第八章 邂逅〜運命の一頁〜
マフィアに加入して早数週間。
《羊》と違って上司と部下と云う上下関係がはっきりしているこの組織は少し堅苦しさを感じた。同じ年代の者が少ない所為もあるが。しかし、中也が配属されたのは五大幹部である尾崎紅葉の直麾部隊。新人構成員としては大出世である。
「おや、もうこんな時間かえ」
執務室で書類に目を通していた紅葉が時計を見上げた。時刻は丁度お昼時。朝から事務仕事で忙しかった紅葉は時間の速さに溜息を吐き乍ら同じく書類整理をしていた中也に目を向けた。
「中也、それはもう良いからそろそろ休め」
「姐さんは?」
「
「んじゃあ、俺も」
いいから、と紅葉は追い払うように中也の手から書類の束を抜き取る。手ぶらになった中也は仕方なく紅葉の執務室から出て、休憩を挟む事にした。
薄暗い廊下に靴音が響く。最近、仕事にも慣れてきた。《羊》にいた頃と違って報告書の作成や資料の確認など事務処理もマフィアでは仕事の一部。最初は抵抗もあったが、暴力だけがマフィアではないと今では十分理解している。
「あ…、」
中也はそう声を上げる。それは中也の前から此方に向かってくる人影があったからだ。特徴的な髪色でそれが誰だか直ぐに判った。
久し振りに会った。最後に逢ったのは確か、数週間前の、あの日以来だ。姐さんの部下について色々と覚えることや、やる事が多かった為か、逢う機会はそうそうない。何故か、糞太宰に出会すことは何度かあったのだが……。
足を止めた中也に対してルナは同じ速度で歩き続ける。目の前まで来たルナに話しかけようと口を開いた中也の横をルナは無言で通り過ぎた。まるで道の障害物を避けるように。
は…?と中也が眉を潜めた時には既にルナは中也の後方の廊下を歩いている。あまりの無視っぷりに思わず振り返った中也はその背中に少々大きな声で「おい!」と呼びかけた。中也の声がやけに廊下に響く。漸く足を止めたルナがゆっくりと中也の方に振り向いた。相変わらずの無表情で。
『……何か、用?』
「いや、別にねぇけどよ」
『……。』
「おい!待て待て!」
無言で再び歩き出そうとしたルナを慌てて呼び止める。再度振り返り、先程と同じように『何か用?』と尋ねたルナに中也は眉根を寄せて、襟足を掻いた。
「お前なァ…。用がなきゃ話しかちゃ駄目なのかよ」
『……用もないのに、話しかける理由、ある?』
「は?ンなもん……」
言葉に詰まる中也はどうやって説明したらいいか判らない。用がなくとも話しける時くらいあるだろ…?と自分に問い乍らもいい例えは出てこなかった。
『ないなら…、私、行く』
「あああクソッ!んじゃあ、あれだ!飯、飯食いに行かねぇか?」
『……めし?』
、、、、。
外に出て、適当に選んだ定食屋に入る。昼時とあってそれなりに混んでいたが、窓側のいい席に案内された。
「手前は何食う?」
メニューを広げ乍ら向かい側の席に座ったルナに問う中也。自身の定食は目に付いたものにさっさと決めて、前に座るルナに目を向けた。
『……。』
「……おい、決めたのかよ」
机の上に置かれたメニュー表を手に取りもしないルナに中也は怪訝な表情を浮かべる。それでも表情を変えずに中也を見据えるルナ。
「食わねぇのか?」
ルナは頷いた。
「腹空いてねぇのか?」
今度はルナは頷きもしない。本当に人形のようにただそこにいるだけ。如何すればその無表情の仮面を剥がせるのか。
剥がしてみたい。
中也は不意にそう思った。
「うし、飯は止めだ。行くぞ」
メニュー表をパタンっと閉じて立ち上がる中也。首を傾げて『何処へ』と問うルナに中也はニヤリと笑みを向けて云った。
「愉しい処だ」
*
____きゃあああ。
高い絶叫が響き渡る。強い風圧に髪を遊ばれ乍らルナは無表情に進行方向を見据える。隣では中也が「うひょぅぅ!最っ高だな!」とご機嫌の様子。
中也とルナが乗っているのは遊園地の定番、ジェットコースターである。中也が愉しい処と云ってルナを連れてきたのは此処、遊園地。
此奴の鉄仮面を剥がすには打って付けの場所だろうと、終了したジェットコースターから降りてルナを見た中也は固まる。そこには特に変わっていない表情。変わったと云えば髪がぼさぼさになっているくらいか。
「(ま、まぁ、こんだけじゃ無理か…)」
如何やらジェットコースターでは駄目らしい。なら、と中也は辺りを見渡して見つけたものに口角を上げる。
「次はアレだ」
中也が指差したのはお化け屋敷。此方も遊園地の定番だろう。中也は口角を上げたままルナの手を取った。
「おら、とっとと入んぞ」
、、、、、。
「……。」
『……。』
スタスタと歩くルナに中也は顔を顰める。先程からお化け役が脅かしに何度か出てきているのだが、悲鳴はおろか反応すらしないルナ。この場でルナの怖がる面でも拝もうとした中也の作戦は失敗らしい。
目が回るように次々とルナをアトラクションに乗せて無表情を剥がそうとする中也だが、どれも失敗に終わった。
「おえぇぇぇ、ぎもぢわりィ」
ベンチに腰掛けて口許を押さえる中也とそんな中也の隣で無表情のまま座るルナ。
何で中也がこんな事になっているのかと云うと簡単だ。それは中也が最終的に取った作戦、コーヒーカップを回しまくってルナを酔わせると云うものだった。そうすれば自ずと表情にも出てきてその無表情は崩れるだろうと云う考えだ。しかし、酔ったのはルナではなくハンドルを回しまくった中也自身だった。ルナはこの通りけろりと全く酔いを感じていない様子。此奴の三半規管どうなってやがる…、と中也は口元を押さえたままルナに視線やった。
その瞬間に、立ち上がったルナは何処かに駆けて行く。今まで全く自分から動かなかったくせにいきなり動き出したルナを不審に思い、呼び止めようとした中也だが、襲ってきた吐き気にそれは出来なかった。
しかし、数分もしない内にルナは戻ってくる。そして、手に持っていた何かを中也の前に差し出した。
「水?」
『……飲んで』
それは水の入ったペットボトル。水滴が滴るそれはよく冷えている事が窺える。中也は正直驚いていた。まさか、ルナが自分の為に買ってくるとは思わなかったからだ。中也は目を瞠ったままそれを受け取り、手にある冷たさを見詰める。
『…飲んで』
再びそう云ったルナの声にハッとして中也は「さんきゅ」と礼をした後、水を喉に流し込んだ。冷たいそれが喉を通り、少し楽にしてくれる。濡れた唇を拭った中也は隣に座り直したルナを横目で見た。相変わらずの無表情だ。それは終始変わることはない。だからこそ、それを崩したいと思った。
「(だが、何で俺は…)」
いつの間にかそれに必死になっていた。その必死な自分に疑問を感じる。
「色々連れ回して悪かったな」
『…如何して、謝る?』
「そりゃ、いきなりこんな処に連れて来たんだ……。迷惑だったろ?」
『……。』
そこでルナは黙った。風が一瞬沈黙の間を埋めてくれたが、直ぐに通り抜ける。人々の楽しそうな声が辺りに漂う中、中也とルナの二人だけは違う空間にいるような感覚だった。しかし、それを断ち切るように中也は立ち上がる。
「…帰るか」
静かな声で呟くと歩き出した中也。だが、一歩進んだ瞬間に羽織っていた外套が軽く引っ張られる。不思議に思って振り向くと、オッドアイの瞳が見上げていた。
『まだ…、時間ある』
中也の外套を掴んでいる手をもう一度自分に引き寄せたルナはそのまま続ける。
『次は、何処に連れてってくれる?』
温かい風が中也の耳に触れて、少しだけ擽ったかった。