それから一ヶ月が経った。



《荒覇吐事件》と名付けられた一連の破壊騒動。普通ならば、マフィアの手続きとして裏切者には親族にまで及ぶ制裁が待っていたが、蘭堂には親族や身寄りと呼べるものはおらず、蘭堂の単独犯として処理され、蘭堂の遺体は鄙びた共同墓地に埋葬された。



《羊の王》中原中也をポートマフィアに勧誘。


その作戦は最終段階まで来ている。正式にマフィアに加入した太宰は《GSS》と《羊》の殲滅任務を森から任された。この二組織が完全に同盟を組む前に一掃し、中原中也をマフィアへ加入させる。それはもう決定事項だ。



太宰が十数人の部下を連れて本部を出て行った。



先刻の打ち合わせ。


太宰が部下達に出した指示がルナの中で今も引っかかっていた。



心の中に疑問を残した儘ルナは木がまばらに生える斜面を歩いていく。軈て視界に捉えた人影。木に手をつき乍ら傷口を押さえているその人影は中也だった。


静かに歩み寄り、中也の前に立ったルナ。中也は額に汗を浮かべ、ルナを見据えた。



「…手前も、来てたのか」


弱々しい声は微かに震えている。額には汗が浮かび、指先が痺れで痙攣していた。恐らく、傷口から毒が回っているのだろう。血の匂いに混じって、殺鼠剤の匂いが感じられる。


ルナが来る前、武装したマフィアの構成員を連れた太宰に会った中也。そして、気付いただろう。太宰が電子遊技場で森に電話を掛けたあの時から、全てこの状況になる様に仕向けていた事に。全てはこの為、中也が絶対に断れない今の状況を作る為に。


『《羊》の、仲間に…、裏切られた……？』


ルナもそれを判っていてそんな事を中也に問うた。中也はそれに怒るでもなく、寧ろ自身を嘲笑うかのように薄い笑みを浮かべる。


「はっ、ザマァねぇよな。俺が彼奴等に与えていたものは不安だけだった。リーダー失格だぜ。そんで、その代償がこれだ。……裏切られても仕方ねえよ、な」


拳を握った中也の指先は震えている。それは毒の麻痺だけが原因ではないだろう。




彼は《羊》の仲間に裏切られた。
今迄尽くしてきたのに。
仲間の為に、仲間を守ってきたのに。




ルナの中にあった疑問が膨れ上がる。



『裏切られたのなら、……殺せばいい』



その言葉に顔を上げて、ルナに視線を向けた中也。ルナは中也を無表情の儘見据え、言葉を続ける。



『如何して……殺そうと、思わないの？』



幼げな質問をするような声音で中也にそう問うたルナには理解できなかった。太宰が先刻の打ち合わせで云っていた事もそうだ。


中也は《羊》の仲間に裏切られても《羊》達を殺すな、と云うだろうと。


それがルナには理解できない。裏切られて、殺されそうになったのに、それでも情けを掛ける意味が彼にはあるのか。マフィアでは、裏切り者には恐ろしい制裁が下る。絶対的な強さを持つ中也なら、自身を裏切った《羊》の構成員を殺す事など容易い筈なのに。


そして、その事に何故？と問うたルナに太宰は笑みを浮かべ乍ら選択肢を告げた。


“《羊》を殺すか殺さないかは君の好きにしていい” と。


何故、太宰はルナだけにそんな指示を出したのか。ルナには、理解できない。



「…彼奴等には、世話になった。それに、こうなっちまったのは俺の責任だからな」

『…責任？』


ルナが首を傾げた時、林の向こうから銃声の音が響いた。近くで抗争が始まったのだ。その音に振り返った中也だが、再び視線をルナに戻す。


「手前は行かなくていいのか？」

『……動けない。命令の意味が、理解できない』

「あ？」

『私は今、首領からあの人の命令に従うよう……、云われている。けど、あの人は先刻、私だけに、“《羊》を殺すか殺さないかは君の好きにしていい” と、命令した』

「それの何が判んねぇんだ？」

『……私は、明確な指示がないと……、動けない、から』


その時、ふと、中也は前にルナが太宰の命令によって男に拳銃を撃ち続けた事を思い出した。



命令されて動く人形。
己の意思を持たない人形。



感情と云うものを最初から持っていない、それが菊池ルナ。しかし、ルナは人形みたいであって、人形じゃない。ルナにはちゃんと自分の意思がある。でなければ、あの時、電子遊戯場の時や蘭堂を倒した後に、ルナがとった行動の説明のしようがないからだ。


ルナは感情が欠落しているのではなく、感情そのものを知らないのではないか。だとしたら、目の前のこの少女が酷く可哀想な幼子に中也には見えた。


「手前は、ずっとそうやって今迄生きてきたのか…」


どんな状況でも命令が無ければ動こうとしない。光のない瞳は何も映していないのだろう。自分で世界を見ようとしていないのだから。


『私には、判断できない、から…、私に命令をして』

「俺がか？」


中也の言葉にルナは首を縦に振った。空虚なオッドアイの瞳が中也を捉えた儘離さない。中也もその瞳を見据えて、暫く口を開かなかった。辺りには水飛沫の音と銃声の音だけが響き渡る。そして、何方も視線を交わせた儘、時間だけが過ぎて行く。何故、自分なのか。目の前の少女からはその答えは見つけられない。軈て、苦笑して、静かに口を開いた中也。


「俺は手前に命令はしねぇ。だから、今から手前にすんのは頼み事だ。……《羊》の奴等は殺さないでくれ。たとえ、裏切られても、彼奴等が仲間だったことに変わりはねぇんだ」

『……それは、命令…、じゃないの？』

「嗚呼。頼まれてくれるか？ルナ」

『……わかった。殺さない』


頷いたルナに笑みを浮かべた中也。


屹度、ルナはまだ理解してないだろう。だが、中也が云った命令とは違う頼み事を受けてみようと、中也の優しい笑みを見てルナはそう思った。








**



銃声が鳴り響く。


ポートマフィアとGSSの撃ち合い。両組織、何人かが地面を転がり唯の物体になっていた。銃弾が飛び交う中で、太宰は先頭に立っていたのだが、何故か彼に弾は当たらない。悪運が強いと云うべきか。



段々と数が減るGSSの兵士達と物陰に隠れる《羊》達。倒れていくGSSの兵を見て自分達も命が危ないと焦りが出て来たのだろう。《羊》達はその場から離れる為、走りだした。


「（却説、子供を捕らえるには……）」


太宰は走り逃げる《羊》達を怜悧な瞳で見据える。だが、《羊》達が逃げる先に立つ一人の少女を見て、笑みを深めた。


「っ！お前ポートマフィアの！其処をどけ！どかないと撃つぞ！」


先頭を走っていた銀髪の少年が逃げ道を塞ぐルナに銃口を向けた。相手は自分より幼い少女。ポートマフィアとはいえこんな少女くらい簡単に殺せる。そう思ったのだろう。


『…おいで、イヴ』


少なくとも数秒前迄はそう思っていた。
彼女の背後に現れた“それ”を見るまでは。


「ひっ！」


誰かの小さな悲鳴が上がった。



どんな物も引き裂ける鋭い爪と牙。
人を簡単に吞み込める大きな口。
睨まれただけで死を感じさせる血のように赤い瞳。
地獄の底から響いた唸り声。



それはまさに、小さな子羊を狙う巨大な狼。




《羊》だけでなくGSSの兵士達もその恐ろし獣の姿を茫然と眺めることしか出来ない。




右手を前に出したルナ。言葉がなくとも、ルナが出した指示に従うイヴは、縮こまる《羊》達をその鋭い牙がついた口で喰らいついた。


鋭い悲鳴。


《羊》は全員気絶した。しかし、銀髪の少年だけはその場の地面に腰を抜かして目の前にある牙を怯えた目で見ている。イヴは《羊》達を呑み込んでいなかった。喰らいつこうとした大きな口はそのまま《羊》達の前で止まっている。銀髪の少年もその恐怖に耐えられず、数秒してパタリと気絶した。


「殺さなかったんだね。中也に命令して貰ったのかい？」

『…違う。……頼み事』

「頼み事？」


気絶した《羊》達を空虚な瞳で見据えた儘、首を傾げる太宰に頷いたルナ。そして、黙った二人の耳に聞こえたのは銃を構える音。視線を音のした方へと向ければ、GSSの兵士が太宰とルナに銃口を向けていた。再び抗争が始まろうとしている。


「さあ、ルナ。マフィアが夜の恐怖の代名詞だった頃を、敵に思い出させてやろうじゃあないか」


太宰は向けられた銃口を見てニヤリと笑った。





***




スタンドガラスが太陽の光を反射して紫の光が長廊下を照らす。その長い廊下に靴音を響かせ乍ら二つの人影が歩いていた。


「以上が会合の概要じゃ。何か質問はあるかのう、新入りの坊主」


一つは背の高い和装の女性、尾崎紅葉。燃えるような紅蓮の髪を簪で一つに纏めている。


「坊主はやめて貰えませんかね……。んじゃひとつ質問。何故俺を会合に連れてくんすか、姐さん？」


もう一つの人影はつい最近、ポートマフィアに加入したばかりの中原中也だ。


「お前こそ姐さんは止めよ。私はまだそんな齢ではない。連れて行く理由は無論、後学の為じゃ。今回の会合の相手は、さるマフィアのフロント企業。出された茶のひとつ、会話の間ひとつがマフィアの趨勢を左右する」

「俺みたいな奴が同席して、もし相手を怒らせちまったら？」

「その時はその時じゃ。その程度で傾く屋台骨であれば、いっそ派手に壊した方が粋と云うものじゃ」


そんなモンですか…、と少し困った顔で紅葉を見上げる中也だが、向かいの廊下から聞こえてきた幼い子供の高い声に前方に目を向ける。


「あははは！ぼく、きゅうさく！ねぇあそぼう？あそぼうよ！」

「はいはい、そっちの子に遊んで貰ってね。ルナ、相手してやって」


素っ気なく久作と名乗った子供の誘いを断った太宰は、隣を歩いていたルナに面倒事を押し付けている。キラキラした瞳で人形を抱えた久作を無表情で見つめ、脇腹を抱え上げたルナ。




「あー！！」
「ああああ！手前ぇぇ！！」


二人の少年の叫声が廊下を満たした。


「中也！何の為に君を組織に入れたと思っているんだ！君は僕の犬だろ！」

「あァ！？」

「足が痒いと云われれば足を掻き、蕎麦が食べたいと云われれば蕎麦屋を脅して連れて来、演劇を観たいと云われれば一人で上演してみせるのが君の仕事だ！それが何だ、紅葉さんの直麾部隊？出世コォスか、順風満帆か！若いんだから下積みしろこの小型生物！」

「手前が云うなこの裏工作野郎！俺は俺の意思でポートマフィアに加入したんだ！手前の部下にも犬にもならねぇ！手前の企みなんぞ知ったことか！」


二人が罵倒し合っている間、ルナに抱き上げられている久作は怒声を浴びせ合う二人を首を傾げて、指差した。それを見たルナは久作を抱えた儘ゆっくりと太宰と中也の二人に近づき、罵倒を叫ぶ二人の間で久作と共に二人を交互に見遣る。


「それに後で調べたらあの電子遊戯台、俺の操作盤の方に誰かが飲料水をかけた所為で釦操作が効きにくくなってたらしいじゃねぇか！無効試合だあんなもん！」

「あーはーん？負け惜しみかい中也？僕が不正した証拠がどこにあるというのだね？ルナの前だからって負けた事の云い訳をペラペラと、恥ずかしーい！中也、恥ずかし～い！」

「うっぜぇ！！云い訳なんざしてねぇ！おい、ルナ！してねぇからな俺ァ！」

『私…、何も云ってない』





それは或る日、或る時刻、或る廊下。


歴史にも残らない、とりたてて記憶にも残らない、平凡な出来事だった。