第二章 過去に抗う者達よ



静かで洋風な音楽。お洒落な淡い洋燈の色。


甘いアルコールの匂いが香るバーで些か不釣り合いな不満を含んだ声が響いた。


「聞いてくれよ。昨日首領がこんな事云いやがんだよ」


煙草と酒が入ったグラスを手に中也は一緒に飲みに来ていた広津と梶井に話を振る。


ヒック、としゃっくりをし出した中也を見て、始まった…と少々呆れた目を中也に向けた二人。そんな視線に気づかない中也はそのまま続けた。


「太宰君、組織に戻って来ないかな?君もそう思うだろう?___元相棒の中也君」


「だとよ!現五大幹部じゃ不満だって云いてェのか!?」

「はは、私も首領に同意見だ。まぁ、戻りはしないと思うが」

「ああ糞!太宰の野郎一言文句云ってやらんと気が済まねェ!」

怒り任せにギャーギャー騒ぐ中也は携帯を取り出し太宰に電話をかけ始める。普段の彼なら心底嫌っている太宰に電話を掛けるなんて事はしないのだが、今は仕方がない。何故なら彼は今酔っているのだから。


そんな中也を見て繋がらないだろう、と心の中で呟く梶井。


「チッ、出ねェし!」


不機嫌丸出しで携帯に耳を当てる彼の表情は小さな子が見たら泣いて逃げ出す事間違いなしだ。否、大の大人でも逃げ出すかもしれない。


「貸してみ給え」


掌をひょいっと出した広津は携帯を中也から受け取り掛け直す。そして、数秒もしないうちにに電話口の向こうへと話し始めた。


「おい何で広津が掛けた途端に出ンだよ!エスパーかよ!貸せよ!!」


広津の手から携帯をふんだくって「おいだざ…ッて切れてやがる畜生!」と叫ぶ中也に広津は水を出すようにマスターに頼む。


「本当に繋がったの?」

「真逆。酔いの程度を確かめた迄だよ」


そして、一人で騒ぎ終わった後はバタンと机に突っ伏して眠ってしまった中也。そんな彼に二人は溜息を吐いた。だが、これもいつもの事なのでもう慣れている。


「彼寝ちゃったけど如何する?」

「いい方法がある」

梶井の問いにそう返して広津は徐に携帯を取り出し、迷いなくある番号に掛け、数秒耳に当てて出るのを待つ。そして、繋がった電話。


「はい、私です。……嗚呼、そうそう、お探しの彼ならいつものバーにいますよ。……いや、まさか、私と梶井と彼の三人だけで…はい、では頼みます」


ピッと電話を切った広津に梶井は誰に掛けたのか察し、残った酒を飲む。カランと氷が鳴った。


「彼女は何て?」

「直ぐに迎えに行く、と。他の女性と飲んでいるのではと問詰められたよ」

「うははは、ほんと愛されてるねぇ」


糞太宰…ゆるさねぇ、と寝言を零しながら眠る中也に視線を向けて二人は微笑んだ。……が、外で強風が吹いたようにガタガタと揺れた窓に顔を引攣らせる。まだ通話を切ってから1分も経っていないのだから。


そしてその直後にカラン、コロンと鳴った扉に二人して視線を移した。一度店の中をぐるりと見渡した彼女の視線がカウンターに辿り着く。そして、緑のマフラーを揺らしながら近づいて来た。


『もう潰れてるの?』

「まだ一杯目の筈なんだが」

『酒弱いくせに飲むんだからこの男は』


呆れた声でルナは突っ伏している中也の顔を覗き込んだ。耳まで真っ赤になっている中也は完全に酔っ払っているようだ。


『中也ー!起きてー、早く帰ろうよ』


中也ー、と声を掛けながらペシペシと帽子を被った中也の頭を叩きながら起こすルナ。そんなルナの手を「るせぇ」と寝ぼけながら鬱陶しそうに払った中也にルナは顔を顰めた。そんな二人をハラハラとしながら黙って見守る広津と梶井。


『…私帰る。二人共、中也置いて帰っていいから』


中也に厄介者扱いされて怒ったルナは踵を返し中也から離れようとした。


だが、その瞬間ルナの手を眠っていた筈の中也が掴む。驚いて振り返ったルナの瞳にはアルコールで頰を赤くさせた中也が映る。海のように青い瞳はとろんとしていたがその視線はしっかりとルナに向けられていた。


「行くンじゃねぇよ、ルナ」


掠れていてどこか色っぽい声音にルナはどきりと胸を鳴らす。心地よい低音が耳を擽るように触れた。そして、中也は掴んだルナの手を引き寄せて、ルナの細い指に自身の唇で触れる。その中也の行動にルナも酒に酔ったように顔を赤くさせた。


『莫迦』


悪態をついて中也から視線を逸らしたルナ。彼女は珍しく照れていた。その表情はまさに乙女のそれ。可愛らしく、艶のあるその表情を見れば誰も彼女がマフィア随一の暗殺者だとは思わないだろう。


『広津さん、中也の上着は?』


突然掛けられた声に広津は直ぐ様ルナの手に中也が脱いだ上着を渡した。ルナはそれを受け取った後、中也の腕を肩に回してふらふらと歩く彼を支えながらバーを出て行った。


そんな二人を茫然と見送り、残った二人。


「なんか、あの二人ってほんとに…あれだよね、ほら」

「云いたい事は分かる。まあ、若者は若者同士、我等は我等で楽しもう」

「僕、まだ二十代なんだけど……」


残った酒を飲み干す梶井。酒の甘い味が薄れていたのはあの二人が残していった雰囲気の所為ではなく、きっと氷が溶けたからだ。



***



却説、帰ると云ったが何処に帰ろうか…とルナは中也を支えながら考える。

拠点?それとも中也の家?

うーん、うーん、と頭を捻ったルナだがふと中也の家にはシュークリームのストックがないのでは?と思い直し、拠点に帰る事に決めた。



拠点に帰ったルナは中也の体をベッドに横たえる。ハァァ、と長い溜息を吐くルナはベッドの端に座り疲れた顔をしていた。


私も寝よう、と着ていた黒外套を脱ぎ始めたルナの耳にギシッと木の軋む音が聞こえた。その音に振り向こうとした瞬間に視界に入った伸びてきた腕。気付いた時には後ろから中也に抱き締められていたルナは一瞬目を丸くしたが直ぐに視線だけを後ろに向けた。だが、中也の顔はよく見えない。


『起きたの?』

「………。」

『中也?』

「……。」
『……。』


無言?


ルナは何も声を発しない中也を不審に思い体ごと振り向こうと試みるが中也の腕がそれを許してくれない。それどころか、先刻よりも抱き締める力が強くなった。


「手前も、……かよ」

『え、何?何て云ったの?』


ボソボソと呟いた中也の声がよく聞こえずにルナは聞き返した。


「手前も太宰に戻って来て欲しい、って思うのかよ」

『……は?』


あまりにも予想外過ぎる問いにルナは眉根を寄せて腕の中で体を捩り無理矢理中也の方へ振り返った。


『何でそこで太宰が出てくるのよ。中也、なんか変__』


ルナの言葉はそこで途切れた。目を見開いたルナの瞳には中也の顔がドアップに映る。唇に触れた柔らかい感触にキスされたことが分かった。


『んっ、ちょっ』


肩を押し返して離れようとするルナだが中也は手をルナの後頭部に回し、更に閉じられた唇を割ってルナの口内に舌を挿し入れる。蠢く中也の舌はいつもより熱くて、ほんのりとお酒の味がした。


『ふ、んんっ、んぅ』

「……ん」


食べられちゃうみたい。

重なった唇が溶けてしまうのではないかと思う程の激しい口付け。いつのまにかベッドに押し倒された状態で私は中也の接吻を受けている。角度を変えて何度も、舌を絡めて離し、また絡めて。息が苦しくて最後の抵抗とばかりに中也の服を掴む手に力を入れた。


離れた唇と舌に二人の混ざり合った唾液が繋がり、淡い洋燈の光によって扇情的に照らされる。


『はぁ…はぁ、ちゅう、や?』

「ルナ」


熱のこもった声で名前を呼ばれる。中也の手が私の頬を撫で、首筋を撫で、そして私の服に手をかけた。中也のゆっくりとした手の動きに反して鳴り響く私の鼓動は速い。


心臓が飛び出しそうだ。


ギュッと目を瞑ってこれから起こる展開に身構える。





どさりッ。


『ぐえっ』


蛙が踏まれたような声が出た。体にのしかかった重み。その息苦しさに目を開け、視線を直ぐ横に移せば……。


『嘘でしょ……寝てる…』


くかーっと口を開けて子供みたいに眠るアホ面が見えた。それはそれはもう気持ち良さそうに夢の世界に旅立っている中也は私の上に覆い被り動かない。呆れて物も言えないとはこのことか。


『はあ、重っ』


完全に脱力し切っている中也。私は天井を見上げて呟く。先刻までの雰囲気は何処へやら。唇に残る熱も、胸の鼓動も、まだ治っていないと云うのにこの男は……。唯の酔っ払いとしては質が悪い。


でも、中也が酒に弱くて直ぐに酔っ払ったとしても流石に今回はいつもよりおかしかった気がする。太宰絡みで何かあったのかと思うけど……ん?


『手前“も”?』


中也が太宰の話を私にし出した時、確かに“も”と云っていた。記憶を掘り返して整理してみると、私も太宰がポートマフィアに、正確には五大幹部に戻ってくるのを望んでいるか、と訊いてきた気がする。つまり、中也は誰かにそのような事を云われたのだろう。その誰かは今しがた思いついた。


『はぁ、あの人は本当に余計な事を云ってくれる。まあ、中也も中也だけど』


先刻よりも感じる息苦しさに、全体重をかけてくる体から何とか抜け出す。ふぅ、と息を吐いてからベッドにうつ伏せになり乍頬杖をつき、同じくうつ伏せで寝転がったままの中也の顔を覗き込んだ。


『何を心配してるんだか。私は中也がいればそれだけでいいのに』


中也の寝顔を見つめながら口元に優しい笑みを浮かべて呟くルナ。赭色の髪に触れてルナはその毛先で遊ぶ。くるくると巻き付く髪を眺めながら、それに……と呟き、目を伏せる。ルナの指から、はらりと中也の髪が解けた。



『太宰が帰ってくる事なんて絶対にないよ。
だって太宰は、私を恨んでいるからね』



静かに呟いたルナの声は誰の耳にも届く事なく、煙草の紫煙のように空気に溶け込み、消えていった。



***

〜余談話〜

次の日、起きた中也は隣で寝ているルナを見てギョッと目を見開いた。彼は広津と梶井と飲みに行って、酒を一杯飲んだ後からの記憶が抜け落ちていたのだ。記憶を掘り出そうと頭を抱える中也に目を覚ましたルナは冷ややかな目を向けたとか如何とか……。




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