第十四章 あの空をもう一度見れるなら




『へっくしゅん!!』


夜風が体温を攫う。


ルナは垂れた鼻水を啜り、鼻の下を人差し指で擦った。此処は或るビルの上。今回のターゲットである組織が拠点とする向かいのビルの屋上だ。


『はあ、あんなタイミングで任務が入るだなんて。まあ別にこんな事初めてじゃないけど、これからは二度と御免被るよ。中也にも我慢させちゃっただろうな』


冷水浴びてなきゃいいけど、とルナは中也の温もりを求めるようにマフラーに顔を埋める。ルナの濡れた髪の隙間を冷たい夜風が通り過ぎる。しかし、マフラーから伝わる温もりは消える事はない。何年経っても。


『今度する時は、中也の好きなようにさせてあげよ』


ふふ、とルナは照れたように微笑んだ後、ぱちっと両手で自身の頬を叩いた。こんな締まりのない顔で仕事する訳にもいかない。



ルナは気を引き締め直し、遠くを眺めるように手を額に翳して向かいのビルの屋上を確認する。


『よし、人影なし。ターゲットがいる部屋は最上階の奥。南西の部屋あたりかな』


ルナはまだ少し湿っている髪を払って、柵に足を掛ける。そのまま重力を感じさせない軽やかさで向かいのビルに飛び移った。


建物の構造は全て頭に入っている。進入経路も確認済みだ。入口は最上階の排気口。ルナは足元にあるそこにしゃがみ込み塞がれているネジに手を伸ばした。


『……。』


しかし、ルナは触れる前に手を止めた。無表情にある一点を見据える。そこには一度金具を緩めた痕跡があった。緩めたといっても今では金具は留められている。しかし、ルナが気付いたのは一度外され、もう一度元に留められた…そんな跡だ。


『(…ビルの点検でもした?否、そんな情報は入ってない。だとしたら、他の暗殺者…でも、態々開けたものをもう一度留めるだなんて。こんなご丁寧に金具まで…)』


ルナは凡ゆる可能性を推測した後、排気口の入口を開ける。そのまま小さな躰を滑り込ませて、建物の中に侵入した。



暗い排気口内を這い、空気が抜ける場所まで向かう。此処は天井になるだろう。見えた部屋は制御システム室のようだった。幾多もの電気機械があり、起動している画面から白い光が部屋全体に漏れていた。ルナは排気口の出口を開けて、部屋を確認する。土色の防弾服を着た男が二人。白い光を放つコンピュータの前に座り頬杖をつきながら欠伸をこぼしている。


ルナは音を立てずにその部屋に飛び降りた。埃が舞う音よりも小さく、無音に等しい音で男二人の背後に立った。そして、首を刎ねた。


赤い鮮血がコンピュータの画面に飛び散る。椅子に座ったまま絶命した男達の間を縫って。ルナはコンピュータを弄る。


この組織が手に入れた情報。ポートマフィアが利となる情報を奪い、不利となるものを完全に削除した後、最後にルナは監視映像の接続を全て切った。


『よし。とっとと仕事を終わらせるか』


ルナはその部屋を後にして、ターゲットである頭目の元への足を向けた。


ターゲットの部屋の前には見張りが二人立っていた。武装した屈強な男達。ルナは角から様子を窺う。此方の侵入に気付いている様子はない。


ルナは短刀を構え、足を前に踏み出した。屈強な男達が一歩遅れてルナの存在に気付いた。しかし、遅れたとは云え訓練された者の動きは流石だった。直様短機関銃を構え、ルナに向けて躊躇なく放たれる。彼等は頭目を守る歴戦の護衛達。侵入者一人くらい排除できる腕を持っている。相手が並の暗殺者ならばの話だが。


放たれた弾丸を避けてルナが男達に迫る。相手の懐まで飛び込めば、相手は銃を撃つのを止め、代わりにそれを鈍器代わりにしてルナの頭部目がけて振り下ろした。ルナは躰を捻りその攻撃を躱す。ルナの短刀が吸い込まれるように男の首を裂いた。


血飛沫が上がる。絶叫しながら倒れていく仲間を瞠目したまま眺める事しかできなかったもう一人の男が顔を強張らせながらルナに銃口を向けた。しかし、そこにもうルナの姿はない。辺りを見渡しもう一度絶命した男に視線を向けた時。


空気の音よりも静かな音が背後で聞こえた気がした。それは恐らく己の死を告げる死神の吐息だったのだろう。銀色の一線が真っ直ぐに男の首に引かれた。


『……。』


血溜まり中に倒れた男。びちゃりと不快な音が静かな廊下に響いた。ルナは絶命した二人の男を無表情に眺めた後、固く閉ざされている扉を開ける。部屋の中央では淡い蝋燭が一つ揺れていた。




***



『はーあ、こんな奴に中也との時間を奪われたなんて』


ルナは血のついた短刀を拭いながら溜息をついた。ルナの足元には一人の男が血を流して生き絶えている。


部屋に広がる血のにおい。ルナは短刀を懐にしまい、生き絶えたターゲットの男を残して扉に向かった。扉を潜り血塗られた部屋を視界の端で見届けた後、扉をパタンと閉めた。


『これで仕事終わり。……!』


その時、ルナは何かの気配を感じ取り廊下の奥に視線を向ける。


『……。』


もう騒ぎを聞きつけて来たのかと思ったがそこには静寂が広がるだけ。


『(今、慥かに人の気配を感じたんだけど…)』



しかし、ルナの視線の先には何もない。人の影も何も。


『……気のせいか』


ぽつり、とそう呟き。ルナは踵を返した。








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