第十章 夢魘に熟れし果実を喰らう




「…光?彼処か」


前方に見えてきた微かな光。そこに向かって中也はさらに速度を上げた。トンネルのような道を抜け、広々としたその空間に出る。その瞬間、喉を渇いた空気が通る。そこにあったのは異様な茨の塊。何本もの茨が集まり木の幹ぐらいの太さにまで膨れ上がったそれがまるでこの空間の主のように空間の中心に立っていた。そして、その茨の塊から少し離れた場所に一人の男が力なく座っている。


「…誰だ、手前は。この気持ち悪りぃもんを作った異能力者か?」


中也の問いに男は何も答えずにただのその場に蹲っている。


「ルナをどうした。此処に彼奴がいんだろ。若し彼奴に何かしてやがったらただじゃおかねぇぞ」


“ルナ”という名に反応したのか男は伏せていた顔をゆっくりと上げた。そして、中也の方を一切見ずに、ある一点を見据えた。


その反応を不審に思った中也は男が呆然と見つめる一点に目を向ける。


「なっ!」


中也は目を瞠ってその光景に絶句した。


茨の塊。

その中心に見える血に染る見慣れた白い手。


何度も重ね、何度も触れてきたその白い手は、たとえ血に染まっていても誰のものかなど中也には一目瞭然だった。


「ルナ!!!」


中也は直様そこに駆け寄った。右手だろうか。その手は力なく、動く気配はない。


「くそっ!おいルナ!死ぬんじゃねぇぞ!待ってろ絶対出してやるからな!」


叫びながらルナを覆う茨を引き千切る。一体どこまで呑み込んでいるのか。力を込めて引き千切ってもルナの姿は見えない。それどころか、抵抗するように蠢き出した茨。鋭い茨の棘が中也を襲う。直ぐに自身に重力の膜を張り、その攻撃を防ぎながら中也は茨の塊に手を突っ込む。


「ッ、!!」


触れた感触。これはもう一方の手だ。


自身も呑み込まれないように踏ん張りながら中也が掴んだ手を引っ張れば、茨の隙間からルナの顔が見えた。気絶しているのか、目を閉じたその顔は青白い。


「ルナ!おいルナ!目を覚ませ!」


何度名を呼んでもルナの目は開く様子がない。中也は掻き抱くようにルナの体を引き寄せて生死を確認した。


––––––––––大丈夫だ。生きてる。


それに安堵し、中也はルナの体を離さないように左手でしっかりと支えながら、未だにルナの体に絡み付いている茨を見遣る。ルナの体中に絡み付いたその茨。鋭い棘がルナの体に食い込みそこから血が滴り落ちている。最も重傷と見られるのは腹。太い茨がルナの背中から腹を貫通しそこから止めどなく血が流れ出す。


中也は歯を食いしばってその傷を見た後、目を閉じたままのルナに目を向ける。そして、労るように瞳から流れる血の涙を優しく拭った。


「悪りぃな、ルナ。少しだけ我慢してくれ」


中也はルナの腹を貫通している茨を掴み、それを思い切り引き千切った。その瞬間、幾多もの茨の蔓が一斉に動き出し、再びルナに向かって伸びてくる。中也は直様重力操作を使いルナを抱えたまま茨を蹴って水平方向に跳んだ。


全ての茨がルナの体から離れる。獲物が離れたからか、それとも沢山千切られたからか、先程まで蠢いていた茨の動きが鈍くなった。その様子を確認した中也は抱き抱えているルナに視線を落とす。ルナはまだ目を閉じている。気絶しているだけなのか。否、気絶しているというより、まるで眠っているようだ。深い眠りに身を預けているような。


「おい、ルナ!目を覚ましやがれ!起きろ!ルナ!」

「深い……眠りだ……」


突然、聞こえた声に中也はバッと視線を向ける。覚束ない足取りで立ち上がった男。ボロボロの戦闘服を着た先程の男だ。その男は眠るルナに呆然と目を遣りながら言葉を続ける。


「それ程までに、恐ろしいのだ。今、彼女が見ている夢は……」

「夢だと?」


男の言葉に中也は問い返す。未だに目を閉じるルナは今夢を見ている。だから、目を覚さないのか。


「見えるよ、俺にも。彼女の夢が。彼女の恐れが。一点の光もない暗闇、寂れた孤独、己の死。そんなものより恐ろしいもの。唯一、そして何よりも菊池ルナが恐れていること」


男は天を仰ぐように天井を見据えた後、ゆっくりとした動作でルナを抱える中也を指さした。


「それは中原中也、お前を自らの手で殺してしまう事だ」


中也はルナの肩を抱く手に力を込める。



––––––––––ルナが俺を殺すだと?


そんな事ある筈がない。


その言葉は音にならなかった。酷く冷たく男の言葉が中也の中に落ちる。


ルナが唯一恐れるものは、中也の死。それも己の手でそれを現実にしてしまうという恐怖。


中也は男から視線を離し、ルナを見る。眠り続けるルナは今も悪夢に魘されている。その悪夢が、自らの手で中也を殺す夢ならばどれだけ辛く、残酷で、恐ろしい事だろうか。



心臓が抉られる思いだった。


ずっとその夢を見続けているのか?ルナ。


中也は悪夢の中を彷徨い続けるルナを優しく強く抱き締める。


「ルナ、目を覚ませ。俺はここにいるぞ。手前の傍に、ちゃんといる」


傷だらけのルナ。体だけじゃなく、心まで傷付いている。


一度、“それ”に囚われ、恐怖に堕ちた人間は二度と目を覚さない。心がボロボロになり、崩れ落ちれば、肉体は“それ”に喰われてしまう。


人間の恐怖は、深くその人の心に住みつく。決して逃れられない恐れを抱いて生きていく。


そして、“それ”はその恐怖の心を喰らう。


一度、喰われた人間は決して戻って来られない。


–––––––––––筈だった。


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