第十二章 願いは鏡花水月の如し




花の香りがした。


空は青く澄み、頬を撫でる爽やかな風が心地よい。


ルナは辺りを見渡した。此処は庭だろうか。黄色やピンク、白や赤といった彩り豊かな花が草の緑に映えている。


『…あ。あの時の兎』


ぴょこんと揺れた耳。時計の首輪をつけた真っ白な兎がガーデンアーチの下で此方をジッと見ている。ルナがその兎に近づけば、兎はまるでこっちに来てと云わんばかりに跳ねていく。


ガーデンアーチを潜れば、その先に草花で飾られたガゼボがあった。ルナは足を止める。


紅茶の匂いが漂ってくるその場所に一人の少女が座っていた。白い兎は案内を終えたかのように駆けていき、優雅に紅茶を飲んでいた少女の膝に飛び乗った。


ルナはその少女を見据える。


カチャ、と紅茶の入った陶器の音を立ててゆっくりと少女の瞳が此方を向いた。


「初めまして、ルナ。私の名前はアリス。逢えて嬉しいわ。さあ、此方に座って。一緒にお茶でもいかが?」


少女はアリスと名乗った。歳は17、18くらいに見える。西洋人の顔立ちで、お嬢様といった雰囲気が迚もよく似合う。否実際、話し方からしてそうなのかもしれない。


『…シュークリームがあるなら』

「あら、ルナはシュークリームが好きなの?大丈夫よ、ちゃんとあるわ。シュークリームって甘くて美味しいわよね。因みに私はショートケーキが一番好きなの」


アリスはさあどうぞ、と向かいの席にルナを促す。ルナは大人しくそこに座り、目の前の少女を観察する。


「ふふ、」

『…何?』

「私、こんな風に女の子とお喋りしながらお茶を楽しむのは初めてなの。だから、今迚も嬉しいのよ」


にこにこと笑うアリス。目の前のテーブルにあるのは紅茶とお菓子。そして、周りは何処かも判らない庭。自分とアリス以外人の気配はない。今も彼女から敵意は感じない。


「お客様が偶に来るって云っても、いつも殿方ばかり。それにみーんな私の事を変な目で見るのよ。君は誰だ、此処は何処だってそればっかり。こんな風にお茶を楽しむ事も出来ないわ」

『私も思ってるけどね。アンタが誰か、此処が何処なのかって』

「ふふ、ルナはいいのよ。だって、可愛いもの」

『……。』


何となくルナはこの少女が苦手だと思った。まだ逢って数分しか経ってないし、彼女の事も全く知らない。それに敵意がある訳でもない。だが、何となく、“居心地が悪い”そんな感じだ。


今一アリスの事を掴めないでいるルナを余所にアリスはお菓子を食べながら喋り続ける。


「ねぇ、ルナ。あの乱暴な殿方はルナの恋人なのでしょう?」

『(乱暴…、中也か)』

「恋人なのよね!?」

『うん、そうだけど』

「きゃあ!素敵ね!いつからお付き合いしているの?」


何なんだろうかこの話題は、とルナは眉を顰める。目の前には目をキラキラとさせているアリス。別に此処に恋愛話をしに来た訳じゃないが、何か話の流れがアリスに全部持っていかれてる気がする。


『…15の時くらいかな』

「まあ!そんな前から!長いのね!素敵!告白は何方から?」

『……さあ、何方だったかな』


もう適当に答えようとルナは答えを濁す。それでも、アリスは瞳を輝かせながらルナに恋愛に関する質問を繰り返した。ただ単に恋愛話が好きなのか。だから、お題にもその手の類が多かったのかもしれない。


「ふふ、ルナは彼のことが大好きなのね」

『うん』

「じゃあ、如何して彼を好きになったの?」

『…え?』


その問いにルナは固まる。
喉から出ようとした言葉が声にはならなかった。


適当に答えればよかったのに。その適当さえ出てこなかった。今迄、樋口や姐さんとも恋愛の話をする事が何度かあった。その話の中で生まれる質問の答えをルナはいつも持っていたのに。


中也のどんな処が好き?
どうして中也が好きなの?


その質問はよく訊かれるもので、ルナ自身息をするように中也の好きな処を沢山話していた。


けれど、


如何して中也を好きになったのか?


そう訊かれた事は今迄なかった。そして、その答えがルナの中から言葉として出てこなかった。


アリスは急に固まったルナを不思議そうに見つめる。


「ルナ?」

『………どうして…って』


––––––––私、如何して…中也を好きになっんだっけ。


その根本的な理由が思いつかなかった。

過去の自分は如何して中也を好きになった?中也の好きな処は沢山あるのに。あの時、中也を好きだと自覚した自分は何を理由にそう自覚したんだっけ。


「ルナ、ごめんなさい。答えづらかった?」

『……いや』


ルナは答えられなかったその事に心臓が抉られたようだった。もし中也がその質問をされたら、中也は答えられるのだろうか。もし、誰かが同じ質問されたら皆が皆答えられるのだろうか。


答えられないのは、自分だけなのだろうか。




嗚呼、またか。

また、


–––––––––––私はこの感情を疑うのか。




「じゃあ、ルナは気付いたら彼の事を好きになってたのね」

『……え?』


アリスのその言葉にルナは俯かせていた顔を上げる。目の前には柔らかく笑うアリスが優しく目を細めていた。


「そうよね、恋した瞬間に理由なんてないわよね。私もそうなの。嗚呼、この人が好きだって思ったら、もう好きになってて、気付いたら如何しようなくその人の全部が好きで堪らなくなっているのよね」




–––––––––気付いたら、好きに。




そうだ。私も、中也を好きだと気付いた時には、もう如何しようなく好きだった。理由なんて判らないけど、好きである事に嘘なんて微塵もなかった。


『うん、私もそうだ』


ルナが微笑んだのを見て、アリスは頬を緩める。そして、空になってしまったカップに新しく紅茶を注いだ。


「私もね、恋人がいたのよ」


湯気が立つ紅茶に角砂糖を入れながら、まるで懐かしむようにアリスが云った。


「彼は優しくてね。この世界で一人寂しかった私の傍に居てくれたの。そして、私を愛してくれた。私も彼を愛した」


匙で紅茶をゆっくりと混ぜ、溶けてなくなっていく角砂糖を見つめながら、アリスは先程よりも静かな声で話す。先刻まで明るく笑顔で話していたアリスだが、今は迚も悲しい目をしていた。


『…その彼は如何したの?』

「とっくの昔に死んでしまったわ。ずっと、ずっと前にね」

『…とっくの、昔?どう云う意味?』


一体、アリスは何歳頃の話をしているのだろうか。アリスのその云い方は何処か不自然でいて、底知れない何かがひしひしと伝わってくる。


ルナの問いに小さく苦笑したアリスは伏せた目を開けて、向かいに座るルナを真っ直ぐ見つめた。



「ねぇ、ルナ。愛した人が傍にいてくれて、これでもないくらいの幸せがあるのに、それでも願う事は何だと思う?」



そよ風がルナとアリスの髪を揺らした。花弁が遊んでいるかのように一色の青空に沢山の彩りを散りばめながら上へ上へと舞い上がっていく。




「それはね––––––––––、」




アリスはまるで子守唄を歌いだすようにゆっくりと囁いた。






「〝 永遠 〟」
















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