第九章 感情の欠片は追憶の中に

【追憶の十二 感情が招いた闇夜の兆し】



私の行動の全ては、首領の命令ことばだった。



命令のままに人を殺す。



そこに私の意思はなくて、特に何も感じていない。


血の地面に転がる死体が憎しみや怨みの目で私を見る中で、私はただそれを見据える。


もう生きていない冷たい死体の筈なのに、まだ生きている私よりも醜く激しい感情を持っていた。



戦場はいつも感情の渦の中だ。


なのに、私だけがその渦の中で虚無だった。




けれど、あの時。



私はあの時初めて感情の渦の中心にいた気がしたんだ。













____3年前の追憶____



好きな時間は?



そんな質問を聞かれたら何て答えればいいんだろう。



まあ、そんな質問私に聞く人なんていないと思うけど若し聞かれたら私は今こう答える。



私は朝日の光に目を覚ます。素肌に感じるさらさらのシーツの感触に、髪を撫でる温かい手。


そっと瞼を開けてみる。


「よォ。よく眠れたか?ルナ」


そして、優しい笑顔。


私はこの時間が好き。


私が寝ている間、先に起きた中也は私の髪を撫でていて、私が起きると今度は頬を撫でて優しく笑うの。私の心臓は少し早く鼓動を打っているけれどそれは全然厭な速さじゃなくて。


『おはよ、中也』


あ、でも、朝一番にするキスの瞬間も好き。昨晩の激しさが嘘のような小さなキスだけど好き。ほわほわとゆっくりのんびり時間が流れていくようなそんな優しい時間が……。


『……中也』

「あ?何だよ」

『何で触ってんの?』


ふわふわほわほわな時間だったのに私の胸を触り出す中也。ほんわかな時間が台無しな気がする。


「手前が起きる迄我慢してやったんだ。こん位いいじゃねぇか。それとも厭なのかよ…」

『厭じゃないけど、ふわほわだったのに』

「は?何云ってんだ」


私の躰を弄る中也の手は優しい。朝だからかな。


中也とそういう事をするようになって随分経つ。初めはお互い手探りみたいで、判らない事も多くて。前に一度シている途中で避妊具が取れそうになった時もあって、その時の中也の慌て具合は面白かった。



思い出すと月日の流れとは早いもの。それと共に繰り返す変化。月日の間に変わった事。


一番は、太宰が組織を裏切った事だ。


突然の任務放棄に失踪。


今何処で何をしているのか誰も知らない。


けれど、最後にあった彼の瞳は今でも脳裏に焼き付いている。


「…おい」


突然、耳に入ってきた声にハッとする。中也が怪訝そうな顔で眉を顰めていた。先刻までの優しい笑みはない。


「何考えてやがる」

『え、別に……』


太宰の事なんて云ったら絶対中也の機嫌が悪くなる。何も答えず俯いていると突然視界が変わった。


天井をバックに不機嫌な中也の顔。両手首をがっちりと中也の手に縫い止められて私は目を瞬かせた。


「その面は俺以外の事を考えてる面だ。それもめちゃくちゃ気に入られねぇ奴のなァ」


中也ってエスパーだったっけ?


なんて呑気な事を考えている場合ではなかった。


『ひゃっ!あ、ッ』

「俺の事だけ考えてろ莫迦野郎」


昨晩の熱が再び帯びる。ほんわかな時間なんて簡単に吹き飛ばしてしまった。でも、嫌いじゃない。激しい熱が帯びるこんな時間も。



だって私の好きな時間は、中也と一緒にいる時間なのだから。





***


「やべ、時間ギリじゃねぇか」

『中也の所為じゃん』


あせあせと二人して服を着ながら慌ただしく支度をしていく。私は最後に緑のマフラーを巻き終えて、中也に振り返った。


『中也、今日夜まで任務だっけ?』

「嗚呼、拠点に寄らず任務場所に直行だ」

『大変だね。五大幹部様は』


一ヶ月前開かれた五大幹部会で中也が幹部に昇格する事が決まった。中也の実力じゃ幹部になる事は当然とも云える。前より忙しい日々だけれど、首領も中也に頼ってる面は多いし、恐らく今一番マフィア内で期待されている幹部だろう。


「おら、ルナ何してやがる。疾く出るぞ。下に部下待たせてんだ」


最後に黒帽子を被り玄関に向かう中也に急かされて私はその背中を追いかける。今日の天気は快晴だ。高層マンションにある中也の自宅から出た私達は昇降機に乗り込み下の階を目指す。


「あ、そう云や今晩部下と飲んでくる約束してたな」

『そうなの?』

「嗚呼。だから今夜は一緒に寝れねぇ。先に寝てろよ」

『…うん』


中也がいないと寝れないんだけどな、と心の中で呟く。幹部になった事でこれからもっと多くの部下に慕われるから飲みに行く回数も増えるんだろうな。なんか寂しい気もする。



下の階に辿り着き外に出れば一台の黒い車が停まっていた。その車の後ろ扉を開けて頭を下げている男が一人。


「おはようございます、中原幹部」

「嗚呼。待たせたな」


顔を上げた男は中也の次に私を視界に捉えると少し驚いたようにサングラス越しの瞳を見開いた。


「…菊池ルナ、様。失礼しました。おはようございます」


男は慌てて頭をもう一度下げる。まさか、私がいるとは思わなかったのだろう。


「ルナ、乗ってくか?拠点の近くで降ろしてやる」

『いいよ。時間ギリギリなんでしょ。私、歩いていくから』


そうか、と車に乗り込んだ中也。今日一日中也とは逢えないのかと名残惜しくなり、中也が急いでるのに話を振ってしまう。


『中也、今日誰と飲みに行くの?まさか女じゃないよね』

「莫迦違えよ。其奴だ其奴」


中也が指差したのは先程の男。彼は既に運転席に座り、緊張した面持ちで私を見ながら会釈した。


「恐縮ですが中原幹部の昇格祝いにと僕がお誘いしました」

「別にいいって云ったんだけどな」

「そんな事仰らずに。幹部昇格は名誉な事なのですからお祝いするのは当たり前です」


部下から押し切られてって感じか。部下に慕われるって結構面倒なんだな。でも、やっぱりお酒が絡んでるからか中也は悪い気はしていなさそう。


『潰れるまで飲まないでよ中也』

「ンな簡単に潰れるかよ」

『部下さん、中也が潰れたら連絡頂戴』

「大丈夫ですよ。もし幹部が潰れた時は責任持って御自宅までお送りしますから」

「だから、潰れねえって」


何処までも虚勢を張る中也だが、酒に関しては信用ならない。


『はやく帰って来てね』

「嗚呼、わかってる。出してくれ」


エンジンを掛けて発車する車。片手を上げた中也に手を振りながら車が見えなくなるまで見送った。





***



「うーん、如何するかねぇ」

『なひは?』


シュークリームを頬張ったまま執務机で唸っている首領に問いかけた。


「敵対している組織に動きがあったらしいのだよ。SOGという名の組織でね。隠密主義な連中だからさして活発ではなかったが、最近になって力をつけてきているらしい。どこか別の組織と手でも組んだのかねぇ」


羽根ペンで机をコツコツと叩きながら首領は溜息を溢して、手元の書類を掲げた。


「火種は早めに消しとくか…。少し探って来てくれるかね?」

『りょーかい』


最後の一口を口の中に放り投げてから私は執務室を後にした。





潮風の匂いを嗅ぎながら横浜の街を歩く。もう外は暗くて、月が空に浮かんでいた。今頃、中也は仕事を終えて部下と飲んでいるのだろうか。酔い潰れてないといいけど。



今夜、中也に逢えないなんて寂しいな。はあ、と溜息を吐いて今は仕事中だったと思い返す。けれど、特に収穫はないし。



『うーん、もう少しこの辺調べたら…』


帰ろかな、と続けようとした言葉は止まる。


『(見られてる。後ろ百米といった処かな)』


この距離から私の尾行を始める心算だろうか。気配どころか殺気すら隠せてない。はあ、と溜息を吐いて歩き出す。後ろの気配が同じように動くのが判った。


鈍い月の光が落ちる路地裏に入る。この先は袋小路。尾行している奴はしめたと思って喜んで飛び込んでくるだろう。


後ろに振り返って来るのを待った。


角から此方を覗いた男と目が合う。拳銃を構えて男が銃口を私に向けた。


『貴方、SOGの人?』

「その瞳…。やはり貴様がポートマフィア首領専属護衛の菊池ルナだな。今此処で排除する」


銃声が路地に響いた。


答えなかったけれど恐らくこの男はSOGの奴で間違いない。なら……。


懐から短刀を抜き男が持つ拳銃目掛けて放った。短刀が拳銃に当たる。金属がぶつかり合う音がしたと同時に男の手から拳銃が離れた。男が地面に転がった拳銃に手を伸ばす前に男の顔面を横から蹴り飛ばせば男の体は勢いよく壁に激突した。


「うぐ、ッ」

『貴方達の目的は何?』


倒れている男の前に立ち問いただす。男は俯いたまま答えず痛みに呻いていた。


『アジトは何処?リーダーの名は?』

「ふっ、だれが云うかッ」


不敵に口角を上げた男が不意に顎を動かした。直ぐ様片手で男の首を掴んで口の中に指を二本突っ込む。苦しみに踠いている男の口内を探って、一つの錠剤を掴み出した。


『口封じの毒薬か。流石隠密主義の連中ね』

「くそッ!」

『悪いけどまだ死なせないよ。訊きたい事があるから』


取り敢えず逃げられないように男を気絶させ、首領に連絡を入れる為ポケットから携帯を取り出す。しかし、暫くしても首領は出ない。幼女の着替え中だろうか。仕方ない。広津さんに掛けるか。


今度は直ぐに繋がった。


『広津さん、敵対組織の構成員捕まえたから回収お願いできる?』

〈「承知しました。部下を数人向かわせましょう」〉

『うん、お願い』

〈「……。」〉


何だろう。


『広津さん?何かあったの?』


そう訊いたのは広津さんの様子がいつもと違う気がしたから。それは電話越しでも伝わる程に。


〈「実は…」〉



次の広津さんの言葉に私の頭は真っ白になった。気付いたら私はその場でイヴを呼んで、全速力で拠点に向かって駆けていた。





「中也君が毒を盛られ、治療室に運ばれました」






***



何で、何で、如何して?


だって、中也は今夜部下と飲みに行くって。任務だって危険なものじゃなかった筈だ。中也の身に危険な事が起こるなんて思ってもみなかったのに。


『中也!!!』


大きな音を立てて治療室の扉を開ける。最初に視界に入ったのは首領だった。白衣を着て手にはカルテを持っている。


「おや、ルナちゃん。敵組織の構成員を生け捕りしたそうじゃないか」

『そんな事は如何でもいいから!中也は!?』

「大丈夫だよ。命に別状はない」


冷静な首領を振り切って閉められているカーテンを開ける。寝台の上に上体を起こしている中也。私を見て片手を上げた。


『中也…、大丈夫なの?』

「幸い直ぐに吐き出したようだからね。だけど、今夜は安静にするんだよ中也君。では、私は執務室に戻るからね」


首領はそう云って治療室を出て行った。静まり返る病室。私は中也に目を向ける。目が合ったまま沈黙が続く。


『ねぇ、中也。……如何して喋らないの?』

「……。」

『ねぇ、まさか』

「…す、こし痛、てぇだけだ」


これが少し?物凄く声が掠れてるのに。毒を盛られたって聞いた。毒を飲んだって事?如何してそんな…。


『中也、あの部下の人と飲みに行ったんじゃないの?』

「……ああ」

『もしかして、あの部下に毒を盛られたの?』

「……。」

『裏切、られたの?』


中也は私から目を逸らしたまま何も答えない。それが肯定と判った。


あの部下は中也の幹部昇格祝いって云っていた。だから、私は中也を慕っているのだと思っていた。否、実際そうだったのだろう。でなければ、幹部の送迎係に任される筈がない。けれど、人の心は出鱈目だ。親しい者を些細な欲で簡単に裏切る。簡単に他人を傷付ける。


「はっ、変わん、ねぇな、俺は…」


前髪をくしゃっと握り締めた中也。掠れた声のうちに隠れた本音に何を思い出しているのか判った。その表情に胸が締め付けられる。信じたものに裏切られる悲しみ。それが痛い程伝わってきた。


中也は強くて、でも迚も仲間想いだから多くの部下に慕われる。



中也は迚も“優しい”。凄く凄く“優しい”。



なのに、いつも損するのは信じた方で、傷付くのは“優しい人”だ。


『中也、そんな事ないよ。私は中也の優しさが好きだよ。だから、自分を責めたりしないでね』


–––––––––––赦さない。



『今はゆっくり休んでいて。大丈夫、何も心配する事ないよ。直ぐ終わるから』

「…ルナ」



––––––––––絶対に、赦さない。



私の名を呟く中也の声に踵を返して私は病室を後にした。向かうは拷問処。


冷たい廊下を歩く度に私の足元から漏れ出る黒い影がざわざわと蠢き騒いでいた。






ルナが拷問処に着いた時、その場にいたのは複数の黒服の構成員。そして、先程ルナが捕らえたSOGの捕虜が一人。


『どこまで訊き出せたの?』

「まだ、何も。この男どんなに拷問しても口を割らず…」


何発も殴られ歯の一、二本折れた男が鎖で繋がれている。爪は全て剥がされているようだ。強靭な精神力がなければ、爪の一本でペラペラ話し出すが、流石は隠密主義を語る組織。


『拷問の仕方が甘い。貴方達、拷問班でしょ?如何して情報の一つや二つ訊き出せないの?それともこの男に情けを掛けてる心算?』

「も、申し訳ありません」


一気に温度が下がった空間にその場にいた全員が萎縮した。謝罪を述べる黒服の男を鋭利な瞳で見据えた後、ルナは鎖で繋がれている捕虜の前に立つ。


『アンタ達の拠点の場所は?』

「っ、云っただろ、俺は何をされても喋らな…」


男の右腕が宙を飛んだ。一瞬の事だった。その場にいた者が瞬きをする間に男の腕は男の体から切り離されていた。


凄まじい絶叫が拷問処に満たされた。


捕虜の男が痛みに苦しみに踠いている間にまた一つ、男の左脚が胴体から切り離される。また一つ一つと四肢が千切れていく。


『もう一度訊く。SOGの拠点は何処?』


地面に広がる血溜まりを踏み付けてルナは氷より冷たい瞳で血に濡れた男を見下ろした。





***





「おら、これが約束の報酬だ。しかし、判っているか?ポートマフィアの五大幹部を殺せていないならまだ貴様の仕事は終わってないぞ」

「判っているさ。直ぐに毒に気付いたのは少々誤算だった。矢張りあの人を殺すのは容易じゃない。流石は若くして五大幹部になった人だ」


或るビルの中でサングラスを掛けた黒服の男と金髪の髪を束ねた男がいた。その周りには多くの武装した男達。


ここはSOGのアジト。


「小規模だがポートマフィアに敵対している組織がうちと組みつつある。孰れ横浜の裏組織が一体となってポートマフィアを滅ぼすだろう。まずは奴等の力の要である五大幹部全員の暗殺だ」

「しかし、その前に厄介な奴がいる。首領の専属護衛を先に始末しておいた方がいい」

「首領の専属護衛?」

「嗚呼。見た目は幼いがあの少女が一番やばい」

「少女?がっはははは!ポートマフィアの首領は女の子に守られているのか!?そりゃ傑作だな」


金髪の男の笑い声が辺りに響く。大口を開けて笑うその男を睨み付けながら黒服の男が眉を顰めた。


「アンタも訊いた事くらいあるだろ?この世のものじゃない化け物を従えるオッドアイの暗殺者」

「ほう。その噂は都市伝説の類だと思っていたが、元ポートマフィアの構成員であるお前から聞くと真実味があるな。しかし、どんな強力な力を持っていたとしても俺の異能力を使えば恐る事はない」


がはははと高らかに笑い出した男を訝しげに見て溜息を吐いた黒服の男。手元にある札束を懐にしまい、次の仕事に取り掛かる為に踵を返した。



––––––––––その時。



突如として、ビルが大きく揺れた。


地震のように振動を弾ませ壁や天上に亀裂が入る。それと共に鳴り響く銃声と爆発音。金髪の男は立ち上がって「何だ!?」と叫び、黒服の男が辺りを見渡した。


「なっ!?」

「あ?」


首を傾げた金髪の男の頭が地面にポトリと落ちた。血飛沫を上げて胴体が地面に倒れる。金髪の男は絶命した。


『見つけた』


黒服の男はオッドアイの瞳を見据えた。
見据える事しか出来なかった。



返り血を浴びた小柄な躰。
その血よりも鮮やかで恐ろしい右目が鋭く光る。


『探したよ。この裏切り者』


尋常でない殺気。


その場にいる全員を殺気だけで殺せそうだ。
それ程に今、ルナは怒っていた。


今迄、こんな激情を持った事があっただろうか。


人を殺す時、こんなにまで激しい感情を持っていただろうか。


『私はアンタを赦せない。よくも中也を裏切ったね』


いつも虚無だった。何も感じていなかった。
でも、今は違う。



–––––––––––怒り。



それが今、ルナを支配している感情だ。


「ぼ、ボスが殺られた…」
「お、おい!何をしている取り囲め!!」
「侵入者を殺せ!」


武装した男達が震える声で叫ぶ。短機関銃を手にルナを囲み、銃口をルナに向けた。しかし、壁を突き破ってきた巨大な影に吹き飛ばされた。


獣の唸り声。ルナの背後に降り立ったその白銀の獣の口許と爪は真っ赤な血で染まっていた。一体、何人の人間を噛み千切り、引き裂いたのか。


黒服を着た男は腰を抜かして地面にへたり込んでいる。ルナが一歩近づくとまるで命乞いをするように額を地面に擦りつけた。


「ゆ、ゆゆ赦してくれ!中原幹部をう、裏切ったのは、気の迷いだっ…ぎゃあ"あ"あ"!!」

『理由なんて訊かないよ。どうせ大した事ない。そんなものどうだっていい』


両腕から流れる自身の血に男が絶叫する。切り離された二本の腕を道端に転がる小石のように蹴り飛ばしてルナは男に近づき腹を蹴り上げた。仰向けに寝転び残った両足で踠く男。寝返りを打たないように腹を踏み付けてルナは男を見下ろした。


『私はただお前に中也以上の苦しみを味合わせたいだけ。中也の“優しさ”をお前は踏みにじった。ズタボロに引き裂いて傷付けた。中也がどんな思いで…』



「はっ、変わん、ねぇな、俺は…」



–––––––––––もう二度とあんな表情かおさせたくないの。



ギリっと歯を食いしばる。今男の腹を踏み付けている足に力を入れた。男が苦しさに声を上げる。


憎い。中也にあんな表情をさせたこの男が憎い。殺してやりたい。否、簡単に殺すのも惜しい。死なないようにズタボロに引き裂いて、死んだ方がマシと思えるくらい苦痛を味合わせてやる。


何処からか弾丸がルナの前を横切る。怒りに満ちた目を弾が飛んできた方に向ければ増援の武装した男達がゾロゾロと湧き出て来た。全ての銃口がルナに向いている。そして、一斉に放たれた銃弾の雨。


『邪魔虫が…』


ルナの殺気が膨れ上がった。それに呼応してイヴが赤い瞳を光らせ、牙を剥いた。




銃声。爆音。咆哮。絶叫。


数多の轟音が夜の横浜を包み込んだ。


間も無く、警笛サイレンの音が鳴り響く。


飛び散る血。燃え上がるビルの炎。車のランプ。空に浮かぶ赤い月。


それ全てが暗い夜を真っ赤に染めていた。





***



警察や軍警がビルの周辺を右往左往駆け回る。


しかし、ビルの中では未だに爆発音の轟音が鳴り響き、人が入れる状況ではなかった。



その燃え上がるビルから離れた建物の屋上に背広服の男がいた。男は炎に包まれたビルを無表情に見据える。その男の背後から黒の戦闘服で武装した男が近づき頭を下げた。


「お疲れ様です。阿妻さん」

「状況は?」


阿妻と呼ばれた背広服の男は燃え上がるビルから目を離さないまま部下の男に訊く。


「惨憺たる状態です。ビルの入り口にかけて中は血の海。死体の数も多く、その遺体の惨状は想像を絶するかと」

「そうか。直ちに隠蔽班に連絡をしといてくれ」

「はっ!」


部下にそう指示を出して背広服の男は炎に包まれているビルの屋上に目を向けた。


蠢く巨大な影。燃える炎に包まれて咆哮を上げる。その巨大な影の下に返り血に染まった少女が一人。巨大な獣と同じ赤い右眼が妖しく光った。


「なんて悍しい姿だ。この悪魔め」


背広服の男は一人残った屋上で夜の闇に消えていった少女を見据えながら唾棄したのだった。





***



「矢張り来たか…」


淡い洋燈の光だけが灯る執務室で森は手を組んだままPCの画面を見据えていた。


––––––––––コンコン。


その時、鳴り響いた叩音に森は顔を上げる。


「おや、中也君。体調はもういいのかね?」

「はい。申し訳ありません。幹部ともあろう者が部下の管理も出来ず」

「いいんだよ。その件はもう済んだ事だ。君も災難だったね」


手を組んだまま話す森から目を離して中也は奥の扉を見遣った。それに気付いた森が困った顔で笑みを浮かべる。


「ルナちゃんはまだ地下の独房にいるよ。あの夜は随分と殺気立っていたからねぇ。暫くは彼処で冷静になって貰わないと」



森の話を聞きながら中也はあの日の夜の事を思い出した。





あの夜、治療室で寝ていた時、突然咽せ返る程の血の臭いがした。その臭いに飛び起きると寝台の横に血だらけの人影があった。一瞬、誰だか判らず身構えたが、オッドアイの双眼でそれがルナだと判った。


「ルナ…、お前その血…」

『心配しないで中也。もう終わったから。もう大丈夫だから』


何が終わったのか。何が大丈夫なのか。


ルナの体を染めるその血は全てルナのものじゃなかった。一体この数時間で何人殺してきたのか。あの時まだルナの殺気が残っていた。いつものルナじゃない事は一目瞭然だった。鋭い瞳孔を持つ赤い右の瞳が妖しい光を放っていた。




「全くルナちゃんも困ったものだ。中也君だって毒を盛られる事には慣れているだろう?幹部になれば尚更だ。その度にルナちゃんが暴れていたら大変だ。なにせ厄介な連中が黙っていなくなるからねぇ」

「厄介な連中?」

「嗚呼。だから中也君、その厄介者達を黙らせて来てくれるかね?」


紙に羽根ペンで何かを書いた森はそれを中也に渡す。それを受け取り見てみるとそこには時間と場所が書いてあった。此処に行けと云う事だろう。


「これは君にしか頼めない事だ。やってくれるね?」




***



青い月の光。


細い路地を通り、少し開けた場所で俺は月を見上げていた。辺りは静かだ。密会するのに最適な場所。


時刻を確認する。丁度、指定時刻の一分前だ。


秒針が動くにつれ誰かの気配を感じた。針が12を指した時、足音が俺の後ろで止まる。俺はゆっくりと振り返った。


「貴方は五大幹部の中原中也ですね」

「手前は…」

「私は阿妻李元。慥か貴方とは一度お逢いしていた筈ですよ」


背広服を着た男。その顔に見覚えがある。三年前、蜘蛛の糸を操る異能力犯罪者を倒した時に逢った異能特務課の野郎だ。


「ふむ、まさか貴方が来るとは思いませんでした。菊池ルナに関しては首領である森鴎外自ら来られると思っていたのですが」

「何だと?」


この密会はルナに関してなのか?異能特務課がルナに関して態々ポートマフィア、否、首領に密会を開く事を要求した。その訳は数日前の夜にルナが起こした事件が原因だろう。真夜中だった為一般市民に被害はなかったらしいが、ルナは一夜で大殺戮を起こしたんだ。流石の異能特務課も黙ってねぇか。



「我々はただ君の存在を見逃してあげているに過ぎない」



三年前の奴の言葉が脳裏を過ぎった。


まさか、此奴ルナを…。


「否、しかし坂口君の情報によると慥か貴方と菊池ルナは交際関係にあると聞きました。それは本当ですか?遽に信じ難いのですが」

「如何いう意味だ手前」

「いえ、他人の女性の傾向タイプを否定する心算はありません。世の中には30歳年上の女性が好みという方もいますから。ですが、忠告はしておきます。今直ぐに別れる事をお薦めしますよ。そして、彼女の身を異能特務課こちらに引き渡して下さい」


冷たい風が俺と奴の間を過ぎた。


今になって何故首領が俺を此処に来させたのか理解した。俺ならどう答えるか、首領は判っていたからだ。


「渡さねぇよ」


それはルナが組織にとって重要な戦力だからとか云うんじゃねぇ。その言葉は俺の本心。組織の為とか五大幹部の立場としてとか、そんなもん全て取り払った俺の、中原中也としての本心。



奴は俺の言葉に暫く沈黙した後、諦めたように小さく息を吐き出した。


「まあ、そうでしょうね。本来なら菊池ルナ “あれ”は此方が管理すべきものなのですが、正直此方には手に余る部分があるのも事実。その点は見事に森鴎外は“あれ”を管理した」

「手前、先刻から聞いてりゃルナを物みてぇに云いやがって」

「当然でしょう。“あれ”を同じ人間だと思いたくありませんから」


何だ此奴。初めて逢った時からそうだが此奴はルナに対して冷たい殺気を放っている。それは嫌悪なんて生温い感情じゃない。憎しみや怨みに似たもの。だが、その殺気は静かで、底知れない。


「さて、そろそろ話を締めましょうか。菊池ルナの身柄は今後とも貴方方ポートマフィアに任せます。けれど、今回の件は無視する事は出来ませんので要注意監視リストに載ってる彼女の更なる監視強化を致します。それでも此方が危険と判断したなら彼女を引き渡して貰いましょう。あんな大殺戮を起こされるといくら我々でも隠蔽するのに少々骨が折れますので。では、私はこれで」


踵を返した奴の背中を睨み付ける。異能特務課はルナを排除するのではなく、管理したいと思っている。それはルナが奴等にとって、否、この国に取って他国に対抗し得る貴重な存在だからだ。だから、ルナが何人殺そうと何をしでかそうと証拠隠滅までしやがる。そうやって此奴等はいつかルナを…。


「気に入らねぇな」

「…何がです?」

「俺だってマフィアだ。力のある人間を組織の為の駒として使う事に抵抗はねぇよ。ンな甘い世界じゃねぇ事ァ判ってる。だがそれでもなァ、ルナを同じ人間とすら思わず、ただ武器として使おうとしてる手前等には心底虫唾が走るぜ」


そんな奴等には絶対ルナは渡さねぇ。首領だって俺と同じ筈だ。首領はちゃんとルナを一人の人間として見ている。血は繋がっていなくとも娘としてルナを大切にしたいと思ってる筈なんだ。


「不思議でなりませんね。貴方は如何してそこまで彼女に肩入れするのです?」

「惚れてるからに決まってンだろ!」


俺の声がやけに路地に響いた。奴は暫く意表を突かれた顔で固まっていたが、一度視線を地面に落とした後、漸く口を開く。


「それは彼女が何者であろうともですか?」


肌を刺すような風が吹いた。いつの間にか月が厚い雲に覆われて路地裏には光はない。その闇の中で奴は俺に背を向けたまま静かに云った。


「呪われた右目。彼女のあの赤い瞳がそう云われるように、彼女は呪われている。この世ならざる化け物に」

「何だと?」

「貴方もご存知なのでは?あの化け物が菊池ルナの異能力ではない事を。あれは“呪い”だ。あの獣は彼女の中に住み続けている。そして、いつか彼女はその化け物に呪い殺されるでしょう。孰れ貴方も彼女といれば無事では済まない。それでも彼女と共にいる事を望むのなら、貴方も救いようもない程、愚かな人ですね」


奴、阿妻はその言葉を言い残して闇の中に消えて行った。







***



ポートマフィアの地下にある独房。


阿妻李玄と名乗った特務課の男。奴との密会の報告を首領にした後、首領の許可を得て俺は独房へ足を向けた。一つ一つ踏みしめるように階段を降りていく。地下は暗い。その暗さが月明かりのない闇路に消えていった奴の背中を思い出させた。


奥の独房に一つの蝋燭の光が見える。


『誰…?』

「俺だ。ルナ」

『中也?』


独房に近付いて格子の前に立つ。ルナは壁に凭れ掛けていた背を離して俺の傍迄来た。


『中也、もう喉は大丈夫なの?』

「嗚呼、何の問題もねぇよ」

『よかったあ。でも、如何して此処に?今此処は首領以外立ち入り禁止なのに』

「首領に許可は貰った。入ってもいいか?」

『うん、いいよ。鍵は掛かってないから』


ルナが云った通り鍵は掛かっていなかった。入口を開けて中に入る。


「何もねぇな。まあ、独房だから当然だけどよ」

『うん。でも、何も無いのは私の部屋と大して変わらないから』


そりゃそうかもしれねぇが。何も無いのは自室と同じであれ此処は独房。ルナには不釣り合いな場所な気がした。


「こんな場所でちゃんと寝れんのか?」

『ううん、寝れないよ』

「おい手前此処に数日いたんだろ。まさかその間一睡もしてねぇのか?」

『だって、中也はいないし。此処じゃ狭くてイヴ入らないもん』


–––––––––––イヴ。


その名に俺は思わず息を呑んだ。



「いつか彼女はその化け物に呪い殺されるでしょう」



奴が云った事は真実なのだろうか。首領に報告した時、首領は何も云わなかった。真意の読めない瞳で静かに何かを黙考していた。首領はそうなる事を知っているのか?


俺が今迄見てきたイヴは慥かに人智を超える力を持つ化け物だ。多くの命を一瞬で奪う。だが、イヴはルナに従い動いている。ルナがイヴの名を呼んだ時だけその白銀の姿を現す。戦いの時以外、ルナはイヴに優しく触れている。イヴだってそうだ。俺が初めてイヴを見た時、イヴはまるで守るようにルナを包んでいた。



だが、彼奴は云った。



––––––––––イヴがルナを呪い殺すと。



『中也、如何したの?ボーッとして』

「あ……、ああ。何でもねぇよ」

『変な中也。疲れてるの?もうこんな時間だし早く寝た方がいいよ』


優しく微笑むルナは数日前の殺気を感じさせない。俺の前だからだろうか。そんな自惚れに自嘲した。


「……なァ、ルナ」

『ん?』


ゆっくりと俺の口が開く。



「イヴは“呪い”なのか?」


その赤い右の瞳も白銀に染まった毛先もイヴの“呪い”の所為なのか?


ずっと詮索はしない心算だった。五大幹部でさえ知ってはならない機密事項。否、首領すら知らないかもしれないルナとイヴの関係。


だが、もしルナの命に関わる事なら黙ってはおけない。


『如何して?』


目を見開いてルナを見据える。それが今迄聞いたこともない冷たい声だったからだ。俺を見遣るルナのオッドアイの瞳も氷のように冷たい。


『如何して中也がそんな事云うの?』


そんな瞳を俺はお前に向けられた事はなかった。いつだってお前は俺だけに優しい微笑みを柔らかい眼差しをくれる。


『如何して中也がイヴをそんな風に云うの?誰に吹き込まれたの?』


だが、今は違った。


「…異能特務課の阿妻って野郎に聞いた。手前はイヴに呪われて」

『イヴは呪いなんかじゃない!!!』


叫声に似た声。ルナのその声が反響し合って狭い独房内に繰り返し響く。


俯いたルナの顔は見えなくなった。何も云えずに俺は黙り込む。沈黙が続く。何処からか入り込んだ風が蝋燭の細い火を儚げに揺らした。


『イヴは、呪いなんかじゃないよ。お願い中也、云わないで。中也だけにはイヴの事、そんな風に云って欲しくない』


先程と打って変わった声。もうその声に冷たさはない。だが、温かくもなかった。固い地面にポツポツと透明な雫が落ちていく。


『お願い…、お願い中也、云わないで』


俺が、泣かせちまったのか。俺がルナに悲しみの涙を流させた。胸が痛い程締め付けられる。手前にはずっと笑っていて欲しいのに。何でこうなっちまうんだ。


「ルナ」


震える肩を抱き寄せてその小さな躰を腕の中に抱き締めた。ルナを悲しませない為には如何したらいい。見て見ぬ振りをしていればいいのか。俺には判らない。だが、今は。この涙を拭ってやりたい。


「もう云わねぇよ。だから、もう泣くな」


ルナのとってイヴはどんな存在なのか俺は知らない。だが、少なくともルナはイヴを“呪い”なんざ思っていない。それが真実であれどうであれ。


もし本当にいつかルナがイヴに呪い殺されてしまう未来があるなら、俺は如何するのか。



答えなんて決まってる。



そんな未来、俺が来させねぇ。



ルナを死なせたりしねぇ。


俺はいつまでもルナの傍にいてやる。





「貴方も救いようもない程、愚かな人ですね」





嗚呼、愚かでも構わねぇよ。



ルナ、お前が俺の傍にいてくれるなら愚かでも莫迦野郎でも。




誰に何て云われようと俺はお前が、




「好きだ、ルナ」




啜り泣く声が響く中、俺の背中にルナの手が回ったのを感じた。













* .・☆. 【追憶の十二 感情が招いた闇夜の兆し】fin .☆・. *
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