太宰の方へと向いた。


「先ずは、一人」

「太宰!!!」


中也が叫ぶのと巨大な剣が太宰の方へ振り下ろされたのが同時だった。剣は太宰には当たらなかったが代わりに太宰が凭れ掛かっていた壁が崩壊し、瓦礫と共に太宰が下へと落ちていく。


中也はその場を駆け太宰が落ちて行ったそこへ飛び込んだ。


「おい…下手に動くんじゃねぇぞ」

「あ、はは。ッ…参ったねこれは。頭を強く打ちすぎて、意識を保つのもやっと、さ」


間一髪太宰の腕を掴んだ中也。だが、中也も落下する途中で運良く掴んだ鉄の棒に辛うじて片手でぶら下がっているだけ。下は暗黒を言葉にしたかのような巨大な穴がまるで二人を呑み込もうとしているかのように不気味な生温い風を吹かしていた。


「此処で君との心中だけは厭だなぁ」

「減らず口叩く余裕がまだあんなら何処か掴まれそうな場所を……ッ」


顔の横を通った剣が中也の頬を掠めて宙を飛び回る。上を見上げれば、先程落ちてきた場所から此方を冷酷な瞳で見下ろしている“No.1”がいた。奴の異能力が籠った剣が中也を襲う。この大勢では攻撃を避ける事も、太宰を掴んでいる為異能力で防ぐ事も出来ない。


「中也、手を離せ。攻撃が来る」

「五月蝿えッ!手前の自殺癖には毎度付き合ってられっか!」


剣が中也の肩を貫いた。



「落ちろ。———————我が女王の許へ」



中也の肩から血が噴き出す。肩に走った激痛に腕の力がなくなり、掴んでいた鉄の棒から手が離れた。そして、そのまま中也と太宰は下へと落ちていく。








『———————中也ぁッ!!!』




奈落の底へと落ちる瞬間、此方に手を伸ばして叫ぶ愛しい姿が見えた気がした。








13/22ページ
いいね!