第九章 感情の欠片は追憶の中に

【 追憶の二 その手の温もりは】





ゆらゆらと揺れる視界。

あの時、私は優しい腕に包まれ、温もりを感じていた。


如何してこの人の傍はこんなにも心地よいのだろう。


私は彼の腕の中でその答えを探していた。




私は人の温もりを知らなかった。

こんなにも心安らぐ心地よさを知らなかった。




教えてくれたのは、中也。


–––––––––貴方だった。










____6年前の追憶____




横浜の街に土砂降りの雨が降り注いだ。


街行く人は傘をさし、鬱陶しそうに灰色の空を睨み付ける。部屋の中に居ても聞こえる雨音がその激しさを物語っていた。


中也は窓の外を見ていた。


降り続ける雨と薄く広がる霧が窓硝子を遮って横浜の街を歪ませている。


今、横浜は最も危険な街と云っても過言ではないだろう。つい最近まで抗争中だったのだから。


それも小規模ではなく過去最高レベルの大規模抗争だ。龍頭抗争と名付けられたこの事件はある異能者の死で所有者不明となった裏金五千億円を巡り、ポートマフィアを含む関東一円の組織が血で血を洗う抗争を繰り広げ、88日間にも及ぶ横浜裏社会史上最多ともいわれる死体の山を積み上げることとなった。


見事その抗争に勝ち残ったポートマフィアだが、未だにその抗争の余韻は失われない。小さな火種があちこちに散らばっている今、横浜の街は今でも緊迫状態だ。


休みを貰えたもんじゃない。
今日も今日とて仕事は山積みだ。


深い溜息を一つ零した中也が窓から離れようとした時、視界の端に何台もの車が入った。窓から下を覗きこめば、黒服の男達がぞろぞろ出てくる。


「(嗚呼、そう云えば今日も敵組織の殲滅任務があったな…)」


俺にその任務は回ってこなかったが、確か太宰が任されていた気がする。何故だが最近奴と無駄にコンビを組まされていた。終いにゃ、“双黒”と呼ばれるまでになっており、首領も何かあれば俺達二人を使う始末。だからこそ、今回久し振りに奴と任務が被らなかった事は万々歳だった。


だが、気に食わない事が一つある。


それは太宰の野郎が自分の任務にルナを連れ回す事だ。それは今始まった事じゃねぇが、最近は特にそれが酷い。朝から晩まで毎日だ。仕事時間以外でもルナを呼び出して何かをやっているらしい。詳しくは知らねぇがあの青鯖の事だ。碌なもんじゃねぇ事は確かだ。ルナもルナで文句なんざ云わないから余計太宰が調子に乗りやがる。


「チッ、今日もかよ」


予感的中だ。


そして、一つの車から降りた太宰の後に続いて出てきたルナを見て、俺は早足に一階へと足を向けた。





***





一階に辿り着いた中也は足を止めて自動扉を潜って入ってくる二つの影を見据えた。先頭に立っていた太宰が中也の顔を見るなり、顔を歪める。


「あれ?何で君が此処にいるのさ。えっ…、まさかお出迎え?……うえっ」


「気色悪りィ勘違いすんな糞野郎。誰が手前なんざ出迎えるか」


口許を押さえ吐きそうな表情で露骨に厭がる太宰に中也は青筋を浮かばせた。あっそ、ともうどうでも良さそうに自分の濡れた前髪を弄り、先程からポタポタと垂れてくる水滴を鬱陶しそうに払っている太宰から目を離して中也はその後ろにいるルナへと視線を移した。太宰と同じようにルナもずぶ濡れ。水分をたっぷり含んだ黒い服は肌に張り付き水滴が幾つも床へと落とされる。

太宰と違うところは一つ。


垂れてくる水滴には赤が滲んでいた事だ。黒い服にベッタリと塗られたように付いている血。恐らくは返り血だろうが、その量は厭でも目を引く。


「……。」


中也は無言で太宰の横を通り過ぎて俯いているルナに近づく。不思議そうな顔をして中也を見る太宰と目の前に立った中也を見上げたルナ。


視線が交じり合った事で中也はルナの表情を読み取るように見据える。そして、数秒固まった。彼女はいつも通りの無表情だったが、微かに感じる違和感。それに気づき、それを確かめる為、何も云わずに中也は自身の黒手袋を外しルナに向かって手を伸ばした。


濡れた前髪を優しく掬うように上げて、そっとルナの額に手を当てる。



じわりと掌に感じる熱さ。



雨に長時間当たって冷たい筈なのに、触れたその場所はとてつもなく熱い。


「手前、熱あるじゃねぇか」


中也のその言葉にルナは微かに目を見開いた。


この熱さじゃ40度近くはあるだろうか。普通なら立っているのも辛い筈。よくこんな状態で任務中耐えられたもんだ、と中也は溜息を溢した。一言くらい体調が悪いだの何だの云えばいいものをいつも通り無表情で平気に過ごしていただのだろう。容易に想像がつく。


「熱……?ルナが?」

「手前は一緒にいて気付かなかったのかよ」


心底不思議そうにそう問う太宰に中也は顔だけ振り向きそう返した。これだけ発熱していれば、いつもより動きが鈍っていたに違いない。


しかし、太宰は「さあ?任務に支障もなかったし。一々気にする必要もないだろう?」と。その態度に中也の苛つきは募っていく。


「それにまだ仕事は残ってる。生け捕りにした捕虜の拷問だ。休んでる暇なんてないさ。ルナ、行くよ」

「てめっ!」


これ以上無理させるべきではないと判っていないのか。否、寧ろまるでそんな事どうでもいいような口振りで歩みを進めていく太宰に中也は声を荒げて静止するが、太宰は全くの無視だ。ルナはルナで命令権を持つ太宰に断る理由もないので彼の後を追う。


しかし、限界というのはある。


足を踏み出したルナの体がふらっと傾く。


目を瞠った中也は急に倒れてきたルナに驚きながら咄嗟にその小さな体を受け止めた。


「ルナ!おい!」


胸に寄りかかるように倒れたルナを支えた中也はルナの顔を覗き込む。先程より呼吸が安定していない気がする。気がすると云うのは本当に微かな変化だからだ。それはルナが無意識に症状を隠しているのか、それとも自分の今の状態を知られない為に意識的にやっている事なのかは定かではない。だが、ルナの体調が普段通りではない事は判る。これ以上無理をさせる必要のない事も。
中也は自身に寄りかかるルナを抱き上げた。このまま濡れたままでいれば更に悪化するのが目に見えている。早く暖かい部屋で休ませるべきだ。


ルナを横抱きに抱えたまま歩き出した中也を腕を組んで無表情に見据える太宰。そんな彼の横を「ルナは休ませる」と一言添えてから中也は通り過ぎた。



しかし、


「ルナにその必要はないだろ。拷問が先だ」

「…あ"ァ?」


無慈悲な太宰の言葉に中也は振り向く事はせず歩みを止めた。その背中に太宰は腕を組んだまま続ける。


「ルナの拷問のやり方は実に興味深くてねぇ。間違って殺さない程度にあそこまで痛みと苦痛を与える残虐さはいつ見ても飽きない。……と、云う訳で、ルナを休ませるならその愉しみが終わった後だ」



だから返して、と掌を向けて愉しそうに口角を上げた太宰に、中也はギリっと奥歯を鳴らした。どんな厭がらせを受けてもムカつきはしたが、ここまで怒りが湧いた事はなかった。



コイツは、この糞野郎はルナを何だと思ってやがる。



「いい加減にしやがれ、太宰」


ふつふつと内側から煮え滾る何かを感じ乍ら、中也は振り返り、鋭い瞳を太宰に向けた。



「––––––––ルナは、手前の玩具おもちゃじゃねぇ」



殺気のこもった中也の声が辺りの空気を震わす。まるで大気そのものが怒りを表しているように。


中也は太宰を睨んだ後、踵を返しルナを横抱きにしながらビルの最上階へと向かう。それ以上太宰が止めることはなかった。







優しく温かい腕の中。



中也が歩く度にゆらゆらと揺籠のように揺れるその振動を感じて、ルナはそれを心地よいと感じた。


こんな事初めてだった。


自然と重くなる瞼。駄目だと思っても、それはまるで魔法にかけられたようにゆっくりと落ちていく。



『(イヴ以外で、初めて……)』



––––––––––初めて、誰かの傍で眠りに落ちた。








***



腕の中で眠ってしまったルナを抱えたまま向かったのは首領執務室。扉の前で返事を聞いてから入る。此方に視線を向けた首領は目を丸くして声を失っていた。


「あの、首領…。ルナが熱を出してしまいまして」

「……。」

「首領…?」


固まる首領に再度声を掛ければ、我に返った首領が椅子から立ち上がり此方に歩み寄ってくる。どこか慎重な足取りで。


「……眠って、いるのかね?」

「はい」


ルナの顔を覗き込み、歯切れが悪い問いを溢した首領に首を傾げる。一体何に驚く事があるのだろうかと。疑問を浮かべる俺に気づいた首領が、いやね、と苦笑を零す。


「ルナちゃんがイヴを傍に置かずに寝るのは初めてなのだよ」


珍しい事もあるのだね、と寝ているルナを見詰める首領。確かに前に一度寝ているルナを見た時はイヴが傍にいた。それ以外、ルナが眠っているところを見た事はなかったが、まさか首領も同じだったとは。


「此奴の部屋は奥でしたよね?休ませても」

「嗚呼。でも、あの部屋には寝台がないから。君の部屋で休ませてあげなさい」

「……は?」


思わずそんな声が出た。首領は何を云っているのだろうか。寝台がない?……いやいや、そこじゃねぇ。問題なのはそこじゃねぇ。


「俺の部屋……、ですか?」

「君の傍ならルナちゃんも安心して休めるだろうからね。症状からして、疲労からきた熱だろうから。しっかり休ませてあげなさい。なーに、心配はいらないよ」


頼むね、と有無を云わせない言葉に俺は頷くことしか出来なかった。そして、そのままルナは俺の部屋で休ませることになったのだった。




***



首領の執務室を後にした俺は自身の部屋に入って固まった。


腕の中に眠るルナを見る。


「看病、つったってなァ」


まず、アレだろ?


このままじゃ治るもんも治らねぇから、雨で濡れた服を脱がせて……。


「いや、どうしろってんだ…」


いくら14歳の餓鬼でも、女だぞ?
それは、駄目だろ。


「あ、姐さんに頼めば……。そういやァ、出張中だったな」


はぁぁ、と大きく溜息を吐き出した。しかし、どんどん熱くなる体に苦しそうな呼吸。早くしないと悪化してしまう。


意を決意して、そして、心の中で謝罪を入れて看病に取りかかった。


、、、、、。




「あ"あァ…、こっちがどっと疲れた」


なるべく…、否、殆ど見ないように努めた。代わりの服は適当に俺ので見繕って着せたが小柄なルナには少しぶかぶかだった気がする。と、云っても代わりなんてないので仕方なくそれを着せて寝台に寝かす。


疲れたのは脱がせるのに時間が異常に掛かったからだ。見ずにやったのもあるが一番はルナの体に備えられている凡ゆる暗器の量。そして、更に黒い布の用な服を振れば、じゃらじゃらと出てきた。その量に冷や汗が湧いた程だ。


流石、ポートマフィア随一の暗殺者と云ったところか。



寝台に横になるルナの顔を覗き込む。眠ったことで緊張の糸が切れたのだろうか、無表情で何も感じさせなかった顔とは違い、頰が赤らみ、呼吸が荒い。そこにはしっかりと病人の顔があった。不謹慎にもこっちの顔の方が人間らしさが出ていて、漸く何かに安堵した。もし、あのままルナを放って置いたらどうなっていただろう。酷い熱だ。いつ倒れても可笑しくはない。それが戦闘中だったら尚更、危険だ。


汗ばむ額に張り付いた前髪を上げ、冷たいタオルを置いてやる。物の数分で熱くなってしまうタオルを何度も替え乍ら、看病を続けた。





***



ヒヤリと冷たい温度。


それを感じたルナは朦朧とする意識の狭間で目を覚ました。


ここは何処だろう。
記憶が曖昧で体が怠い。


「よ、起きたか」


すぐ近くで声がした。その声の方へと視線を動かしたルナの視界にラフな服装をした中也が映る。


「気分はどうだ?」


顔を覗き込みそう訊いてきた中也をルナはボーッと見据えた。何も答えないルナに「まだ辛ぇか?」と問う中也は額に乗っていたタオルを再び替え、ルナのそこに優しく置く。


『……ちゅうや』

「あ?」

『どうして、中也…』

「首領に頼まれたンだよ。手前を看病して欲しいってな」

『……違う』


首を横に振ったルナに中也は首を傾げる。


『どうして、中也の傍は……』


––––––––––こんなにも胸が温かくなるのだろう。


朦朧とする意識の中で中也の声が聞こえた瞬間、胸の中がポカポカとした。中也の声に、中也の顔を見た時、感じた事のない何かが広がった。


『ここが、あったかいの。胸の中がとても』

「あー、そりゃアレだな。“安心”ってやつだな」

『…安心?』

「病人は心細くなるって云うだろ?だから、誰かが傍にいれば安心すんだとよ。俺は風邪ひいたことねぇから判らねぇが」


誰かが傍にいれば“安心”する。
本当にそれだけ?


違う。誰かじゃない。こんな事初めてだから。


『誰かじゃない。中也が、中也が傍にいてくれると、私、“安心”、する』


ルナは力の入らない手をゆっくりと伸ばして中也の袖を掴んだ。ルナの言葉に目を丸くする中也は熱が移ったように赤くなる顔を片手で隠した。


「てめっ、熱上がってんだろ!?らしくねぇ事口走ってんぞ」


早口で戸惑う中也はルナから目を逸らした。熱の所為で、赤らんだ頬と潤んだ瞳が艶っぽく見える。それに加えてルナの言葉が中也の脳内で繰り返されれば、込み上げてくる恥ずかしさとそれに勝る嬉しさを中也は襟足を掻いて誤魔化した。


「と、取り敢えず何か欲しいもんとかねぇか?粥でも、何でも持ってきてやる」


そう云って立ち上がった中也だが、くんっと引っ張られた袖に驚いてルナを見遣る。


『何もいらない。だから、』


その言葉を紡ぎながらルナの瞼が落ちていく。



『傍に、いて』
 


小さな寝息を立てて眠るルナを見詰め、中也は静かに寝台の端に腰掛ける。袖を掴んでいた手を離しそっとベッドに置いた後、その小さな手に自身の手を重ねた。


微かに握り返される手はまるで先程の言葉を表しているようで。



「ったく。可愛いやつ」



それは、頬を緩ませた中也の優しい想いを含んだ言葉だった。






 







今でも覚えている。


夢の中で、感じたその手の温もりを。


温かくて、心地よい中也の優しさを。












    

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