第十二章 願いは鏡花水月の如し




「くそっ!まだ戻って来ねぇのかよ」


ルナが消えていった鏡の前で中也は拳を握り締める。あの後、中也も敦も鏡に触れてみたが何も起こらなかった。ルナが何処に行ったのか判らず、ただ待っているだけしか出来ない自分が如何しようもなく腹立たしく、やるせなさが募る。


壁に寄りかかって膝を抱えていた敦はそんな中也の背中に何て声を掛けていいか判らず、先程ルナが消えていった鏡を見据える。


「太宰さん……、本当にルナちゃんは大丈夫でしょうか?」

「大丈夫さ、相手に敵意はないだろうからね。だから、中也。君もそろそろ落ち着き給えよ。君が焦ってもルナが早く戻る訳じゃない」

「……あ?」


空気に亀裂が入る。その瞬間に敦は冷や汗が垂れる。今は中也の怒りを止めてくれるルナもいない。この緊迫した空気。もし、此処で戦闘が始まったら如何しようと敦は拳を握りしめた。


「チッ、相変わらず澄ました野郎だな」


しかし、意外にも中也は落ち着いた声で云った。


「手前、知ってんだろ。あの声の主が誰なのか。いい加減話したらどうだ」


壁に寄りかかって目を閉じていた大宰を中也は睨み付ける。敦の視線も太宰に向く。


「あの声の少女は依頼人のお孫さんだよ」

「だから、その依頼人って誰何だよ」

「……ルイス・キャロル。嘗て欧州にいた伝説の異能技師さ」


太宰のその言葉に敦は首を傾げる。


「嘗て?太宰さんはその方に依頼されて来たのでは?」

「そうだよ。まあ、正確に云えば彼が昔、あの小箱に録音したであろうメッセージを聞いた。それも、数百年前の孫娘に向けてのね」

「数百年前って……」


敦の額から冷たい汗が流れる。中也も黙って太宰の話を聞いていた。太宰は何処か一点を見据えて、神妙な面持ちで続ける。


「この世界は、永遠を願ってしまった少女の牢獄なのだよ」





***







庭から離れてルナは森の中をアリスと歩いていた。


恋人の話をしてから、ずっと悲しい瞳をしているアリス。その様子をルナが黙ってジッと見ていたら、アリスは苦笑して、先程の調子に戻り明るい声でこの世界の事、そして、この世界を作ったのが彼女の祖父である事を話してくれた。


「お祖父様は欧州で何か物を作るお仕事をしていたの。その仕事が忙しくて、私が日本に来てからは一度も会わなかったけれど、いつも私に贈り物をくださったの。迚も不思議な物ばかりで、全部お祖父様が一人で作ったんですって。この子もその一つ」


アリスはそう云って振り返り、腕に抱いていた白い兎をルナに見せる。


「本物の兎みたいでしょ?この子お人形さんなのよ。でも、まるで本当に生きてるみたいに動くの」


ルナは目を見開いてアリスの腕に抱かれた兎を見据える。何処をどう見ても本物の兎にしか見えなかった。


『じゃあ、その兎もこの世界もアンタの異能力じゃなくて、アンタのお祖父さんの異能力によって作られたって訳か』

「…異能力。そうね、この不思議な力を異能力と云うのよね。私、お祖父様はずっと魔法使いだと思っていたの」


魔法使い…。慥かに異能を知らない者から見ればそんな類のものに見えるのだろう。


「この世界は鏡の国。鏡によって現実世界と隔てられた世界なんですって。そして、お祖父様は私にこの中で住むように云った」

『何で?』

「私、小さい頃体が弱かったみたいなの。だから、お屋敷の外にも中々出せて貰えてなくて……。でもそんな時、お祖父様が私の為にこの鏡の世界を作ってくれた。私が目一杯遊んで飛び回れるようなこの世界を。大きくなっても私は現実の世界より鏡の世界で過ごす時間が多かった。大好きなお祖父様が作ってくれた大好きな世界。だから、私……“彼”をこの世界に連れてきたの」


アリスはそう云って歩みを止めた。彼女の腕から兎が飛び降りる。そのまま兎は茂みの方へと走って行った。その姿を眺めながら、アリスは“彼”と出逢った日を思い出しながら、ルナに話した。


“彼”との思い出。

そして、この世界が変わったあの日の事を––––––。






***





“彼”は、私がこの世界に初めて連れてきた人だった。



偶々気まぐれで現実の世界に遊びに行っていた私。現実の外は体に良くないと口を酸っぱくして云われていたけれど、その日は多分そう云う気分だったんだと思う。


でも、やっぱり現実世界は鏡の世界とは違って見えて息苦しさを感じた。もう帰ろうとお屋敷に向かって足を進めるも、現実世界では鏡を介して移動する事は出来ない。森の中を自分の足で歩かなくてはいけなかった。そんな当たり前の事が、ずっと鏡の世界で生きてきた私には出来なかった。森は深く、険しい。あんなに大きなお屋敷が高い木で見えない。私は途方に暮れて大きな湖で疲れた足を休ませていた。


湖の水は冷たくて、熱った足には気持ちよかった。今度、鏡の世界でもやってみようと考えていた私の視界にある小舟が映る。


気付かなかった。小舟に人が乗っている。釣りをしているのだろうか。何か糸のようものがついた棒を持っている。此処は自分のお屋敷の敷地内だ。こんな場所に人がいるなんて思わず、私は慌てて立ち上がった。


だが、その瞬間足を滑らせて私は湖に落ちた。全身を覆う冷たい水の感触。呼吸が出来ない苦しさ。踠いても踠いても遠くなっていく水面。


全てが初めてで、怖かった。


けれどその時、私を救ってくれたのが小舟で釣りをしていた“彼”だった。


小船の上に引っ張り上げられ、私は咳き込む。彼は心配そうな面持ちで私に叫んでいたけれど、何を云っていたかあまり覚えていない。


だけど、私を助けたくれた彼はその後も優しい笑みを浮かべて私を屋敷まで運んでくれた。彼はよくあの湖で釣りをするのだと云う。彼処は私の家の私有地だと云うと驚いた顔をして謝ってたけれど、別に現実世界は使っていないし、いいよと云えば彼は申し訳なさそうにでも嬉しそうに笑った。


彼と出逢って、その後も何度も彼と逢う内に私は彼を愛した。彼も私を愛してくれた。だから、私は彼を鏡の世界に招いた。


彼は最初驚いていたけれど、この世界が好きだと云ってくれた。彼はあの眩しい笑顔で


〝 この世界でずっと君と居られたらな 〟


と、笑った。



私はその言葉が迚も嬉しかった。




彼と過ごす日々。幸せな日々。

大好きな世界で、大好きな人と過ごす日々。



抱きしめ合って、キスをして、


愛し合って。



この幸せがずっと続けばいい。



湖の畔で、二人きりの世界で夜空を見上げながら願った。


「永遠があればいいのにな。そうしたら、私、貴方とずっと一緒にいられるもの」


些細な願い。けれど、本気の願いだった。その願いは私の人生の中で屹度一番の願いだった。


その願いが、彼を苦しめる事になるとは知らずに、私は願ってしまったの。私はこの世界で、現実世界ではなく。私の、私の為だけに作られたこの鏡の世界で。



––––––––––––永遠を。







***



数日して、彼は現実世界に一度帰りたいと云った。年老いて足を悪くしていた母の様子を見に行きたいと。


私も着いて行くと云うと体は大丈夫かと心配そうにしていたけれど、大丈夫だと頷けば、辛くなったら云ってと笑った。


鏡の世界から、現実世界へ。


そこで変化に気付いた。


お屋敷が酷く古くなっていたから。屋根がなく天井が剥き出しになっていた、床も所々空いている。まるで何百年も経ったかのように古びていた。


そして、その理由が判った。


彼の母はとうの昔に死んでいた。彼の母だけじゃない、あの時、あの時代に住んでいた人全員がとっくの昔に亡くなっていた。


時が進んでいた。それも何百年という年月。


彼は、その事実に絶望していた。


私は彼を説得した。


戻ろう。私達の世界に。
あの世界は屹度、永遠になったの。
貴方と私の世界は永遠よ。
こんな悲しい事は起こらない。


そう説得した。
彼が何処かに行ってしまう気がしたから。


けど、彼は最後にこう云った。



〝 永遠なんて、いらない 〟



彼は、そう云った。


最初に永遠を望んだのは、貴方だったじゃない。
私とずっと居たいと云ったのは貴方だったじゃない。


なのに、如何して?


鏡の世界が永遠を本物にしただけ。


願いが叶ったのに。


彼は私の元を去った。


鏡の世界はお祖父様が作った世界。
魔法使いのお祖父様。


そのお祖父様ももういない。


この鏡は永遠の世界。
それを願った私はこの世界で生きていく。



彼と出逢った湖で私は泣いた。小舟に乗って、湖の中心で、私は鏡を湖に落とした。ゆっくりと鏡が沈んでいく。それを見届けて私も自分の身を投げた。


全身を覆う冷たい水の感触。


呼吸が出来ない苦しさ。


踠いても踠いても遠くなっていく水面。



そこから引き上げてくれた彼はもういない。


何処までも深く沈んでいく。



嗚呼、お願い、私の鏡。


もう私を此処から出さないで。


永遠に私を閉じこめて。


どんなに私が願っても、もう二度と私を此処から出さないで。


お願い、お願い。


お祖父様、私はこの鏡の中で永遠に生きていきます。




彼が永遠を拒絶しても、

私は私が願った永遠を決して否定したくはないから。













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