第八章 邂逅〜運命の一頁〜
中也は必死に頭を回す。
ルナくらいの歳の女が喜ぶ処は何処か、と。
『次は、何処に連れてってくれる?』
その言葉が脳裏で連続再生し続ける。柄にもなく、その言葉が嬉しすぎて浮かれているなんて死んでもルナには云えないが、それくらいに中也は嬉しかった。
しかしだ。次は、と云われて次を考えていなかった中也にこれと云ったいい場所が思い浮かばない。
取り敢えず、街中を歩き乍ら考える時間を稼いでいた中也は頭の中で色々イメージを立ててみた。女が好きそうなものを思い浮かべる。菓子、小物、動物、花……。
「(花……?)」
その単語を頭に思い浮かべた瞬間に閃いた場所。花畑は如何だろうか…?、と脳内で街の地図を広げて、此処から一番近い花畑を捜した。
暖かい季節は花も彩り豊かだ。
花畑を選んで間違いなかったと思える程には見応えはある。まあ、これでルナの無表情を崩せるかと聞かれたら自信はないが。
中也は花が並ぶ前に屈み込む。それに倣ってルナも中也の隣にしゃがみ込み風で揺れる花を見つめた。
「花は好きか?」
『……。』
一つだけ判った事。ルナは答えるのに困ると黙る癖がある。多分、ルナにとって物を好き嫌いで見る概念がないのだろう。全ての事に無関心のまま生きてきたルナにとっては尚更。
中也は「コレなんか如何だ?」と手近にあった白い花を指差した。中也も花に詳しくないからこの花の名を知らないが、何となく目を引く花。花自体は小ぶりだが、その小さな花がいくつもボールのように集まって花房作っているから存在感がある。それを指でちょんと触れれば可愛らしく揺れた。
「手前に似合いそうだな」
その花を眺めていれば、ふと出てきた呟き。
『……私?』
そこで中也はハッとする。心の中で呟いたつもりが無意識に声に出していた事に気付いた。何故そんなことを口走ったのか自分でも判らないまま此方を見据えてくるルナから慌てて視線を離した。
「な、何となくな」
『…私は、マフィアの黒』
無機質な声でルナは云った。機械のようなその声音に中也はルナの横顔を見遣る。オッドアイの右眼だけが見えるその横顔の表情は変わらず無。
『皆、そう云う』
皆とは何処までの範囲を云うのだろう。恐らく、それは全てだ。組織の仲間も、敵も。ポートマフィアに加入してから厭でも耳にする噂。敵も味方も関係ない。そこには菊池ルナに対する恐怖の渦が淀んでいる。
『だから、私に、この花は…、違う』
中也が似合うと云ったその白い花。それに手を伸ばそうとしたルナの手は触れる前に止まる。少しでも触れてしまえば、この白い花が真っ黒に濁ってしまう気がした。如何してかルナにはそれが出来なかった。
だが、視界に花の茎を掴んだ手がルナの視界に入った。そのまま、その花は優しく摘まれる。
「そんな事ねぇだろ」
耳の側でこそっと小さく音が鳴る。
耳元からゆっくり離れていく手。
「ほら、似合うじゃねぇか」
そして、ふっと優しく微笑む中也。
水浅葱色の髪に飾られた白い花はその姿のまま咲いている。穢れる事も、濁る事もなく。美しい純白のままに。
『……。』
こんな時、何て云えばいいの?
言葉が出てこなくて私は微笑む彼から視線を逸らす。こんな事初めてだった。“何か”を云いたいと思ったのは。それに、一瞬、ほんの一瞬だけ。聞いたことない音が心臓から聞こえた。それが何の音なのかは判らない。
俯いて完全に黙り込んだルナに俺は、また変な事云っちまった、と片手で顔を覆う。先刻から、らしくない事ばっか考えたり、云ったりと自分自身がよく判らなくなってきた。ルナといると太宰とは全く別の意味で調子が狂うらしい。
沈黙が漂う中、突如鳴った機械音。その音の正体は俺の携帯だ。ポケットに入れていたそれを取り出して、耳に当てた。連絡の主は紅葉の姐さんだった。休憩と云ってから帰ってこない俺を心配しての事らしく、今ルナと一緒にいる事を伝えれば、大層驚かれた。だが、その後に何処か嬉しそうに笑い、何故か「折角のデェトじゃ、帰るのはゆっくりでも良いぞ」と。いや、デェトじゃねぇし……。
しかし、休憩とは云っても少し長く取りすぎたことに反省。電話を切って、立ち上がる。
「そろそろ帰るか?」
すくっと立ち上がったルナを見てそれが了承の意と理解した中也は歩き出す。そして、背後をチラッと見る。ルナはいつも中也の後ろを歩く。それに気づいた中也は足を止めて振り返った。
「隣、歩けよ」
『……。』
「俺の時だけだ。な?」
恐らく、ルナは首領の護衛としてその位置が定着しているのだろう。だから、どんな時も相手の一歩後ろで控える。だが、それは仕事中の事であって、今は違う。
ルナは初めは黙ったまま動かなかったが、中也が優しく微笑むまま待っているものだから、ゆっくりと中也の隣まで歩み寄った。そうすれば、中也は歩き出す。ルナも同じ速度で歩き出した。
並んで歩くなんて、不思議な感覚。何処か落ち着かないその位置に違和感はあるものの、厭な感じは全くない。本当に彼は不思議な人だと、ルナは思った。
「…おい、少し此処で待ってろ」
突然、ルナの隣を歩いていた中也がそう云って何処かに歩いて行く。そして、そのまま中也はある店に入って姿を消した。
ぽっかりと空いた隣。そこをじっと見据えてルナは胸に手を置いた。何故か判らないけれど、ここもポッカリと穴が空いた感覚がしたから。その穴が判らなくて首を傾げるルナの目の前にずいっとある物が差し出された。
いつの間に戻って来たのか。
そこには紙袋を目の前に差し出す中也がいた。
「やる」
中々受け取らないルナの手に中也は半ば無理矢理渡した。ルナは首を傾げて、袋の中身を開ける。
「昼から何も食ってねぇだろ?まあ、それは菓子だが…。腹の足しにゃなるだろ」
これはお菓子らしい。初めて見るそれを一つ取り出して、ルナは首を傾げた。
『…何、これ?』
「あ?手前、シュークリームも知らねぇのか?」
『シュークリーム…』
その単語を繰り返してルナはその匂いを嗅ぐ。甘い匂いだ。その様子を見た中也は、犬かよ…、と中々食べないルナを見て、甘いの嫌いなのか?とも思ったが、漸くルナが小さく口を開けてそれを齧った。
「どうだ?」
『……。』
もぐもぐと小動物の如く口を動かすルナに問うたが、矢張り返答は返ってこない。しかし、もう一齧りしたのを見て、中也の頬は自然と緩んだ。そして、ゆっくりと歩き出す。シュークリームは歩き乍らでも食べれるから選んで正解だったかもしれない。無言で二つ目を食べ出したルナを見て、中也は満足気に微笑んだ。
**
拠点に帰って来たのは夕刻の時間だった。黒服の構成員達が帰ってきたルナを見て、直ぐに敬礼をして、その場で固まる。その表情は何奴も此奴も恐怖に顔を引き攣らせて息を呑んでいた。化け物を見るようなその目が気に食わず睨みでそれを追い払った。ルナは全く気にしていない様子だったが。
昇降機に乗って其々の階の釦を押す。俺は姐さんの執務室がある階。ルナは最上階、首領の執務室だ。そう云えば今更ながらに勝手に此奴を連れ出して良かったのかと疑問が湧く。もしかしたら、近い内に首領の呼び出しを喰らうかもしれない。覚悟をしておこう。
目的の階を知らせる無機質な音。
それはまるで今日ルナと過ごした時間の終わりを示しているようでどこか寂しく思えた。同じ組織にいても逢う機会はそうないのだから。今日逢ったのも本当にただの偶然。次は何時逢えるか、なんて柄にもない事を考える自身に苦笑した。
「んじゃ…、またな」
開いた昇降機の扉から出て、片手を上げた。振り返れば、シュークリームの袋を両手で抱えたルナが相変わらずの無表情で俺を見据えている。結局、その無表情を崩す事が出来なかった。それだけが少し心残りか。
『––––––中也』
その場に響いたルナの声。それを聞いた時、俺は今日一番の驚きに目を瞠く。何故なら、それはルナが初めて俺の名前を呼んだ瞬間だったから。
しかし、扉は無情にも閉まっていく。硝子張りの昇降機から差し込む光がルナを照らし、逆光であまりよく見えないが、最後に聞こえたのは_____、
『ありがと』
その言葉だった。
硬く閉まった扉の前に俺はただ佇む。何に対しての礼なのか判らなかった。シュークリームをあげた事にか?それしか思い浮かばないが。それだけじゃないように思えるのは何故なのか。本当に判らない事だらけだ。ルナの事は勿論、自分自身にも。
だが、それを深く考えるのは止めにした。何故なら、凄く気分が良かったから。しかし、その理由も判らないのだから、もう如何しようもねぇな、と自嘲気味に笑った。そして、俺は長く続く廊下を歩き出す。好きな洋楽の鼻歌を歌い乍ら。
*
ルナは袋に入っているシュークリームを取り出して一口齧った。甘い味が口内に広がるのを感じて、二口目、三口目と食べていく。
最上階に辿り着いたので足を首領の執務室に運ぶが、シュークリームを齧る口は止まらない。見張りの男が無心に食べ続け乍ら歩いてくるルナを不審な目で見据える。このまま扉にぶつかるのではないかと云う程にその脚と口を止めないルナの代わりに扉を開いた。ルナはそのまま執務室に入って行く。
「お帰り、ルナちゃん。随分と遅い帰宅だ……」
書類から目を離して入ってきたルナを出迎えた森の目が小さく見開かれた。しかし、全く気にせずにシュークリームを食べ続けるルナは自分の部屋に続く奥の扉に向かっていくだけ。森の視線を完全無視である。
「何を食べているのかね?」
漸く扉の前でルナが止まった。だが、森に視線を向けないまま『…シュークリーム』と答える。森にとってそれは本当に驚きだった。どんなに森がルナに高級な菓子を勧めてもルナは今迄見向きもしなかったからだ。食べる事をただの生命活動の一環としか理解していないルナにとって食べ物に好みはなし、摂取出来るなら泥水でも腐った物でも抵抗なしだ。
「驚いたよ。誰に買って貰ったのかい?」
『…中也が、くれた』
「成る程…。中也君がねぇ」
指を組んで納得したように頷いた森は愉しそうに笑った。何が可笑しいのか理解できないルナだったが、特に気にする事もなく部屋に入って行った。
ルナは、しん…と静まり帰った部屋を見据える。一番奥にあるたった一つの窓に近寄って、そこに映る自分を見た。
そこに映る自分の髪に飾られるもの。
『私の、花』
それは少し萎れてしまったけれど、
それはまだ白くて、迚も綺麗だった。
その花を見詰めていれば、
中也の微笑みが脳裏に浮かぶ。
如何して、中也の事を考えると
––––––––胸の奥が震えるのだろう。
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