第九章 感情の欠片は追憶の中に

【追憶の八 嫉妬の心は君の愛】









____5年前の追憶____




「おいマジか嘘だろ。またかよ」

「ほんっと最悪」


つい先程、首領から呼び出しの連絡を受け、首領執務室に向かう為に昇降機に乗っていた中也。しかし、その昇降機は途中の階で止まり、開いた。そして、そこに立っていた太宰を見て思い切り顔を歪めているのが今の状態だ。どうやら太宰も首領から呼び出されているらしい。狭い昇降機内で隅と隅に立ち互いに距離を取る中也と太宰。最上階に辿り着いてもお互いを避けながら執務室に向かった。


「やあ、太宰君に中也君。急に呼び出して悪いね」


執務机で書類を読んでいた森が入ってきた二人を見て微笑みを浮かばす。中也は帽子を取って一礼し、前方に目を向ければ、執務机に腰掛けているルナと目が合った。ルナも此処に居ると云う事は三人同じ任務なのだろうか。


「却説、揃った事だし本題に入ろうか」


森が机に肘を付き、手を組みながらそう云えばルナは机から降りて中也の隣に並び立つ。


「実は私の古い友人から招宴会パーティーに招待されてねぇ。だから、君達にも参加して欲しいのだよ」


思ってもみなかったその内容に目を瞬かせる中也、面倒臭そうな顔をする太宰、相変わらず無表情なルナのそれぞれの三人の反応は様々だ。


「何で私達なの?」

「太宰君は幹部、中也君は準幹部になってそろそろ一年経つだろう?だから、一度表舞台に立って色々学ぶ事も必要だと思ってね。今夜出発するから準備しときなさい」


にこやかな笑みを浮かべて云った森のその言葉で太宰と中也、そしてルナの三人は森と共に招宴会へと行く事になったのだった。




***



豪華な宴会場。


まるでセレブが集まる英国の招宴会だ。純白のシルクが敷かれたテーブルには色とりどりの料理が並び、煌びやかな大きなシャンデリアが会場を照らす。その下では着飾った多くの人々が葡萄酒ガラスを片手に談笑していた。



中也と太宰はいつもと違った正装であるタキシードを身に纏い森の一歩後ろを歩く。緩やかな洋楽が会場を包む中、森は辺りを見渡し見つけた男の背中に親しそうに声を掛ける。


「お久振りですなぁ、エルド殿」

「Oh!! Lange nicht gesehen!」


森が声を掛けた男。振り返ったその男を見て中也と太宰は目を丸くする。金髪の髪を丁寧に後ろに流した外国人の男。まさか首領の古い友人が異国の者だとは思っても見なかった。森は外国人の男と何やら少し話をした後、中也と太宰に振り返る。


「エルド殿、二人を紹介するよ」


太宰から順に森によって紹介されていき、緊張しながらも頭を下げる太宰と中也。


「太宰君、中也君。此方は私の古い友人の」

「エルドウィン・フォン・ワグナーです。初めまして」


日本語喋れたのかと少し安心した中也は差し出された手を握り返した。存分に楽しんで行って下さいねと紳士的な笑顔を向けたエルドウィン。森も中也と太宰に、好きに楽しみなさいと言葉を残して彼と共に会場の奥へと行ってしまった。


「おい太宰、首領の傍から離れていいのかよ?」


スタスタと歩き出した太宰の背中に中也がそう呼び掛ければ彼は、「いいの、いいの」と片手を振り首領とは反対方向に歩き出す。


「どうせルナが何処かで見張っているさ」


それもそうか、と女の元へと向かう太宰の背中を見送り中也は視線を彷徨わせる。ルナは首領専属護衛だ。こういった招宴会こそ特に首領の護衛人は重責だろう。


中也はウェイターから葡萄酒グラスを受け取り、どんな料理があるのかとテーブルに近く。如何やらこのテーブルはスイーツがメインらしい。目についたのはシュークリーム。それを皿に乗せて中也は再び会場の中を見渡した。


「(首領の傍からそんな離れたとこにはいねぇ筈だ。首領から距離なく、人目につかないような場所だと…)」


そう思案する事数秒、漸くその姿を捉えた。流石はポートマフィア一の暗殺者。そこに立っているのに、周りの者は見えていないのか気づきはしない。完璧に気配を消している。慎重に探さなければ幾ら中也でも見つけられなかっただろう。目を凝らして力が入った眉間を緩めた中也は人をかき分けて会場の隅に佇んでいるルナの元へと向かった。


「ルナ」

『…中也』


声を掛ければ少し驚いたように目を見開いたルナ。そんな彼女の隣に並ぶように立ち、中也は手に持っていた皿をルナに差し出す。それを首を傾げながら受け取ったルナは横に立った中也を見上げた。


「食えよ。折角の招宴会だ」

『…ありがと』


手に取ったシュークリームをぱくぱくと食べていくルナを横目に中也は微笑み、視線を前に移した。会場の中央では洋楽に合わせてダンスを踊る人々。女性の華やかなドレスが舞い、会場全体に彩りを添える。


「手前は着ねぇのか?ドレス」

『仕事中だから』

「まあ、そうだよな…」


本当は一寸期待してた、なんて死んでも云えねぇなと中也は自嘲気味に心の中で苦笑を零した。ルナはどんなドレスを着るのだろうか。髪を結い上げ、着飾る姿を頭の中で想像する。何色が似合うだろうか。


『中也は招宴会楽しまないの?』


ふと、ルナが中也を見上げながらそう問う。シュークリームを届けに態々来てくれたんだと思っていたが、未だにこうして自分の隣に立つ中也を不思議に思った。
 

『私の事はいいから。中也は楽しんできていいよ』

「いいんだよ。俺が手前といたくているんだ」

『…私、と?』


自分といても中也にとって何も楽しい事なんてないのに、どうしてそんな事を云うのだろう。ルナの頭には疑問が募るばかり。でも、それでも一緒にいたいと云われて、ただ隣に立ってくれているだけで、胸が温かくなってしまう。


『(中也って、不思議だな…)』


肩が触れ合いそうになる距離で並ぶ二人を会場に満ちる洋楽よりもゆったりと心地よい空気が包んでいた。




***



「中也君、ルナちゃん、一寸いいかね?」


暫くして、森とエルドウィンが二人の元にやってきた。そして、彼等の背後には見慣れない少女が一人。ブランドの髪に豪華な赤いドレスを纏う少女の面影は何処となくエルドウィンと似ていた。


「紹介しますね。この子は娘のアリアです」


エルドウィンによって紹介されたその少女は彼の娘、アリア。通りで似ているわけだ。


「アリアは丁度今年で17歳になります。今日明日で開かれるこの招宴会をデビュタントにしようと思いましてね。共に日本へ連れてきたのです。さあ、アリア、皆様にご挨拶を」

「パパ!これで挨拶15回目じゃない!もう飽き飽きしちゃったわ!ずっと立っていて足も痛いし」


唐突にそう云い出したアリアに皆が目を瞬かせる。しかし、娘のそれに慣れているのか、将又甘いのかは知らないがエルドウィンは挨拶をしない娘を叱るわけでもなく、苦笑を零して頷いた。


「分かったよ、アリア。それなら場所を移動しようか。宜しいでしょうか?森殿」

「嗚呼、構いませんよ」


では此方へ、と先頭に立って案内をするエルドウィンに皆が続いたその時、突然アリアの体が前のめりに傾く。どうやら疲れた足に高いヒールは酷だったのだろう。悲鳴を上げながら蹌踉めくアリアの腕を丁度一番近くにいた中也が掴んで転ぶのを阻止した。


「大丈夫か?」

「あ、ありがとうごさいます」


突然の事に驚き目を瞬かせながら体勢を立て直したアリアは支えてくれた中也を見上げ、頬を赤く染める。その表情は先程の彼女の態度とは打って変わったもの。


赤い顔で中也を見上げるアリアと彼女の腕を支えている中也をルナは無表情に見据えていた。





***



「中也!よかったらこの紅茶飲んでみない?私の一番のお気に入りなのよ!それともこっちのブランドの珈琲の方がいいかしら!中也は紅茶派?珈琲派?嗚呼それとこのクッキーは迚も美味しいのよ!紅茶と珈琲の何方にも合うわ!ほら、食べてみて」


ぺらぺらと饒舌にお喋りをするアリアは中也の前にクッキーが乗った皿を突き出す。宴会場から抜け出して静かな個室でお茶でもという心算だった為に、口が止まらない彼女に自然とその場の全員の視線が集まった。中也の隣を陣取って明らかに彼に好意を示すアリア。そんな娘の態度に近くの椅子に腰掛けていたエルドウィンが前に座る森に向き直り苦笑を浮かべた。


「すみません、森殿。アリアが…」

「いやいや。如何やらアリアお嬢様は中也君がお気に召したのでしょうなぁ」


森とエルドウィンの会話に耳を傾けながらルナは二人がけのソファに並んで座る中也とアリアを見遣る。苦笑いを浮かべながら遠慮しますと断っている中也だが全く効果はなさそうだ。寧ろ、彼女の勢いに完全に押され気味。


「そうだわ中也!私の部屋にいらっしゃいな」

「は!?」

「今夜はこのホテルにお泊まりになるのでしょう?私、まだまだ貴方とお喋りしていたいわ!なんでしたら、そのまま私の部屋に泊まってよくってよ」

「いや、そりゃ流石に」

「あらあら、遠慮しないで」


いやほんとに俺は…、と焦る中也はルナに視線を向けた。無表情なルナと目が合い、何故だか背中に冷や汗が流れるのが判った。部屋中に何とも云えない雰囲気が纏う。



しかし、そんな雰囲気なんて如何でもいいとでも云うようにアリアはソファから立ち上がり中也の腕を引っ張って無理矢理立たせた。かと思えばグイグイと中也を扉の方へと連れて行く。中也も中也で首領の友人の娘である彼女を無碍には出来ずにされるが侭だ。まるで嵐が葉っぱを攫うような速さで部屋を出て行った二人。残された者は唖然と閉じた扉を見据えた。



–––––––––胸がざわざわする。



ルナは自身の胸に手を当ててその違和感に気づく。そして、その騒つきに揺動されるように中也達が出て行った扉の方へと向かった。


「何処へ行くのかね?」


後ろから聞こえた森の声にルナは振り返らずに扉に掛けていた手を止める。何処に行くのか、その問いへの答えを考えていなかった。自分は何をしようとしていたのか。


『…見廻り』


今は仕事中。なら、それ以外の答えはないだろう。ルナは自身にそう云い聞かせて、森の視線から逃れるように部屋を後にした。





***




ルナは一人ホテルの屋上にいた。


もう招宴会も終わっている時間。一通り見廻りしたが、怪しい気配はなかった。それでも、首領が拠点の外にいる以上ルナは仕事中。丸一日だろうと二日だろうと寝る暇はどこにもない。


柵に肘を置いて頬杖を付いたルナは夜空を見上げる。今日は少し雲が多い。瞬く星の光は消えてしまうかのように儚かった。今頃中也はあのお嬢様の部屋にいるのだろうか。そんな事を考えてはちくりと刺さる胸の痛み。


『…中也』


無意識にぽつりと彼の名前を呟いた。ルナはハッと我に返り自分の口を手で押さえる。何で今、中也の名を呼んだのだろう。今、中也は傍にいないのに。呼んでも応えてくれないのに。


『変なの』


ルナは柵に付く手に自身の額を置いて目を閉じた。夜風がひゅぅ、と音を立てて耳の側を通り抜けていく。


その時、風の音に紛れて何かの気配を感じた。その気配がすぐ傍、隣に来たのを感じてルナは閉じていた目を開き、顔を上げる。


「どうしたルナ。気分でも悪りィのか?」


黒い人影がカツンッと小さな音を立てて柵の上に着地した。ルナは目を見開き、柵の上に立った人影、中也を見据える。まさか重力を使って此処まで上がってきたのだろうか。いきなり現れた中也にルナは驚きが隠せなかった。だって、中也は今あのお嬢様といる筈なのだから。


『中也、あのひとの部屋に行ったんじゃないの?』

「あ?行く訳ねぇだろ。まあ、断るのには苦労したがな」


やっと解放されたぜ、と柵から降りて肩を回す中也。


『(行かなかったんだ…)』


胸の騒つきが少し和らいだ気がした。


「…何もねぇからな」

『え?』


中也の突然のその言葉にルナは何の事だろうかと首を傾げる。そんなルナを見て中也は両手をポケットに入れたままバツが悪そうに視線を下に向けた。


「だから、あの嬢が一方的なだけで、俺はあの女の事何とも思っちゃいねぇぞ」

『……うん?』


その微妙な返事に中也はガクッと肩を下げ、「手前、意味判ってんのかよ…」と片手で顔を覆った。正直全く中也の云っている意味を理解していないルナ。何故中也が落ち込んでいるのか判らず再び首を傾げた。



今の時核は一般人なら寝静まる時間。先刻までの招宴会が夢幻だったかのように静寂が街を支配していた。会話が途切れた所為か、やけにその静寂を意識する。


『私、首領の処に戻るね』


その静寂を破ったのは意外にもルナだった。


真夜中の空気が冷たい。


自分から戻ると云ったくせに、傍を離れたくないと思ってしまう。矛盾した行動と思い。何方が本心なのか判らない儘、ルナは中也に背を向けた。



突然、背後からふわっとルナの躰が温かい何かに包まれた。


肩を抱くように後ろから回されている中也の腕。鼻先を擽る香り。耳元に触れる中也の息遣い。


『中也?』

「如何、思った」


中也の顔は見えない。けれど、どこか真剣な中也の声。晒されているルナの肩に触れる中也の手に少し力が入った。



「俺が他の女といて、手前は如何思った?」



––––––––中也が、他の女といて…?



ルナの脳裏に過ぎるアリアが中也の腕に絡みつく光景。その時、自分が思った事、感じた事。



中也の腕に包まれながら早く何か云わなきゃと閉じていた口を開く。だが、それは言葉を発さずに開いたまま止まってしまう。



–––––––––私は、あの時、如何思ったのだろう。



『何、も』


それは音になって口から出た唯一の言葉だった。あの時、騒ついた胸。それが何かを知らない。判らない。だから、そう云うしかなかったのかもしれない。


「…そうかよ」


中也のその声はどこか寂しそうだった。離れていく腕。温かかった背中が急激に冷たくなる。ルナは中也の顔が見れなかった。ルナの横を通り過ぎて扉の方へと歩き出した中也の背中を見据えてルナは拳を握り締める。



もっと違う言葉があったんじゃないか。



去っていく中也の背中を見て、ルナはそう思わずにはいられなかった。





***




次の日の昼になってもアリアの中也へのアタックは続いた。そんな中、招宴会の際にふらっと姿を消し、またもふらっと戻ってきた太宰が中也にべったりなお嬢様を見て、「あれ?若しかして中也もどこかの御令嬢引っ掛けてたの?」と不健全極まりない言葉を吐いた。



ルナは客室の窓辺に体を預けてボーッと窓の外を眺める。空には楽しそうに飛び回っている番の鳥がいた。それを見ていると何だか複雑な気分になり、逃げるように視線を逸らす。


そんなどこか上の空といった様子のルナを横目に、森は紅茶が入ったカップを皿の上に置いた。カチャ、と陶器が擦れあう音が部屋に響く、それに続くように鳴ったのは叩音の音。


「森殿、少しいいですか?」


来訪者はエルドウィンだった。部屋に入りソファに座るように森が促したが彼はそれを直ぐに済みますからとやんわりと首を横に振って断る。


「実は、アリアが今夜のデビューダンスの相手に是非中也君をと云い出しまして」


エルドウィンのその言葉に思わず目を向けるルナ。デビューダンスの相手は婚約者が一般的。そんなダンスにアリアは中也を所望したらしい。どうやらエルドウィンは我儘娘に頼まれてその許可を森に貰いに来たのだろう。申し訳なさそうに、お願い出来ませんか?と頭を下げる彼は本当に娘に甘い父親である。


森は一瞬ルナの反応を盗み見た後、にこりと真意の見えない笑みをエルドウィンに向けた。


「エルド殿、それは私ではなく中也君自身が決める事ですよ」


エルドウィンは下げていた顔を上げて、それもそうですな、と申し訳なさそうに苦笑する。用件は本当にそれだけだったようでもう一度頭を下げた彼は、今夜のパーティーも楽しんで下さいね、と部屋を出て行った。


「いいのかい?」


ソファに腰掛けて森は少し温くなった紅茶の水面を目を落としながらルナに問いかけた。ルナは森に視線を向けないまま、何が?と質問で返す。


「中也君が彼女の誘いにOKしてしまっても」

『…いいも何も。それは中也が決める事だもの。先刻首領が云った事じゃない』


そうだ。それは中也が決める事。自分は関係ない。抑も中也が誰と踊ろうが、誰といようが、関係のない事なんだ。


そう思っているのに。騒つく胸。それは細波のように胸の中心から押し寄せてくる。昨日から煩いくらいに。


『私には関係ないの…、そう、思っているのに』


ルナは膝を抱えてそこに顔を埋めた。


『中也とあのひとを見る度に昨日から胸がざわざわする。如何して?首領には判る?この騒つきが何か知ってるの?』

「知っているよ」


すぐに返って来たその言葉にルナは目を見開いて顔を上げる。森は小さな微笑みを浮かべたまま手を組んでルナを見据えていた。


「君は“嫉妬”しているのだよ」

『…しっと?』

「そう。中也君の傍に彼女がいるのが厭だから、胸が騒つくのだろう?それが嫉妬だ」

『厭?どうして私が厭がるの?』

「さあ、そこは自分で答えを見つけてご覧」


はぐらかしたような笑み。それ以上教える心算はないのか、森は残った紅茶を飲み始めた。ルナは数秒下を向いて黙り込み、ゆっくりと窓辺から降りて静かに部屋を出た。




***



〝 嫉妬 〟


それは一体何なのだろう。



ルナは廊下を歩きながらその言葉を頭の中で何度も繰り返す。それでも、それが何か判らないからどうしようも無くて、消える事のない騒つきに段々と胸が締め付けられていく。


「ねぇお願いよ、中也」


俯かせていた顔を前方に向ける。視界に入ったのは二つの背中。中也の腕に自身の腕を絡ませせてアリアは猫撫で声で中也に詰め寄っていた。


「貴方には私のダンスパートナーになって貰いたいわ。だって私、本気で貴方をフィアンセにしたいと思っているのよ」



––––––––胸が騒つく。


細波のようだった筈のそれが気づけば荒波のように荒れ狂う。胸の内から溢れてくるどす黒い何か。



厭だ…、厭だ、厭だ。


中也に触らないで。




「いいんだよ。俺が手前といたくているんだ」




中也の隣私の居場所を取らないで。




「俺が他の女といて、手前は如何思った?」



私以外の女には、渡したくない。




『中也ッ!!』



その蒼い瞳に私だけ映していて欲しい。



「ルナ?」


中也の瞳がルナの方に向けられた。微かに開かれたその瞳と目が合った瞬間、ルナの胸は急激に苦しくなった。そして、無意識に中也のいる方向とは真逆の方に走り出していた。後ろから名前を叫ぶ中也の声が聞こえる。しかし、それを振り切るようにルナは全速力で走る。走って、走って、息が切れても走り続けた。


ルナは混乱していた。中也から離れたくないと思っているのに自ら離れている自分に。心と体が矛盾している。それは胸の奥で突っ掛かっている何かを知るべきではないと誰かが云っている気がしたからなのだろう。知ってしまったら後戻りは出来ないぞと警告されているから。


それでも、それを知りたいと願うのはいけない事なのだろうか。



突然、グイッと腕を後ろに引っ張られた。



機械のようにただひたすらに動いていた足が漸く止まる。耳元で乱れた呼吸音が聞こえた。


「莫迦やろッ、何で逃げんだ」


ゆっくりと背後を振り返って、ルナは中也を見上げる。息苦しさに顔を歪めた中也は掴んだルナの腕を離さないまましっかりとルナを瞳に映していた。


『ごめん、中也』

「あ?」

『私、中也に嘘付いた』


何の脈絡のないルナの言葉に中也は首を傾げたが、何かルナが大事な事を云おうとしているのを感じて落ち着いた呼吸を一つ吐き出し、ルナの言葉を待つ。


『何も、なんて嘘。私、厭だった。中也が私以外の他の女と一緒にいるのが凄く、凄く厭だったの』


それが首領の云うように“嫉妬”であるなら、恐らくそうなのだろう。ルナがその言葉を知らないだけで、心の中にはちゃんとその感情があったのだから。


「…そりゃ、本当か?」


ルナの肩を両手で掴んだ中也の表情はどこか余裕がない。肩を掴む手が微かに震えている。


『本当だよ。私___』


言葉が続かなかった。否、続けられなかった。



掴まれていた肩が引き寄せられる。


中也の顔がルナの顔に迫って、
そのまま吸い寄せられるように、



––––––––––ルナの唇に中也のそれが重なった。




もう、限界だった。ルナの言葉が嬉しくて嬉しくて堪らなかった。それはずっとルナの口から聞きたかった言葉だったのだから。



嬉しさと愛しさのあまりの衝動的な接吻。



初めて触れた小さな唇は柔らかくて、温かい。




重なっていた時間は長いようで短かった。ゆっくりとルナの唇から離れた中也は、急に自分の頭が冷静になるのを感じた。それはもう秋をすっ飛ばして真夏から真冬になったかのようにはっきりと。


「(や…、やっちまったァァ!)」


だらだらと全身の汗が吹き出す。ルナの顔が見れずに視線を落した。全くその心算はなかったのに、こういう事はちゃんとお互いの気持ちを確認してから 浪漫情緒 ロマンチックに…、と迄は云わないが、合意の上でする心算だったのに。ルナの言葉が嬉しくて気付いたら口付けていた。少しでもルナの気持ちが自分に向いていると判った途端にこのザマだ。ルナのことだから、今の何?と首を傾げるに決まっている。その後、如何やって説明すればいいのか。


「あ、あのよルナ!今のは……」


顔を上げた中也はルナを見て固まる。



そこには、真っ赤な顔をしたルナがいた。


「な…、」

『っ、』


こんな表情見たことない。
赤く染まった顔で目を泳がせるルナ。



それを見てルナの顔の熱が伝染するかのように中也の顔も赤くなった。初めて見るルナの林檎のような赤い顔。こんな顔も出来るのか。そう思えば、勘違いしてしまいそうになる。


だが、勘違いじゃないなら。


中也はルナの肩を掴んでいた手に力を込めて、ルナを真っ直ぐ見詰めた。


「ルナ、何で今俺がお前にキスしたか、判るか?」


ルナは赤い顔のままふりふりと首を横に振る。


ルナは判らないだろう。
だが、判らなくていい。知らなくていい。



–––––––––俺が、教えてやる。



「俺は、手前が好きだ」

『…す、き?』


ルナの目が大きく見開き、中也の云った二文字を繰り返した。中也は揺れるオッドアイの瞳をしっかりと見詰める。


「好きだ。手前を一人の女として。俺は手前を、ルナを、俺のものにしたい」


すとん、と音を立てて何かがルナの心に落ちた。水面に広がる波紋のように静かに、しかし、はっきりと広がる何か。騒ついていた胸が晴れ、心地よいものに満たされていく。


心に芽吹く想い。

溢れる感情。


知らなかった筈の感情の欠片が埋まっていく。


『中也』


やっと、判った。



『私も、中也が好きだよ』




私は何時からこんなにも、


中也が好きで好きで堪らなくなっていたのだろう。





***





好き。


中也が、好き。



『中也、苦しいよ』

「るせぇ、黙って抱き締められてろ」


ぎゅう、と中也に抱き締められているルナはその苦しさに少し身を捩ったが、その苦しささえ迚も愛しかった。そっと中也の背中に腕を回して自分からも中也を抱き締める。


「本当、なんだな」

『ん?』

「手前も俺が好きだって」

『うん、好き』

「やべぇな、マジ嬉しい」


腕の力を緩めてルナの顔を上げさせた中也はまだ仄かに赤い頬を撫で、そっと唇を寄せた。



軽く触れるだけの接吻。



一度離して視線を合わせれば、ルナの手が頬に添えられた中也の手に重なった。それに応えるように中也はもう一度ルナに顔を近づけた。




「まあ!なんて素敵な方なの!」


触れる直前、廊下に響いた声。二人は同時に声のした方へと視線を向けた。この声は慥か、アリアのものだ。


ルナと中也は顔を見合わせた後、声がした廊下の角を覗き込む。そこにはアリアと知らない男がいた。


「バイオリンが弾けるなんて素敵だわ!私、バイオリンが大好きなの!本当に運命の出会いね!ねぇ貴方、私のフィアンセにならない?」


……これは、どういう状況なのだろう。


困った顔をしている男の腕に絡みつくアリア。その似たような光景に既視感を感じる。ルナと中也は再び目を見合わせた。





***



「いやあ、本当に申し訳ない」



エルドウィンは自身の頭を掻き、苦笑を零しながら遠くで男にベタベタとくっ付いているアリアを見遣る。


「あの子は見ての通り、異性に惚れやすい性格で。気に入った異性がいれば許嫁になってくれと申し込まずにはいられないのです」


その度にまた別の異性に乗り換えるのですが、と溜息を吐くエルドウィン。どうやらアリアは特別中也を気に入っていた訳ではなく、その性格から男に愛嬌を振り撒き、許婚になってと云わずにはいられないらしい。それであんなに中也のべったりだったのかと頷ける。


「だから、デビューダンスの事も忘れてくれて構わないから。本当に色々迷惑をかけて申し訳ないね、中也君」

「いえ、俺は全く気にしてませんよ」


寧ろ助かったぜ、と心の中で安堵を溢す中也。


「おお、そろそろ招宴会が始まる時間ですね。今夜も存分に楽しんで下さい」


エルドウィンのその言葉で今宵の招宴会が始まった。昨日よりも来客の数は多く、並べられている料理の数も多い。リズムの良い洋楽が流れ、男女がペアになって踊りだす。会場の中が一層華やかになった頃、ルナと中也は中の明るさから離れるように人気のないベランダに出た。


『中にいなくていいの?』

「云ったろ?俺は招宴会なんかより手前といてぇんだよ」


中也はルナをエスコートするように手を差し伸べる。それに手を重ねればグイッと引き寄せられ、腰に手を添えられた。


「ま、折角だから踊ろうぜルナ」

『踊りした事ない』

「ンなもん適当でいい。俺がリードしてやる」


中から微かに聞こえる音楽に合わせて踊る。ダンスの仕方なんて知らないし、他の人みたいにドレスは着ていないけれど、この場所を、中也の傍を自分以外の女に取られなくてよかった。



優しい手の温もりを感じて、ルナは嬉しいそうに微笑む。胸を打つ早鐘は洋楽のリズムより速いけれど、迚も心地よいリズムを奏でていた。



シャンデリアの光よりも優しく、美しい月の光が二人が踊るステージを夜空から静かに照らしていた。















* .・☆. 【追憶の八 嫉妬の心は君の愛】fin .☆・. *
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