鳥籠の中のかぐや姫は何を想ふ
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今日はいつもより早く仕事を終えた。最後に報告書を首領へと提出した後、「今日はもう帰っていいよ。お疲れ様」と労りの言葉を貰い、頭を下げる。
少し早いがこのままかぐやの許へ行こう。いつもより話す時間も増えるし、屹度、彼奴も喜ぶだろう。
「そんなに急いで如何かしたのかえ?中也」
「姐さん…」
足を止めて振り返れば、そこには紅葉の姐さんがいた。
「いえ、何も。もう上がるだけですよ」
「そうか?
「浮かれてるって…」
俺はそんな風に見えたのか?
確かに暫く仕事が忙しくて中々かぐやに逢いに行けてなかったから、早く逢いに行ってやりたいとは思うが。だが、それは彼奴が俺を待っているからで……。否、抑も、何で彼奴が俺を待ってるとか思うんだ。
「もしや、女かえ?」
「なっ、はァっ!?」
目を見開いて変な事を云い出す姐さんを凝視した。姐さんは袖口で口許を隠し乍ら可笑しそうに笑う。
「ふふ、図星じゃな」
「ち、ちがっ!」
「隠さずとも良い」
くすくすと笑い歩き出す姐さんは「そうかえ、そうかえ。中也がのう」と頭を縦に振り乍らそう呟いた。その背中に「違うからな姐さん!」と否定の言葉を浴びせても姐さんは片手を振っただけで、振り返りはしなかった。ぜってぇ、変な勘違いしてやがるぜありゃ……。
はぁ、と大きく溜息を吐き出して前髪をくしゃっと掻き上げ、再び歩き出す。
––––––––女かえ?
そうだが、そうじゃない。
俺はかぐやに逢いに行っている。だが、それだけだ。かぐやとは何もないし、抑も彼奴は人妻だ。姐さんが思っているような関係にはなれない。彼奴は俺じゃない男のものなのだから。
「チッ、当たり前だろうが。糞っ」
俺は何故むしゃくしゃしているのか。
何故、こんなにも胸が痛むのだろうか。
***
今夜も月は綺麗だった。
二葉亭の屋敷に着いた中也はいつもと同じように裏から高い塀を飛び越えて一本の木に降り立つ。
夜の風が木の葉を揺らす。それがさわさわと穏やかな音で鳴っていたが、中也の心臓は激しく内側で暴れていた。
開かれた窓から見えたそれに目を奪われる。
肩から腰。
月明かりに照らされた白い肌。
それが晒されていて、ごくりと息を呑んだ。
黒髪がさらりと揺れて、ゆっくりと此方に振り返る。
––––––––––ぱちっと目が合った。
「わ、悪りィ!」
体を勢いよく回転させて中也は慌てて背を向ける。
まさかかぐやが着替え中だったとは思わなかった。
覗きみたいな事をしてしまったと帽子を深く頭に押し付けて、真っ赤に染まった顔を隠した。
『あの…、見えて、しまいましたか?』
「み、見てねぇ!見えてねェから!」
かぐやの問いに中也は早口に答えた。やけに大きく聴こえてくる衣擦れの音がまるで答えの真偽を問われている気がして、中也は口許を片手で軽く覆った。
「あー、一瞬だけ、その……、悪りィ」
いつもとは全く似つかないような声で謝る中也。正直に答えた背中はまるで猫のように丸まって小さい。そんな中也の背中を横目で見遣ったかぐやは少し赤らんだ頬を緩めて、帯をきゅっと絞めた。
『今夜はいつもの時間より早いですね』
「…あ、嗚呼。仕事が早く終わってよ」
『嬉しいです。ありがとうございます』
「……おう」
依然と背中を向け続ける中也。かぐやはいつものように窓辺に腰掛けてその背中を見詰めた。それでも、一向に此方を見ない彼の耳はまだ赤く染まっている。それに気付いてかぐやは中也に聞こえないように、くすりと笑った。
『中也さん、此方を向いて下さい』
「……。」
『中也さん』
もう一度名を呼ばれ、中也はゆっくりとかぐやに顔を向ける。そして、久し振りにしっかりと顔を見た。かぐやも中也を見詰めていた。
『やっと、此方を向いてくれましたね』
翡翠の瞳を優しく細めて、微笑んでいるかぐや。その表情に拒絶の色なんて一寸もないのだと判り、白い指が頬に触れた瞬間、心臓がどくんっとこれ以上ない程に脈打った。
『中也さんの瞳は、海みたい』
「海…?」
騒がしく鳴る心臓を聞かぬ振りをし乍らかぐやの言葉に首を傾げた。かぐやは、はい、と頷いて何かを思い出すように言葉を紡いだ。
『昔…、私がまだ幼い頃、母と海を見たことがあったんです。遠くから見た海は宝石みたいキラキラと輝いていて。どこまでも広がる海に憧れました』
かぐやの瞳が儚げに揺れる。
その様を見て、胸の奥に小さな軋みが出来たのが判った。
違う、そうじゃねぇ。
俺が見たいのは、その
『でも、今の私には、もう海を見る事は……』
そんな今にも消えちまいそうな笑みじゃなくて、
俺が見たいのは先刻みたいな_____。
そう思った時、無意識に俺はかぐやに手を伸ばしてその腕を掴んでいた。目を瞠るかぐやをお構いなしにその細い手首を引っ張り、手を肩に添えて可憐な躰を抱き締める。
『中也、さん?』
花のような優しい香りがした。足を窓辺に付いたままの無理な大勢だったからかぐやが少し苦しそうに身を捩ったのが判ったが、力を緩める事はしなかった。少しでも緩めてしまえば、彼女が消えてしまう気がしたから。だから、駄目だと判っていても彼女を抱きしめ続けた。でも、それが出来たのは俺が腕の力を込めたからじゃなく、かぐやが俺を振り解こうとしなかったからだ。
どのくらいそうしていただろう。
爽やかな風が二人の髪を揺らし、夜の静けさが二人を包み、月が二人を優しく見守る間はずっとそうしていたと思う。
とくん、とくん、と鼓動が伝わるのを意識した時、かぐやを抱き締めたまま口を開いた。
「俺が、連れてってやる」
今迄、俺はかぐやに外の世界の話を連れて来ることしかしなかった。逆に云えば、連れ出してやる、と云う実直な言葉を避けていた様な気がする。それを云ってしまえば、己の中に芽生えた感情に歯止めが出来なくなると心のどこかで理解していたから。そして、それは許されない想いだとも悟っていたから。
–––––––––だが、それはもう……。
「俺ならかぐやを此処から外に連れ出してやれる。
お前が望むなら、俺が_____」
腕の中にある小さな躰が小刻みに震え、啜り泣く声が耳元で鳴っていた。
『三日後…、四迷様がお仕事で数日だけこの屋敷を留守にされるようです』
涙を零し乍ら紡がれる声に期待して、より一層優しく、強くその躰を抱き締める。
『許されるなら。中也さん、私を』
ゆっくりと腕が背中に回される。
縋るように震えた手が俺の服を掴んだのを感じて、
どうしようもなく、
『––––––––私を、
愛しい、と思った。