第十三章 Hidden pieces of Heart



『……。』


ルナは気配を消してある部屋の扉の前に立っていた。


結局森に課せられた任務はあれから三つもあった。任務自体は慣れたものばかりであったが、時間はとうに夜3時を回っている。中也は深夜になってもいいから来い、と云っていた。その言葉通りルナは今中也の部屋に来て、その扉の前に立っている。


しかし、部屋の前に来たはいいが何故かルナはその扉を開けようとしない。ただ扉の前に立ち、閉ざされた扉を睨みつけんばかりに凝視しては、はぁ、と力のない溜息を零す。それをもう何十回と繰り返している。


中也と逢ってどんな顔をすれば良いのか、何を話したら良いのか。今のルナには判らなかった。中也が今どんな気持ちで自分を待っているのかさえも。


『(中也と逢うのに躊躇するなんて…)』


ルナは固く目を瞑る。不安が胸の内を荒らす。しかし、此処に立っていても何も判らないのは慥かだ。ルナは騒つく心を落ち着かせるように深呼吸をして、扉に手をかけた。


––––––––––––ガチャ、ゴンッッ!


『ッ〜〜ぅぅ』

「…あ、悪り」


急に内側から開いた扉がルナの額を強打した。ルナはその場に蹲り、ジンジンと痛みが響く額を両手で押さえる。そんなルナを扉に手をかけたまま見下ろすのはタイミング悪く部屋から出てきた中也だった。



まさかルナがそこにいるなんて思わず、一瞬何の音か判らなかった中也だが、あの音からして結構な衝撃であった事が判った。


「おい、大丈夫か?」

『だ、いじょうぶ』


中也はルナの前にしゃがんで額を押さえているルナの手を優しく退かし、ぶつけたであろう部分を覗き込む。そこは少し赤くなっているが、血は出ていない。ホッと息を吐いて、中也はルナの額を優しく撫でる。


「まだ痛ェか?」

『ううん、平気…』


痛みより驚きの方が強い。意を決したとは云えあのタイミングで中也が部屋から出てくるなんて、思わぬ事に何だか気が抜けた。ルナは心の中で息を吐いて、視線を前に向ける。


その瞬間、ぱちりと間近で目が合った。青い瞳がジッと此方を見つめているの気づき、思わず視線を逸らす。


「……。」


中也はルナが不自然に視線を逸らした事に気付いた。何処か気まずそうに違う方向を見ているルナは矢張りいつもとは違う。宝石のように輝いている瞳は今は影がかかっているかのように。


中也はそんなルナを見つめて、そっぽを向くルナの顎を掴み此方に向かせた。そして、そのままルナの唇に口付ける。驚きに閉じられた唇を舌で舐めれば、いつもの癖か自ずと開いた唇を優しく食むように触れた。


ルナの視界に目を閉じた中也の顔が間近に映る。ルナは鳴り響く心臓に胸が苦しくなりながらも目を瞑って、泣きそうなくらい優しい中也のキスを受け止めた。


少し経った頃に何方ともなく唇を離す。ルナは熱くなった頬を冷ますように横髪を避けた後、ふと視線を中也の部屋にやった。


そして、そこにあったものにルナは目を見開く。


中也の部屋にある扉から中にかけて床にできた亀裂。異常なその跡にルナはピシリと躰が固まった。


『中也、床…如何したの?』


震える声でそう問うたルナの視線を辿り、中也も床を見遣る。その瞬間、中也の瞳が一瞬陰った。


「…あー、別に。何でもねぇよ」


中也の返答はルナに聞こえていない。今、ルナの頭と胸の内では疑問と不安が渦のように荒れ狂っていた。


『(やっぱり中也…)』


この床の亀裂は一眼見ただけで中也が自分でやったものであると判った。ルナは拳を握り締めて、奥歯を噛んだ。


「ルナ、部屋入れよ」


中也が立ち上がって同時にルナの手を取り立たせる。ルナは無言で頷き、促されるまま中也の部屋に入った。パタンと静かに扉が閉まる。


「手前、風呂は?」

『……先刻、シャワー浴びてきた。任務あったから』

「そうか、お疲れさん」


中也はこんな時間になっても寝ずに待っていてくれたのだろう。机には飲みかけの珈琲と、書類が数枚置いてあった。


ルナは淡い光が灯る部屋に目を配らせた後、もう一度床に入った亀裂に視線を落とす。それは扉から数米先で不自然に止まっている。まるでそこ目がけて圧を放ったかのような跡だ。


「ルナ、先刻の話の続きだがな….」


ふと、中也が話を切り出す。ルナは視線を床から離して中也を見遣った。


「手前を待ってる時、色々考えた。考えて、幾分か頭も冷えた時に思ったんだ」


中也の瞳は真っ直ぐルナを見つめている。その瞳は凪ぐ海のように静かだ。だが、海よりも深い感情がそこにある気がして、ルナはその瞳から目が離せなくなった。


中也は続ける。


「やっぱり俺は、手前の他の奴との関わりを断ちたい訳じゃねぇ。だから、手前は手前がしたいようにすれば良い」

『でも、』

「待て、最後まで聞け。……だが、優越感があったんだと思う」


中也が言葉を選ぶようにゆっくりと慎重に話す。ルナは開いた口を閉じて、黙って中也の言葉に耳を傾けた。


「俺にしか見せない顔を、笑顔を。お前が向けてくれる感情の全てを。それを独り占めできるのは俺だけだと……その優越感に浸ってた」

『……。』

「だから、手前が他の奴に笑顔を向けると苛つくし、嫉妬する。それが野郎相手なら特に……。厭だ、と餓鬼みてぇに思う事もある」


中也の思い一つ一つを漏らさないようにルナはその言葉を受け止める。昨日、中也が自分にした事、向けた言葉。全部、これらの言葉の片鱗だ。


「だが、そう思うのはお前の事が好きだからだ。そう思っちまうのは仕方ねぇだろ。そんだけ俺はお前に惚れてるってこった」


ニッと中也は少年のように笑った。その笑顔を見て、ルナは胸が締め付けられる。その胸の中で色んな感情が溢れて、目頭が熱くなった。


ルナは思わず中也の胸に飛びつく。中也は急に抱き付いてきたルナを受け止めて、目を瞬かせた。ルナが胸の中で小さく呟く。


『…じゃあ、中也は、厭じゃない?』


ルナの肩は震え、背中に回った手は縋るように中也の服を掴む。


『今の私の事……。昔と変わっていく私は厭じゃない?』


––––––––––––嗚呼、そうか。


お前はずっとその事を。



漸くルナが不安に思っていた事が何なのか判った。



中也は震えている小さな躰を優しく包むように抱き締める。


「厭な訳ねぇだろ。昔も今もお前の事が好きで好きで堪らねぇよ。この先もずっと、それだけは絶対に変わらねぇ」


この世に変化が必然であろうと、永遠に変わらないものがある。



どんなにお前が変わろうとも。

この想いだけは永遠に変わらない。







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