第十六章 蠱惑な蝶よ、魅惑の花よ




冷汗が額から流れ、音もなく頬を伝った。


「おい、糞太宰。今何つった?」


銃で武装した敵を撒いたはいいが、目の前で凄まじい殺気が放たれている事に敦は顔を青褪めさせ、下を向く事しか出来なかった。


その原因は、目の前で睨み合う中也と太宰だ。そして、その殺気を放っているのは中也だった。


「このままルナを一人にするたァ如何云う事だ?あ?」

「女王が狙うのは男だけだ。つまり獲物になり得るのは私達であり、女であるルナは此処を脅かす侵入者でしかない。だから、敵はルナだけを分断した。ルナを排除する為にね」

「だから?」

「だから、護衛団はルナを排除する為に動く。そうすれば女王の護衛が手薄になる。そこを狙う」

「つまりこう云う事か?ルナを囮にして彼奴が護衛団に命狙われている間に俺達は何処にいるかも判らねぇ女王を見つけ出す。手前の作戦はこうかよ糞太宰」

「嗚呼そうだ」


中也はガッと太宰の胸倉を掴み上げ、勢いのまま太宰の背を壁に叩きつける。一瞬太宰が痛みに呻いたが、直ぐに冷静な顔で中也を見下ろした。


「巫山戯んじゃねぇぞ。手前は昔からそうだ。人一倍危険な任務にルナだけを放り出しやがる。一体今回は彼奴に何をさせるつもりだ」


太宰は何も云わずに黙ったまま。冷たく荒れ狂う炎が中也の瞳の中で揺らぐ。爆発してしまいそうな怒りに中也は太宰の胸ぐらを掴む手に力を込めて続けた。


「囮だろうと何だろうと彼奴が危ない目に合う事を判っていて、それを放っておけるか」


もしルナが危険な目にあったら。重傷を負い助けを求めていたら。そう考えるだけで居ても立っても居られなくなる。不安と焦りが中也を苛立たせ、済ました顔で立っている太宰に怒りをぶつけるしかなかった。


強い焦燥と怒りを引き起こすのは過去にあった記憶の残影だ。まだ太宰がマフィアにいた時、太宰はルナにいつも無理難題な命令を下していた。ルナが傷つこうと、命の危険に晒されようと、お構いなしに。ルナが決して命令を拒まない事をいい事に一体どれだけの“傷”をルナに与え続けていたのか。


「おい太宰。手前はいつまでルナの手綱を握っているつもりでいやがる。彼奴は手前の為に動く玩具じゃねぇぞ」


中也の瞳の奥にあるのはまるで燃え盛る炎のようだった。太宰の胸ぐらを掴む手に力を込め、奥歯を噛み締める。爆発寸前の怒りを宿したまま中也は太宰を睨みつけた。しかし、そんな様子の中也に太宰は呆れたように溜息を吐き出し、暗い瞳で中也を見下ろした。


「君は、本当に何も知らないんだね」


そして、いつもより低い声で太宰はそう云った。中也とは対照的な氷のような冷たく暗い瞳だった。太宰のその人を憐れむような視線に中也は青筋を浮かべた。


「何故ルナがこの任務に参加したと思う?」


太宰は中也にそう問う。そして、そのまま温度のない声で続けた。


「何故マフィアを抜けた私の命令に従うと思う?何故、昔も今も自ら危険な任務に一人飛び込むと思う?首領暗殺事件の時も、大抗争の時も、何故、一人だけ危険な任務に赴いたと思う?」


中也はその問いに答えられずにただ暗い瞳で見下ろしてくる太宰を見やった。一つ沈黙が二人の間に流れ、そしてその後太宰が深い瞬きをしてから、まるで秘密を溢すように云った。


「———————君に、汚濁を使わせない為だ」


中也の瞳が見開かれ、口から音にならない疑問が溢れた。


「昔、ルナが私に云った。〝中也の代わりを自分が全て請け負う。だから、汚濁を使わせないで〟ってね。ルナが何故マフィアを抜けた私の命令に今でも従うのか。それが誰の所為なのか……。私に怒りをぶつける前によく考えた方がいい」


返す言葉が見つからなかった。



太宰の胸倉を掴んでいた中也の手が緩む。その手を払い退け、太宰は乱れた自身の襟元を直した。中也はその場で俯いたまま奥歯を噛み締める事しか出来なかった。



『太宰、私も協力する。でも、条件がある。アンタならそれが何か判るよね?』



ルナのあの時の言葉が脳裏で響く。あの時ルナが云った条件が今更何なのか判った。


ルナは命が危険に晒される汚濁を中也に使わせない為にこの任務に自ら参加した。


否、今回だけじゃない。


一体いつからだろう。何度、何年前からだったのだろう。


ずっとルナに守られてきた。


「(それを知らずに…俺は……)」


中也は拳を握り締める。今一番殴ってやりたい相手は自分自身だった。如何しようもないやるせなさが中也の心をざわつかせる。それをこの世で最も嫌いな男に云われた事も、今まで何一つ気付いてあげられなかった自分にも心底腹が立った。


長く重い沈黙が伸し掛かる。二人から一歩離れて佇んでいた敦も芥川も誰も声を発する事が出来なかった。特に敦には今の二人の会話を理解する事が出来なかった。それでもいつもと違う太宰の様子と強く拳を握り締めて此方に背を向けている中也の様子は敦の心すらざわつかせた。


敦は一度地面に視線をやり、瞼を震わす。そして、数秒後意を決したように勢いよく顔を上げた。


「ルナちゃんを捜しにいきましょう!」


敦の声はその場に響く。全員の視線が敦に向いたが彼は怯むことなく続けた。


「女王は地下にいるんですよね?ルナちゃんが落ちて行ったのも地下です。だからと云ってルナちゃんを捜して、女王を見つけ出すなんて効率が悪いかもしれません。でも!先刻、ルナちゃんは大砲の攻撃から僕等全員を守ってくれました。普段は敵同士でも、今は同じ目的の為協力しています。だから、見捨てるなんてそんな事できません」


敦の目に先程迄の頼りなさはなかった。真っ直ぐ前を向いてそう云った彼に全員が圧倒されそうだった。


その敦の瞳を見て太宰は厭に強張らせていた肩を緩めて苦笑した。


「判ったよ敦君。君がそこまで云うなら、君の意見を尊重しよう」


敦は普段とても気弱で下を向くことが多いが、いざという時は誰よりもその瞳に強い魂を宿す。それが中島敦という人間なのだろう。



中也はまだ18歳の少年の強い瞳を見据えて、強く握っていた拳を静かに緩めた。そして、ずれた帽子を被り直し、敦に近づいた。敦は伸びてきた手に一瞬驚いたが、肩にぽんっと置かれた手を見て目を瞬かせる。


「……サンキューな」


敦だけに聞こえる声で中也はそう云った。中原中也とはポートマフィアの五大幹部で、その纏う雰囲気はいつも威圧的だった。だからこそ、怖いと云うイメージしかなかった彼に御礼を云われた事に敦は至極驚いた。


しかし、その威圧さからは想像も出来ない程のルナへの想いは彼が持つ心の中で最も純真でいて、揺らぎないものなのだろう。そう、二人をよく知らない敦でも強く思った。







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