第一章 虎穴に入らずんば虎子を得ず




ゆらゆらと夜空に向かって伸びていく紫煙。それは一本の細い線のように宙を漂って消えた。
その線を目で追いながら黒外套を羽織った青年は再びその線を作った。


彼の格好は黒外套に黒帽子という闇に紛れる風貌をしていた。だが、髪だけは燃えるような赭色。彼の名は中原中也。横浜の凶悪な非合法組織、ポートマフィアの五大幹部の一人だ。


中也は先刻任務から帰還し、仕事終わりの煙草を拠点の屋上で吹かしているのだ。フェンスに寄りかかる彼の顔には少しの疲労が見られる。


『あ!中也いたァァァ!』


静かな夜には一人でする煙草は格別……、のはずだが、その楽しみは後ろから聞こえた叫び声で台無しに終わる。


「五月蝿ぇよ。今何時だと思ってやがる莫迦ルナ」


顔だけ振り向いて叫んだ人物に向かって溜息混じりにそう云った中也。彼の視界には指を此方に向けて仁王立ちをしている女が一人。彼女の名は菊池ルナ。黒外套を着、首には緑色のマフラーを巻いている。


『どうして直ぐ屋上行っちゃうの!?中也の執務室で待ってたのに!』

「煙草が吸いたくなったんだから仕方ねぇだろ」

『だったら一言くらい声掛けてくれれば』
「悪かったよ」


隣に並びフェンスに乗り出すように顔を覗き込んできたルナの頭を中也は乱暴に撫でる。そうすれば、先刻の勢いは何処へやら頭を撫でられたルナは大人しくなった。


『任務は大変だった?』

「いや、そうでもなかったぜ。異能力者もいねぇ下っ端の組織の残党だ。俺の異能を使うまでもねぇよ」


中也は煙草の灰を落としながら高らかに笑う。


『じゃあ、怪我してない?』


心配そうな声が中也の耳に届く。隣に並ぶルナに視線を向けた中也の瞳には不安な表情をしたルナが映った。夜の風が彼女の水浅葱色の髪を揺らした。毛先だけが白銀色に染まった彼女の髪。水浅葱色とキラキラと光る白銀が夜空に幻想的に流れた。


「ねぇよ。擦り傷一つな」


その髪の美しさと心配に揺れる瞳に一瞬目を奪われた中也。照れ隠しか、心配しすぎなんだよ手前は、と付け加えて中也は前に視線を戻した。


その言葉にムッとしたルナは中也が咥えていた煙草を抜き取り『心配して何が悪いの!』 とそれを吸い込む。


「手前、煙草好きだったか?」

『べっつにー』


ルナは煙草の匂いは好きだが、吸うのは好きでも嫌いでもないのだ。


ルナがゆっくりと吐き出した煙が中也が吐き出したものと同じように宙に漂った。煙草を咥えながらルナは下を見た。其処には深い谷底のような暗闇が広がっている。此処から落ちたら、死ぬだろうか。人体じゃひとたまりもないだろう。そんな事を考えるのは生と死を彷徨うマフィアの仕事柄だからだろう。


「手前こそどうなんだよ」

『ん?』


柵に肘をついて頬杖をつきながらそう問う中也にルナは煙草を咥えたまま首を傾げる。だが、その問いを理解したルナは、あぁ、と頷いてカラカラと笑い出した。


『毎日同じ。よくもあれだけ首領の暗殺計画を立ててくるよ。そもそも拠点にも入れやしないのにさ。まぁ、今回はエリス嬢と買い物する為車に乗る瞬間に狙撃されたけど』

「はぁ!?大丈夫だったのかよ?」

『うん。銃弾は斬り落としたし、その後狙撃者は直ぐに噛み殺したから』


笑顔で話す内容じゃないが仕方ない。何故なら、彼等はマフィアなのだから。


黒社会の組織においてポートマフィアと敵対する組織によるポートマフィア首領である森鴎外の暗殺はほぼ毎日のように行われる。だが、それを成功した者などいない。そもそも拠点の最上階にある首領執務室に辿り着くことさえ出来ない。辿り着く前に拠点にいる黒服の構成員に撃ち殺される。たとえそれを掻い潜ったとしても、最後は菊池ルナに殺されるのだ。菊池ルナは首領補佐であり、首領専属護衛でもある。そして、異能力者であり、ポートマフィア随一の暗殺者。


可愛く美しい容姿で敵を惨殺するマフィアの暗殺者。彼女は裏社会で《闇の殺戮者》と呼ばれ、恐れられている。しかし、それは敵組織だけじゃなくポートマフィア内でも同じく彼女の存在は恐れられていた。


だが、どんなに恐れられている存在であっても中也には関係なかった。何故?その答えは簡単だ。


『此処、冷えるね』


そう呟いたルナに中也は自身が着ていた黒外套をその小さな肩に掛けてやる。


『ありがと』


にこりと微笑んだ可愛い笑顔に中也はそっぽを向き赤くなった頰を隠しながら、おう、と小さく呟いた。



先程との物騒な会話とは打って変わって、甘い雰囲気が漂う。それはふわふわと周りを包むようにその場に留まり、煙草の紫煙のようには消える事はない。


吸い終わった煙草をポイっと放り投げ、ルナはススッと中也の腕に寄り添う。そして、中也の服を指で摘んで軽く引っ張る。その可愛らしい動作の意味を取った中也は恥凌ぎに首の裏を掻いた後、そっと顔をルナに近づけ、その桃色の唇に口づけを落としたのだった。






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