鳥籠の中のかぐや姫は何を想ふ
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「俺が連れてってやる」
あれから、二日。
この二日間、中也さんは一度も来てくれていない。まるであの夜が夢だったのかと思ってしまう。それほどに、心の奥が温かいもので満たされていた。たとえ夢幻でも中也さんがくれたあの言葉は私の中で諦めていたものを蘇られせてくれた気がした。
いけない事をしている。
その罪悪感は確かにあった。
私は二葉亭四迷様の妻。
だけど、それでも_____。
「かぐや、これをお前にやろう」
部屋に入ってきた四迷様が私の前に置いたもの。赤い布が被された大きなそれに首を傾げて、その布をそっと取った。
「数日も私がいなくてお前には寂しい思いをさせるからね。これは些細な私からの贈り物だ。こういったもの、好きだろう?」
そこには鳥籠の中に入れられた小さな鳥。
『…はい。ありがとうございます、四迷様』
その小さな体にある綺麗な羽で大空を飛びたいだろうに。
それが出来ない籠の中の鳥が私と重なって、
––––––––––酷く哀れにみえた。
***
それから一日経って、四迷様は朝早くにお出掛けになられた。
部屋に残された鳥がちち、ち、と鳴く様子を眺めていると、さわさわと涼しい風の木々を揺らす音を拾った。
木漏れ日の合間に降り立つように現れた影に目を向ける。初めて逢った時のように、明るい陽の下で微笑む彼は眩しかった。
「かぐや」
黒手袋を嵌めた手が優しく伸ばされる。
その声に、その手に導かれるようにそっと手を重ねれば、彼はいとも簡単に私を籠の外へと連れ出した。
『中也さん』
横抱きに抱えられたまま縋るように彼の名を呼べば、額がこつんと合わさる。
私は、羽を得た。
これで私も漸く、自由に空を飛べる気がした。
**
『わあ、横浜の街って人が多いんですね』
外へ連れ出したかぐやは子供のような無邪気な瞳で街を見渡していた。きらきらと光る翡翠の瞳に映るものは嘸かし輝いて見えている事だろう。
こんな嬉しそうなかぐやを見れるならもっと早くに外へと連れ出してやればよかったと思う。だが、先刻から、周りの視線が鬱陶しくてしょうがない。ぎろッと鋭く殺気を飛ばしてかぐやを見ていた男共を睨み付ければ、顔を青褪めて、逃げていく。それをかれこれ何度か繰り返しているのだ。何度目かの睨みをきかせ終えれば、大きく溜息を吐き、はしゃぐかぐやを見詰めた。
「(まぁ、そりゃ見惚れちまうよな)」
これだけの美しい女が街を歩いていたら。男だけじゃない、女でさえ見惚れてしまう端麗な顔立ち。誰もが振り向くその美貌に目を奪われるなと云う方が無理な話だ。
『如何かしましたか?中也さん』
しかし、他の奴等には見せたくないと思うのは仕方なく、その輝く瞳が俺の方に向くと優越感に満たされて、気分が良かった。
「否、何でもねぇよ」
周りの視線を追い払い乍らかぐやが興味深そうに問う質問に答えてやった。街を回り、観光スポットなど色んなところに足を運ぶかぐやは本当に楽しそうだ。
『あ!見て下さい、中也さん。綺麗な花が沢山咲いていますよ』
「おいかぐや!」
急に方向を変えたかぐやを呼び止める。かぐやが踏み出した直ぐそこに人がいたからだ。どん、と音を立ててぶつかったかぐやの躰が蹌踉めく。咄嗟に抱きとめて、倒れるのを防げた事に俺は安堵の息を溢し、彼女も急な事に『び、吃驚しました』 と目を瞬かせていた。
「ったく、ハラハラさせんな」
『すみません。ありがとうございます』
体勢を直して苦笑したかぐやはぶつかった人に頭を下げて謝罪した。しかし、ぶつかったその男は何も云わずに急ぎ足でその場を去って行ってしまった。
「何だあの野郎。一言くらい」
『いいんです、中也さん。私の方が悪かったんですから』
そう云って見えなくなった背中にもう一度頭を下げたかぐやは律儀というか何と云うか。頭を上げたかぐやは『行きましょうか』 と今度は周りをよく見て歩き出す。その様子が少し窮屈そうに見えて、俺は彼女の前に手を差し出した。
「手前は気にせず楽しめ。俺がリードしてやっから」
『はい』
嗚呼、やっぱり彼女には華の様な笑顔が似合う。
嘘偽りのないその眩しい笑顔が。
*
『沢山の種類がありますね。あ!あれは芙蓉の花ですよ、可愛い』
一つ一つの花壇に目を向け乍ら花の名前を呟いていく彼女は意外にも花について詳しい事がわかった。
「よく知ってるな」
『本で読みました。実際に見たのは初めてですよ。
……でも、あの花はないみたいですね』
「あの花?」
えぇ、と小さく呟いてかぐや近くの花壇の前に屈み込む。俺もかぐやの隣に同じように屈んだ。桃色の花を指で優しく触れるかぐやの横顔を視界の端で見据える。また、悲しげな笑みを浮かべている姿につきりと胸が痛んだ。
『月見草という花です。とても珍しい花だと本に書いてありました。夜に花を咲かせて、朝方には萎んでしまう。––––––––––––迚も儚い花』
サァァ、と花の香りを乗せた風が通り過ぎるのを待ってから俺は言葉を発する。
「だから月見草ってのか」
『はい』
「そんな花もあんだな」
『夜に咲くなんて不思議ですものね』
「……。」
『……。』
「…それは手前の好きな花か?」
『そうですね。好きなんだと思います』
沈黙を挟んだのは何となくだった。今、この場にない花をお互いに想像していたのかもしれない。どんな色で、どんな匂いがするのだろうか。夜にしか咲かないなら、花束には出来ねぇなと俺は密かにそれを彼女に贈る心算でいたらしい。
『花言葉が素敵なんですよ』
かぐやは人差し指を立てて俺の方を向いた。花言葉?と首を傾げる俺にかぐやは微笑み乍ら頷いた。
『月見草の花言葉は“ 自由な心”という意味を持つそうです』
嗚呼、だからかと思った。
その花の話をした瞬間、かぐやの笑みが寂しげになったのは。
かぐやは誰よりも自由を求めている。本当は今日のように外に出て、自分の足で歩き回りたいだろうに。狭い籠に囚われてそこから出ることを許されなかったかぐやにとって、外の世界の全てが自由そのものだ。
だからこそ俺は、
「行こうぜ、かぐや」
––––––––お前が望む場所にお前を連れて行く。
***
––––––––海鳴りの音。
白波が微かな潮の香りと音を立て乍ら、砂の上を駆けて行く。
『綺麗…』
少し歩き難い砂浜を中也に手を引かれ乍ら歩くかぐやは視界一杯に広がる海を眺めた。青い海を照らす夕陽の光がより一層に海を輝かせて幻想的な美しさ。思わず足を止めたかぐやに中也の足も止め、海ではなく彼女の横顔を見詰める。うっとりと海と夕陽に魅せられたかぐやの横顔は中也にとって目の前の景色よりも惹かれるもの。かぐやが海から目を離せないように、中也もかぐやから目が離せなかった。
かぐやの脳裏に昔見た海の景色が蘇る。
もう二度と見る事はないと思っていたのに。
キラキラと光る水面、波の音、潮の香り。
幼い頃、母と見た海と同じ……。
否、あの時見た海よりももっと美しく輝いて見える。
如何してこんなに美しいのだろう。
夕陽の色、海の色。
繋がれた、手の温もり。
私を此処に連れて来てくれた彼の_____。
かぐやの頬に温かいものが伝った。
それは幾つも幾つも溢れてきて止めることが出来ない。
翡翠の瞳から止め処なく流れる涙に中也は目を見開いた。先刻まで笑みを浮かべていたその美しい顔が涙に濡れている。
「かぐや、如何かしたか?何で、泣いてんだ」
『ずっと、駄目だと、思ってたのに』
言葉を紡ぐ唇は震えている。
『私は、四迷様の妻で。彼の方は幼い頃から将来の伴侶だと決められていた人。だから、彼の方を、愛さなきゃ、いけないと、彼の方をちゃんと愛していると、ずっと自分に云い聞かせて。
––––––––でも、もう気付いてしまったのです』
かぐやの瞳が中也に向けられる。涙を溜めたその翡翠の瞳が中也を真っ直ぐに見詰めて、離さなかった。
『こんなにも私は…、中也さん、貴方の事が____』
紡がれる言葉を飲み込むように中也の唇がかぐやの唇に重なった。瞳に溜まった涙がまた一雫零れ落ちる。
『んっ、ふ』
口内に入ってきた舌がかぐやの舌に触れた。波の音よりも隙間から漏れるかぐやの声が鮮明に聞こえて、中也は薄らと目を開ける。
翡翠の瞳を隠した瞼を縁取る睫毛に透明な滴が飾られている。抱きとめる可憐で柔らかな体も、胸に添えられた手が服の皺を作る感触も、耳を擽る甘い声も、拒絶せずに応えようと健気な舌も。
––––––––––かぐやの全てが愛しかった。
「…かぐや」
唇を離して、彼女の名を呼ぶ。息を乱して頬を紅く染めるかぐやは艶やかで、もう一度その濡れた唇に食らいつきたくなったが、今は伝える事があった。
「俺もお前への想いは伝えちゃならねぇと思ってた。お前は俺以外の男のものだから、この想いを持つことすらいけねぇと、そう思ってた。だが、お前に…、かぐやに逢う度に、かぐやの事を知る度に、この想いを止める事は出来なかった」
かぐやの肩を掴む手に力が入る。奥歯を噛み締めても溢れてるこの想いの止め方を俺は知らない。そっと肩から手を離されると、涙を流す頬に優しく導かれた。涙に濡れた頬の温もりが伝わる。俺の手に重ねられた白い手を目で追うと、美しい翡翠の瞳と目が合った。
『お願いします、中也さん。
––––––––––どうか私を、私の心を攫って下さい』
その願いに応えるように、
色付く唇に自身のそれを深く重ね合わせた。