第九章 感情の欠片は追憶の中に

【追憶の十 孤独さ故の哀惜】





この世界の凡てに無関心な瞳。


虚無の回廊を永遠と彷徨う心なきもの。




その瞳を見た時、私は初めて、


この酸化した世界で孤独ではなくなった。




–––––––––––彼女が彼と出逢う迄は。








____5年前の追憶____



いつもの酒場で太宰は酒を飲んでいた。隣に腰掛けるのは織田作之助。織田は酒杯を傾けながら饒舌に喋る太宰の様子が何時もと違う事に気づいていた。


「今日は機嫌が悪いな。何か面倒事でもあったのか?」

「そう?」


織田の言葉に目を丸くした太宰。自身が不機嫌だった事に気付いていなかったのか、太宰にしては珍しい表情だった。


「そう云えば最近、中也とルナが付き合いだしたらしい」


突拍子もない話題に織田は酒を飲む手を止め、太宰の方に視線を向ける。この酒の席で彼女、菊池ルナの話題が出る事は偶にあった。織田自身は本人と直接逢った事はなかったが、噂が絶えない彼女だ。至る所でよく耳にする。職場であっても、太宰の口からであっても。


しかし、今回の太宰の口から出た話題には素直に驚いた。お世辞にもいい噂が全くない彼女にとっては尚更。


「それは、驚きだな」

「でしょ?マフィアともあろう者がやい恋だの愛だの。ほんとお気楽な二人だよまったく」


深い溜息を吐く太宰。それは呆れからくるものなのだろうか。否、それよりももっと違った感情が含まれているような気がする。包帯で隠れている右目からは真意は読み取れない。



しかし、織田にはそんな太宰が苛ついているように見えた。


それはまるで、自分の大切なものを誰かに横取りされた子供のような……。




***



歩みを進める度に滴る血。


額から、腕から流れ出るその赤い血が廊下を汚していく様を中也は眉を潜めて睨み付ける。


「おい糞太宰。今回の有様はやけに酷ぇな。遂に手前も悪運から見放されたってか」

「元々運なんてある訳ないだろう?でなきゃとっくに死ねてるさ」

「嗚呼そうかよ」


敵組織殲滅の任務中。太宰は敵の流れ弾に当たった。いつもなら弾が避けているのではと思う程太宰に擦りもしないのに。敵を排除し終わり、血だらけになった太宰を見て中也は何も云わずにその暗い瞳を見据えた。任務前も感じたがどこか太宰の雰囲気がいつもと違っていた気がする。それは今も……。



中也と太宰が任務後の報告の為に首領執務室に続く廊下を歩いていれば、壁に寄り掛かって立っているルナを見つけた。ルナは視界に中也の姿を捉えると壁から背中を離し、小走りで駆け寄っきた。


『中也、お帰り』

「待ってたのか?」

『中也は敵組織の殲滅に行ったって聞いたから。怪我してない?』

「嗚呼、何ともねぇよ」

『そう。よかった』


ルナは安心したように微笑んだ。



その瞬間、近くで二人の様子を見ていた太宰の瞳に暗く濁った影が落ちた。


「ルナ、私の部屋に来給え。話しがある」

「あ?手前、首領への報告が」
「それは任せたよ、中也」


太宰は踵を返し、一度も振り返らずにどんどん歩みを進めていく。ルナは中也と目を見合わせた後、その背中を追う為に足を動かした。しかし、中也の手がルナの腕を掴んでそれを止めた。


「行くのか?」

『命令だから』


命令。ルナはそれに逆らわない。それが判っていても、掴んだ手から離れて太宰を追いかけるルナの姿を見るのは厭だった。漸く自分のものになったと云うのに。いつか太宰がルナを横から掻っ攫っていくのではないか。そう云った不安は消える事はない。


「はっ、余裕ねぇな俺…」


自嘲じみた乾いた笑いが口から溢れた。




***


『話って、何?』


パタン…と閉じた扉が沈黙を作った。締め切った室内。一つも灯りがないそこはまるで闇を詰め込んだかのように暗かった。


「君と中也は恋仲になったそうじゃないか。初めそれを耳にした時、何の冗談かと思ったよ。君が恋だなんて似合わないにも程があるだろう?」


太宰は嘲笑して口を歪めた。そして、ルナに背を向けたまま「嗚呼そう云えば知ってるかい?」と指を立てて続ける。


「中也の女性の傾向タイプは気品のある人らしい。なのに君を恋人にするなんて、どうかしてるよ。否…?若しかしたら遊んでいるだけなのか」

『…何の話がしたいの?』


ルナは無表情のまま太宰を見据える。口を噤んだ太宰がゆっくりとルナの方に視線を向けた。焦茶色の瞳にルナが映る。


「いやなにね、中也が君を好きなのは嘘だって話さ」

『…中也は、嘘なんて吐かない』

「へぇ、自信があるのかい?なら、君は?」


太宰は口角を上げてルナに一歩一歩近づいて行く。その瞳には光もなく、部屋の闇と同化していく。


「君は、本当に中也が好きか?」


目の前に立った太宰を見上げルナは迷いなく頷いた。だがその瞬間、乱暴に襟首を掴み上げられ、太宰の顔が目の前に近づく。


「嘘を吐くな。君は中也を好きでも何でもない」

『違う、嘘じゃない』


太宰は無表情なオッドアイの瞳を見下ろす。先刻、中也といた時と違う瞳をしていた。 


何が違うのだろうか。


中也の前で泣くルナ。
中也の傍で笑うルナ。


共にする時間は中也より長い筈だった。ルナ自身を一番理解しているのも自分だった。


–––––––––––そう思い込んでいた。



「そうか…。なら、判らせてあげるよ」


温度のない声でそう云った太宰は力任せにルナを引っ張り、寝台の上に放り投げる。スプリングに一度跳ねたルナの躰の上に太宰は覆い被さり、細い首に手を当てた。力を込めるのではなく、そのまま滑らせるように下へと下りていく手がルナの躰の線をなぞっていく。膨らんだ胸、くびれた腰、黒布の服に隠れた太腿。ねっとりと感触を確かめるように触れていった。まるで“女”を抱く時のように。


触れる間も太宰はルナの表情を逸らさず見下ろしていた。しかし、一度も変わる事のない表情。無表情のいつもの表情で、瞳で太宰を見据えているだけ。


〝 何故……。〟


まただ。また太宰の心に黒い何かが沸沸と湧き出てきた。気付かない振りをして目を逸らしていたそれはもう止められない程に大きく膨らんで心を真っ黒に染めた。


「このまま、私に抱かれる心算かい?ルナ」


一点の光もない真っ暗な瞳がルナを映す。目は嗤っていないのに、太宰の口元が歪みを持った笑みを浮かべている。


「まだ中也としてないんだろう?抵抗しなきゃ好きでもない男に初めてを奪われると云うのに君は何もしない。嗚呼ほら矢っ張り、これと同じさ。何も感じない人形が誰かを好きなる筈なんてないんだ。そんな偽りの感情、捨ててしまえばいい」

『偽り…。そう、かもしれない』


〝 そうだ。君は、一生……、〟



『––––––でも』


ルナの瞳は真っ直ぐ太宰を見ている。逸らされる事なく、俯く事もなく真っ直ぐに。


『私は、知りたい。“好き”が何なのか私には判らない。だけど、中也の傍にいると安心する。中也といると楽しい。中也が傍にいてくれるだけで心が心地良くて温かい。それだけは、嘘じゃない。偽りなんかじゃない』


光の宿ったオッドアイ。初めて逢った時の瞳とは全く違うその瞳は本当に彼女のものなのだろうか。本当に……。


〝 本当に変わってしまったのか? 〟


心の中で乾いた笑いが漏れた。何を笑ったのか。屹度それは太宰が自身に向けた嘲りだったのだろう。


「ルナ、君も私を独り・・にするのだね」


ルナは目を見開いて太宰を見る。太宰の額から流れた血がルナの頬に落ちた。どこか寂しそうな太宰の表情。まるで、泣いているような。


『太宰、貴方は私に何を求めていたの?』


太宰はいつも云っていた。


“君は心を持たない人形だ。恐怖も悲しみも知らない。何も感じず何も思わない。ただ人を殺すだけの化け物。”


何時も必死にルナがそうである事に縋っていた気がする。




––––––––––ガチャ。



突如、部屋に響いた音。暗かった室内に光が入ってくる。太宰とルナが其方に視線をやれば、そこには目を瞠った中也が立っていた。


数秒茫然と固まっていた中也だが、太宰の手がルナの太腿あたりに触れているのを見て、目を鋭く吊り上げた。そして、次の瞬間にはルナの上に覆い被さる太宰を殴り飛ばしていた。太宰の体が壁まで吹っ飛ぶ。亀裂の入った壁からパラパラと割れた欠片が落ちた。


「太宰手前!!ルナに何しやがった!?」


殺気を含んだ怒号を上げ、中也は壁に凭れ掛かった太宰の胸倉を掴み上げた。その目の眼光は鋭く、睨み殺さんばかりの怒りを宿している。


「手前はまたルナをッ!!」

『中也!』


中也が振り上げた拳をルナが掴んで止める。その拳に人を殺すのと同じくらい重くて容赦のない威力を込める心算だ。これをくらえばいくら太宰でも一溜りもないだろう。五大幹部である太宰にそんな事をすれば、罰を受けるのは中也だ。


『中也!駄目だよ!殴っちゃ駄目!!』


自分の所為で中也が罰を受けるなんてそれだけは駄目だ。ぎゅっと掴んだ中也の手を握り締めてルナは必死に止めた。そんなルナを見て、一度目を見開いた中也はゆっくりと拳を下ろす。そして、太宰の胸倉から手を離した。


『…中也』
「行くぞルナ」


鋭い眼光を前髪に隠し、ルナの手を取った中也は早足に扉へと向かう。しかし、部屋を出る直前、一度足を止めた。


「二度とルナに手を出すんじゃねぇ」


振り返らず太宰にその言葉を残して中也はルナを連れてその部屋を出て行った。



***



ルナの手を引いたまま早足で廊下を歩く中也。会話もなく、忙しない靴音だけ廊下に響く。そして、辿り着いた場所は中也の部屋だった。扉を開けて中に入った中也は無言のままルナに背を向けている。


『……中也?』

「悪りィ、ルナ……無理だ」


––––––––無理って?


そう聞き返そうとしたルナだったが出来なかった。噛み付くような口付けが声も呼吸も奪ったからだ。


『っ、んッ…!』


蹌踉ける足が縺れ扉に背を預ける。顔を両手で固定されて動かせない。入り込んできた中也の舌が貪るように口内を荒らした。それはどこか乱暴な接吻だった。何度も重なる唇。その境界が判らなくなる。二つの舌が口内で絡まり、別の生き物のように蠢いている。


『ふ、ンッ、は』

「ん…」


止まっていた呼吸を思い出すように銀の糸を引きながら唇が離れた。乱暴な接吻だったのに、自身の頬に帯びる熱。


『あ…、』


首に巻いていたマフラーを緩められ晒された首筋に中也の唇が触れる。擽ったさに身を捩った時、ヌルッとした感触が首から全身に刺激を齎す。熱い舌がルナの首を舐める。ルナはどうしていいか判らずに、ぎゅ、と目を瞑った。


『んっ、あ、』


感じた事もない熱。
頬を擽る中也の髪。
チクリと首を刺した微かな痛み。



緩んだマフラーが床に落ちた。


中也の舌が何時の間にか首から下へ。裾を持ち上げられて晒された太腿にも同じように舌が這う。脚が震えた。熱に溶けそうだった。口を押さえても漏れる自分の声に戸惑った。


『ちゅ、ちゅう、や』


–––––––––中也の舌が触れる度、変な気分になった。


これ以上はもう限界。震える手でルナは中也の頭に手を添えた。ゆっくりと顔を上げた蒼い瞳と目が合って心臓が早鐘を打つ。


『中也、もう』


目を瞑ってふりふりと首を横に振って限界だと伝える。何が限界なのだろう。屹度あまりの恥ずかしさに耐えかねたのだ。それだけ今ルナの顔は真っ赤だった。


「……はぁぁぁ」


そんな盛大な溜息を吐きながら中也は立ち上がる。ルナがそれを不思議に思い目を開けた時、とん…、と肩に中也の額が乗った。


「頭では判ってんだ。あれは太宰の野郎が無理矢理やっただけで、手前の意思じゃねぇって事。なのに、太宰が手前に触れてるのを見た瞬間、ついカッとなっちまって」


我慢が効かなくなった…、と弱々しい声で中也が話す。ルナは肩に頭を乗せる中也を横目に見て、一度視線を下に落とした。


『ごめんね、中也』

「…何で手前が謝ンだ」

『だって、悲しそうだから』


抱き締めるように両手を中也に回して頭を撫でるルナ。よし、よし、とまるであやすように優しく。いつか中也が涙を流した自分にしてくれたように。


「マジで焦った」

『ん?』

「太宰に手前を取られちまったんじゃねぇかって」

『私は中也のものだよ?中也云ってくれたじゃない』

「は、そうだな」


ゆっくりとルナの肩から顔を上げた中也はルナの瞳を見詰める。窓から入った月光が淡い輝きをオッドアイの瞳に映していた。


「ルナ、手前は俺のもんだ」



––––––––––––誰にも渡しやしねぇ。



乱暴に口付けた唇を労わるような優しい接吻を桃色の唇に落とした。






***






耳元で壁の破片が落ちる音が聞こえた。


中也がルナを連れて部屋を出て行った後も、私は壁に体を預けたまま其処から動かなかった。殴られた頬や壁に打ち付けた背中の痛み。そんな痛みより何十倍も痛む心。



結局、戻せなかった。


この世界の凡てに無関心なあの瞳に。


その闇に染まりきったオッドアイの瞳が好きだったのに。



この酸化した世界で生きる希望も、生きる理由もない。


だから、死を望んだ。



この錆びれた世界で私は独りだった。孤独だった。




けど、ルナと逢って私は孤独ではなくなった。


ルナと初めて逢った時、思ったんだ。


–––––––––––嗚呼、この子も孤独なのだと。


この世界に生きる意味を持っていないのだと。




………否、違う。


この子は、私と同じで、私と違う。



孤独の悲しみ。
孤独である淋しさ。
孤独への恐怖。


この子には、それがない。それすらも判らないんだ。


何も感じない心なき人形。


この子は、私よりも哀れだ。


同じなんかじゃない。
この子は私よりも可哀想な存在なんだ。


そう思えば、心が軽くなった。孤独が怖くなくなった。だって、私よりももっと孤独な彼女がこの酸化した世界にいたから。


この子は、ルナは一生闇の中を彷徨う。
光のない道を歩き続ける。
その恐怖も知らず、悲しみも知らずに生き続ける。


それは一生変わらない。何があろうとも。






––––––––––––だのに、だのに。



彼女は変わった。変わってしまった。



中原中也この世で最も嫌いな男の所為で。



彼女は笑っていた。
その瞳に光を宿していた。



彼女は足元のない暗闇の道から外れて、光が灯す道を歩き出した。



––––––––––私を置き去りにして。



私はまた孤独だ。


また、独りこの世界で生きる理由を探さなくちゃならない。


孤独は厭だ。淋しい、怖い。


だから、無理矢理にでもルナを連れ戻してやろうと思った。



必死に、私より哀れなルナに縋った。




けど、ルナは中也の手を取った。


私の手からいとも簡単に中也は 私の拠り所ルナを奪っていった。




「は、はは」


自嘲じみた笑いが溢れだす。血が流れる額を抱えて自分を嘲笑った。


「もう、いいや」


孤独でも。


今はまだ独りでも。


ルナ、君は君の行きたい道を歩めばいいさ。













だか、いつかそれを失う日が来るだろう。


求める価値のあるものは皆、手に入れた瞬間に失うことが約束されている。


何年か先に必ずその時はやって来る。


必ず来るさ。


友が死に、私がマフィアを辞めて、月日が流れたその先の未来に必ずね。




だって、君はどうせ、





––––––––––––––もう人間には戻れない・・・・・・・・のだから。










 * .・☆. 【追憶の十 孤独さ故の哀惜】fin .☆・. *
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