第九章 感情の欠片は追憶の中に

【追憶の五 芽吹く】




____6年前の追憶____







「はーあ、取引相手である大手企業の社長との交渉に手を焼いていると云うから助太刀してあげたのに。なんて事ないじゃないか。ものの数分で交渉成立とは。少しは骨のある男かと思えば、全くの期待外れだね」


長い溜息と共に愚痴を溢しながら廊下を歩く太宰。その後ろを歩るいているルナは太宰の文句を聞いているのか聞いてないのか定かではない。


「新しい自殺法でも考えて気分転換でもしよっと。あ、でもその前に報告書を書かないといけないのか。はあ、一層のこと転職でもしようかな」


今度織田作や安吾ににいい仕事先がないか訊いてみよう、と太宰は楽しげに友人達の顔を思い浮かべる。次はいつあの店に飲みに行こうか。そんな予定を頭の中で立てる太宰はふと足を止めて背後を振り返った。



先刻まで何も云わずに付いてきていた筈のルナが立ち止まっている。


何を見ているのか。


急に足を止めて廊下の分かれ道をじっと見据えているルナ。


太宰からはルナの視線の先は見えなかった。だが、そこにルナが気を取られる程の何かがあるのだ。そして、太宰の視界からルナが消える。正確に云えば、その曲がり道の先へ走って行ってしまった。


太宰はルナが消えたその場所を無表情に見据え、ゆっくりと其処に足を運ぶ。そして、ルナが曲がっていた廊下の先を覗いた。





***




「うおっ!びびったァ」



中也は廊下を歩いていた。


そんな時、突然背中に襲った衝撃。勢いに負けてつんのめり、目を見開いてその衝撃の正体を見遣る。背にはルナが抱きついていた。


「何だよルナ。何か用か?」


顔だけ振り返って中也はルナに問う。一度額を中也の背に擦り付けたルナはゆっくりと顔を上げて中也を見上げる。


『…ちゅ』
「–––––ルナ」


ルナの声に被せられた声。その声の方に中也はルナから目を離し、声のした方に視線を向ける。そして、心底厭そうに眉を潜めた。


「何だ手前、仕事中じゃねぇのかよ」

「取り引きの事を云ってるならとっくに終わったさ。で、そう云う君は何してるの?」

「今日は休みだ。久し振りに街にでも出ようと思ってな」

「あっそ」


さして興味もなさそうに返した太宰が未だに中也に抱きついているルナを見遣る。


「ルナ、中也に何か用でもあるのかい?」

『……。』

「ないならさっさと行くよ。中也といるだけ時間の無駄だ」

「おい誰が無駄だっ!」


ピキッと青筋を立てた中也をスルーして踵を返す太宰。しかし、後を付いてくる気がないのか動かないルナを見て眉を寄せた。


「ルナ、私の云う事が聞けないのかい?」

『……。』


空気がピリッと裂け目を作った。それは主に太宰から発せられるもので、それを中也とルナも感じ取る。だが、それでもルナは動かなかった。中也は太宰を見て、そして未だに背中に抱きついているルナを見遣る。


「太宰手前、この後の用事は?」

「報告書の作成」

「ンなら、此奴は必要ねぇだろ?無理に連れてこうとすんじゃねぇ。それに、如何やらルナは俺といてぇみたいだからなァ」


ニヤッと勝ち誇った笑みを浮かべる中也を見て、太宰は額に青筋を浮かべた。


「勝手にすれば?それが居ても邪魔なだけだし」


吐き捨てるように踵を返した太宰。散々ルナを連れて行こうとした癖に邪魔者扱いとは自分勝手な野郎だと中也は去って行く太宰の背中を睨み付ける。


太宰が消えたのを見届けて中也はルナに視線を落とした。背中に抱きついたまま服を握りしめるルナ。太宰の命令を聞かなかったルナに驚きつつも、緩まない腕が嬉しいと思っていたのは秘密だ。中也は機嫌を良くしてルナに声を掛ける。

「丁度昼時だ。飯でも食いに行くか?」

『うん、行く』


直ぐに答えたルナに目を丸くした中也だが、矢張りそんなルナの変化に嬉しさの方が勝って自然と頬を緩ませた。


「何が食いてぇんだ?」

『シュークリーム』

「おまっ、それ菓子だろうが…」

 


***




中也とルナがやってきたのは横浜にある中華街。


並ぶ店から漂う美味しそうな匂いが充満するこの場所は昼から人々で賑わっていた。


勿論ルナはこの場所を知っている。ルナの頭には横浜の地図が全て入っているからだ。しかし、実際に表通りに来たことは初めて。それも食べ歩き目的なんて尚の事。


「ほらよ。熱いから気ィつけろよ」


ほかほかと湯気が立ち、シュークリームに似ているようで似ていないその丸い物を渡されてルナは首を傾げた。


『中也、これ何?シュークリーム?』

「ンな訳ねぇだろ。こりゃ中華饅ってのだ。手前のは餡子が入ってる。甘ぇの好きだろ?」


中華饅。初めて聞く食べ物だった。ルナはそれを小さな口でパクリと一口齧った。口の中で湯気が踊り熱さが広がる。柔らかい皮の生地、そして、それに包まれた餡子の甘みと香りが口内を満たした。


「どうだ?美味えだろ?」

『うん、美味しい。中也のも同じ?』

「いや、俺のは肉饅だ」


自分の中華饅を食べていれば、ルナが此方を見ている事に気付いた中也は開けていた口を止める。まさか、食いてぇのか?と食べかけの肉饅に目線を落としてもう一度ルナを見る。ルナは瞬きもせずジーっと此方を見ていた。


「あー…、食うか?」


少し躊躇いながらも食べかけのそれをルナの前に持っていく。ルナは差し出されたそれを受け取らず、ぱくっとそのままそれに齧り付いた。


『甘くない』

「……そりゃ、肉饅だからな」

『中也、食べる?』


ずいっと前に差し出された餡饅。


これは食えと云う事なのか…?


餡饅とルナの瞳を交互に見て、戸惑いながらも中也は湯気が立つそれを齧った。


その時、何処から聞こえてきたくすくすと小さな笑い声。中也とルナが声のした方に視線を向ければ中華饅屋の店員である小母さんが微笑ましげに笑っていた。


「あ、ごめんねぇデェト中に邪魔しちゃって。でも、若いっていいわ本当に。見ていて擽ったくなっちまうよぉ」

「オイ婆さん、デェトじゃねぇよ」

「まーた、照れちゃって。いやあ、私も若い頃を思い出すわ」


勘違いしてる挙句に話に華を咲かせそうな小母さん。面倒くさくなりそうな雰囲気だった為、中也は早々その場から逃げるべくルナの手を取って店から離れた。


「ったく、年寄りはああ云った話が好きだなァ。直ぐ勘違いしやがる」

『中也、デェトって何?』


その問いに肩を揺らす中也。その質問は訊かれる気がしていた。だが、どう答えを云えばいいのか大変困る。中也は一度咳払いをした。


「デェトっつーのは…、」


ルナをチラ見して中也は固まる。


今、俺達は周りからどう見られているのか。二人で出掛け、手を繋いでいる男女。そんな俺達はデェトしているように見えるのだろうか。


『…中也?』

「あ、嗚呼。…その、俺もよく知らねぇンだ」


苦しい云い訳だ。だが、実際よく判らないのも事実。今迄、誰ともデェトをした事などないのだから。


言葉に詰まった中也を見上げてルナはデェトというものが屹度マフィアには縁がないものなのだろうと解釈した。けれど、何故かその“デェト”と云うものがどんなものなのか迚も気になった。


「ンな事より、次何処か行きてぇ処ねぇのか?」


その問いにルナは黙ってしまう。だが、中也はそれが判っていての質問だった。何でもいいから中也は話を変えたかったのだ。


「取り敢えず、歩くか」


そう云って繋いでいたルナの手をそっと離した中也は自身の両手をポケットに突っ込み歩き出す。


消えた温もりにルナは自身の手を見つめた。



『(離れちゃった…)』



それが何故か迚も“寂しく”感じた。




***

 

中華街を抜けて中也とルナは行く宛もなく歩いていた。


気になる店を見つける訳でもなく、ただ淡々と歩くだけだったがそれでも退屈ではない。ゆっくりとした時間を過ごす事が珍しい二人にとって、一般人に紛れて余暇を過ごすのは何となく和やかな気分になる。



横断歩道の赤信号。交差点で車が行き交う様子を呆然と見ながら、ルナは同じく信号待ちをしている人達の声を拾った。いつもなら全く気にしなかった音も今日は無意識に耳を澄ませる。後ろにいたのは女子高生達だった。


「ねー、ねー、最近出来た彼氏とは如何なのよ!もうキスまでいったの?」
「まだ全然だよ。週末にデェトしたくらい」
「えー、初々しすぎ」


きゃはは、と会話を弾ませる女子高生。


“ デェト ”


その単語にルナは視線だけを後ろに寄越す。



世の中の女の子達は“デェト”が何かを知っている。そして、それを当たり前のようにしている。


ルナは自分と彼女達の間に深い線が刻まれているのを感じた。その線を何方も決して踏み越えることが出来ない。それは違う世界の境界線。


ルナが“デェト”を知らないように、彼女達は血の本当の色を知らない。砕ける骨の音も腐る肉の臭いも。


ルナは線の向こう側にいる彼女達から目を晒すように視線を前に戻す。



だがその瞬間、視界にキラッと光が入った。その方向から聴こえてきた空を裂く音にルナは瞬時に頭をずらす。耳元を横切ったのは銃弾。それが地面に金属音を立てて減り込んだ時、誰かの悲鳴が上がった。


ルナの一歩前にいて中也が背後を振り返った時には既にルナは走り出していた。


「ルナ!」


名を呼ぶ中也の声を背にルナは車道を走る車を躱しながら狙撃手スナイパーの元へと疾走する。懐から短刀を抜き取り、獲物目掛けて一直線に向かった。



あの距離からの狙撃。凄腕の狙撃手ならこんな近くからは標的を狙わない。ならば、相手は入念の準備をしていた訳ではない。偶然発見して実行した襲撃だ。故に、ルナが全速力で向かえば相手に逃げる時間を与えない。


マフィアとの敵組織の仕業だろう。こんな街中で狙ったと云う事はそいつにルナの顔が割れていると云う事。ポートマフィア首領の護衛であるルナを知っていた。顔が知られているなら直ちに排除する。



ビルの裏口から出てきた黒尽くめの男を見つけた。
ルナに気付いた男が焦って銃の安全装置を外した_____。



–––––––––男の首が飛んだ。



切り離された首から血飛沫を上げながら地面に音を立てて倒れた男。


ルナは死体となったそれを無情な瞳で見据え、短刀に付着した血を払った。



カサッ…。



その音にルナを振り向く。丸い小さな瞳が此方を不思議そうに見ていた。まだ、年端もいかぬ幼い子供。


ルナは血塗られた地面を蹴って子供目掛けて短刀を振り上げた。子供は自分が何をされるか判らない無垢な瞳で鋭利な刃が振り下ろされる様を眺める。


死さえ判らぬ幼い瞳。


刃が子供に届く寸前、短刀を持つルナの手首が誰かに捕まれた。ルナは背後を振り返る。そこにいたのは中也だった。


「その餓鬼まで殺す必要はねぇ」

『目撃者は誰であろうと殺せと云われている』


それは首領の教えであり、暗殺者の基本。
子供だろうと情けは不要。


それでも、中也はルナの手首を離そうとはしなかった。眉を寄せて真剣な瞳でルナを見据え続ける。


「見逃してやれ。目の前で人が殺された事も判らねぇ歳だ。それに孤児だろうしな」


薄汚れた顔とボロ布の服。食べ物を探すためこの裏路地で塵を漁っていたのだろう。そして、偶然この現場を見てしまった。それだけの事だ。


「狙撃した奴は殺した。もう此処に用はねぇ。そうだろ?ルナ」


ルナは中也の瞳をジッと見据える。
中也もルナの瞳を見据えた。


『…中也が、そう云うなら。殺さない』


ルナがそう云えば中也はふっと笑みを浮かべて手を離した。ルナも上げていた手を下ろし、短刀を懐にしまう。


「行くぞ」


中也の後に続いてルナも路地裏を抜ける。一度、子供に目を向けたがもうそこには男の死体しかなく、子供の姿はなかった。


あそこで生かす理由が本当にあったのだろうか。


ルナはその疑問を残しながら中也の背を見つめる。


いつか太宰が云っていた。


中也はマフィアでありながら“正しさ”を持つ男だと。


“正しさ”とは何なのなのだろう。


その意味をルナは考える。どう考えても浮かばないその答えをいつか見つけられるだろうかとルナは眩しい背中に目を細めた。




***




「ってオイ手前!返り血付いてんじゃねぇか!」


表通りに入る前に気付いて良かった。べったりと黒布に付いた血に血相を変えて中也はルナを引っ張り、ポートマフィアのフロント企業である店に駆け込んだ。


あのまま街を歩いたら一般人が大騒ぎしていた事だろう。

試着ルームにルナを押し込み、取り敢えず血だらけの服を脱いでおけと云いつけて中也は女物の服を探した。


「何でもいいから適当に……」


目の前にあった服を取ろうと手を伸ばした中也だが、ふとその手を止める。暫く、そのままそこでフリーズした。そして、脳裏に浮かんだ考えに気恥ずかしくなり、大きく舌打ちしたが意を決して近くの店員に声を掛ける。


「なァ、そこのアンタ。あん中にいる女に似合いそうな服をチョイスしてくれねぇか?」


、、、、、。



「如何ですかお客様!迚も可愛らしいですよ」


満面の笑顔の女店員がじゃじゃーんとカーテンを開ける。数歩離れた処でルナが着替え終わるのを腕を組み待っていた中也は出てきたルナに目を向けた。


冬らしい厚手の赤いスカートに黒のトップス。その上に羽織られた短めの丈の上着と頭に乗せられた帽子はまるで雪兎のよう白い。


普段のルナからは想像も出来ないその格好に中也は目を瞬かせた。ルナはと云うと不思議そうに自分の格好に首を傾げている。


「ほんとなんて可愛いんでしょう!まるでお人形さんみたいですね」


その言葉に微かに目を見開いたルナ。手を合わせてにこにこと笑う店員は何の反応も示さないルナに首を傾げた。

『(…人形)』


俯いて黙ってしまったルナに気づいた中也は店員の手にお金を押し付けて、ルナの手を取った。


「釣りはいらねぇ。世話になったな」

「あ、ありがとございました」


ベルが鳴る扉を開けて中也はルナを店の外に連れ出す。そして、暫く手を繋いだまま歩いた。


『…中也』

「何だ?」

『あの人にも私は人形に見えてたの?』


その問いに中也は足を止め、ルナの方に振り返った。視線を下に落としたルナの表情はいつも通り無表情だったが、頬に落ちた睫毛の影が何処か寂しげな表情を思わせる。


『生きてないように見えてたのかな?』


中也の脳裏に屋上での情景が蘇った。涙を流したルナ。あの時のルナの泣き顔を思い出して胸が刺される気持ちになった中也は、違ぇよ、とルナの問いに否定した。



「ありゃ物の譬だ。それだけ手前がかわ……」

『…?』


急に言葉が止まったのを不思議に思いルナは中也を見上げる。口許を押さえて、目を見開いている中也。


『如何したの?』

「なっ、何でもねぇよ!そろそろ帰るぞ!おっと、その前にシュークリームだな。ンじゃ、さっさと行くぜ」


早口にそう云って手を引きながら歩きだした中也の耳は赤い。何をそんなに慌てているのだろう。挙動不審の中也に首を傾げながらもう帰るのかとルナは少しこの時間が名残惜しかった。


けれど、繋がれた手は温かい。先刻と違って、離れることのないその手を見て、ルナは胸の中まで温かくなるのを感じたのだった。




***




拠点に辿り着く迄、手は繋がれたままだった。シュークリームが入った紙袋を片手にルナは中也に手を引かれて廊下を歩く。



そして、着いてしまった別れ道。



「俺は部屋に戻る。手前は首領んとこ戻るだろ?」

『…うん』


スルッと離れた中也の手を見据えながらルナは頷いた。


「またな、ルナ」


ルナの頭を撫でて中也は踵を返す。中也自身もどこか後ろ髪を引かれる気分だった。離れ難いと思ってしまった。


『待って、中也』


後ろから聞こえたルナの呼び止める声。中也は振り返ってルナを見た。ルナはシュークリームの袋を抱き締めて中也を見つめている。


『今日は、ありがとう。凄く……、』


凄く、何だったんだろう。


この続きの言葉をルナは知らなかった。喉まで出かかった気持ちが言葉にならない。こんな時、何て云えばいい?何て言葉にしたらいい?



二人で食べた温かい中華饅。
二人で歩いた街。
買ってもらったシュークリーム。
ずっと繋いでいた手の温もり。


––––––––––私は中也と一緒にいれて、凄く……、



「楽しかったか?」


ルナは中也の言葉に目を大きく見開いた。そして、優しく微笑む中也を見てルナは胸に手を当てる。

その言葉はすとんとルナの胸に落ちた。


ぽかぽかと温かい。
胸の中心から溢れてくる気持ち。


初めて涙を流した時と同じ、“何か”の欠片が一つ心に埋まった。



『うん、凄く楽しかった』



今度は中也が目を見開く番だった。





–––––––––ルナが笑っていたのだ。





まるで花が咲き開くように。
凍った無表情から遠くかけ離れた温かな笑顔。



その微笑みに高鳴り始めた胸の鼓動。


中也は無意識に胸を押さえる。



しかしそれを理解した時、中也は帽子を深く被ってルナに背を向けた。


「そりゃ、よかった。また、連れてってやるよ。ンじゃあな」


速足にその場を去る。
幸い次の曲がり角が直ぐで良かった。


ルナから自分の姿が見えなくなった場所で中也は壁に背を預けた。そのままずるずると腰を落とし、前髪を掻きながら額を押さえる。


「おいおい冗談だろ。マジか俺」


真っ赤に染まった顔は如何やっても隠せやしない。


ルナのあの笑顔を思い出すだけで、胸の鼓動が喧しい程に速まり出す。


「あの面は反則だろ彼奴。クソ可愛い」



気づいてしまった。
己の気持ちに。ルナへの想いに。


芽生えた感情を如何していいか判らず、暫く中也は胸の鼓動が鳴り止むまでその場から動けなかった。










この時の俺には芽生えた感情が叶う日が来るとは夢にも思わなかっただろう。










     * .・☆. 【追憶の五 芽吹く】fin .☆・. *
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