第八章 邂逅〜運命の一頁〜
俺の記憶は人生の途中からしか存在しなかった。
八年前のあの日以降しか、人生そのものが存在しない。
それ以前は、闇だ。
青黒い闇。
透明な壁に囲まれた、重く静かな闇。
上も下も、前後も判らない。
時間の流れすら曖昧で、自分が何者かも判らない。
そんな闇の中に浮かんでいた。
どこかの施設に封印されていた。
《荒覇吐》は神じゃない。
死者を蘇らせる力もない。
俺っていう人格が、どうして存在するのかも判らない。
判るのは、誰かの手が封印を破って、俺を外に引っ張り出したってこと。
「____あの手はあんただな、蘭堂」
中也は静かに蘭堂を見上げて云った。
「あんたは何処で俺を見つけた?それを知る為に俺はこの事件を追った。さあ、全部吐いて貰おうか」
蘭堂は返事をしなかった。俯き、表情を隠して震えていた。その震えは寒さ故ではない。蘭堂は嗤っていたのだから。
「無論、無論。教えるとも。君にはそれを知る価値がある。しかし口で説明するより、見た方が早かろう。……これが八年前、私が君にしたことである」
周囲の風景が切り替わった。
空間が反転し、風景が切り離される。そこは先程までとは違う、全く別の空間になっていた。
「蘭堂さんの亜空間異能?」
周囲を見渡して呟いた太宰。異能による亜空間は、造船所そのものを覆い尽くすほど広大に展開されている。屋根よりも高く展開された亜空間は深紅の輝きを放っていた。
一瞬の間、右手で亜空間を凝集したものを作り、それを放った蘭堂。
「ルナ!!」
放たれたそれは一直線にルナへと向かいルナの小さな体を遠くに弾き飛ばす。太宰が叫んだ時には既に数百米ほど飛ばされた場所にルナは人一人入れるほどの空間内に閉じ込められていた。
「彼女は危険。手始めに動きを止めておかなくては目的を遂行出来る確率が下がる。悪いが終わるまでそこで大人しくしていて貰おう」
目を見開いて中也はルナが飛ばされた方向を見た。そして、焦り声で太宰に問う。
「おい!あいつ大丈夫なのかよ!」
「そんな簡単に殺られる子じゃないさ。アレでも森さんの護衛を任されているくらいだからね」
太宰はそう云うが中也はそれでも心配そうにルナが飛ばされた方向を見ていた。
だが次の瞬間に、いきなり亜空間の中心が爆ぜた。空間そのものの爆裂。それによって生成された振動波が中也を呑み込み、軽々と吹き飛ばした。
「何故重力で防御できない」
「私の亜空間は、どのような物理法則の影響も受けない」
しかし、吹き飛ばされた筈の中也が飛翔した。
そして、蘭堂へと突っ込んでいく。
「手前ッ!!」
「今ので死なぬとは。流石は《荒覇吐》の化身」
中也は共に浮かんだ地面を足場を踏み台にして蘭堂に蹴りを入れた。それを交わした蘭堂。今度は地面に着地した瞬間に再び飛び上がり蘭堂に向かって行く中也の体当たりを亜空間で防御した。
「中也君。この空間内で君は私に触れることはできないが、私は自由に君を攻撃できる」
亜空間波が再び中也を襲った。何発も撃たれる衝撃波。中也は攻撃のしようもなく地面を走った。そして、太宰の後ろへと逃げ込む。
「その莫迦に直接触れた異能は無効化される」
「確かに彼の存在は異端。欧州にも存在せぬ。究極の反異能力者」
「欧州?」
だが、と蘭堂がニヤリと笑った。
太宰の胸を引き裂いた大鎌。血飛沫が上がる。痛みに太宰が呻り、切られた胸を押さえながら前を見た。そこには黒い襤褸を纏い大鎌を肩に担いだ夜の暴帝。
「懐かしき、懐かしき顔がおりよる。小僧、息災か?医師に虐められてはおらぬか」
「死んでた割には顔色がいいねぇ、首領……いや、先代首領」
痩せた四肢、老いに落ち窪んだ眼窩。目ばかりが往来の残虐を宿していた。
「異能であの莫迦を傷つけられる筈がねぇ」
そう異能ならば。だが、先代が持つ鎌は実在する物質だった。異能でないのなら太宰は切られれば死んでしまう。
「先代は死んだ…。何をしたんだい?蘭堂さん」
「私の異能は亜空間の中にある死体を私の使役する異能生命体にできる。最も一度に使役できるのは一人のみだがね」
「凄いね。これ程の異能力を今まで組織に隠していたわけか。貴方は一体何者なんだ」
太宰は斬られた胸を押さえながら立ち上がり蘭堂に振り返った。そして、太宰の問いに蘭堂は答える。
嘗て蘭堂は欧州の異能諜報員だった。蘭堂がこの国に来た目的は日本政府が発見した未知の高エネルギー生命体、つまり《荒覇吐》を奪取する事。
「私が今回の謀略を決意したのは、中也君、ただ君を見つけ出して殺し、先代首領に代わる次の異能生命体として取り込む為だ。太宰君、君の掴んだ情報を首領が知れば私に刺客を差し向けるだろう。すまないが、君も中也君と共に死んでくれ」
そして…、と言葉を続けた蘭堂は先程ルナが飛ばされた方へと視線を向けた。
「君達を殺し、私の目的を果たすことが出来た時、彼女を閉じ込めている亜空間も爆発させる。幼き少女を殺す事は心痛めるが、全ては目的の為」
申し訳なさそうに云う蘭堂だが、その瞳には濁った闇が浮かんでいる。
「てっめぇ!!」
拳を握り締めて蘭堂を睨み付ける中也。二つの殺気がぶつかり合い空気が振動する中、太宰は数日前の森の言葉を思い出していた。
「なぁに、大した仕事じゃない。危険もない」
何でも見透かしたような森の瞳が太宰の頭の中をチラついた。それを思い出し、一言、面白いじゃないかと笑みを深めた太宰。そして、後ろにいる中也へと視線を向ける。
「ねぇ、此奴等倒そう。一緒に」
「あァ?手前は死にたいんじゃねぇのか」
「少しだけポートマフィアの仕事に興味が湧いてきた。表の世界、光の世界では死は日常から遠ざけられ隠蔽されるのが普通だ。忌まわしいものだからね。でも、マフィアの世界では違う。死は日常の延長線上であり一部だ。僕はそっちの方が正しいんじゃないかと思う。何故なら、“死ぬ”は“生きる”の反対じゃなく、“生きる”に組み込まれた機能のひとつに過ぎないからだ。息をし、食事し、恋をし、死ぬ。死を間近で観察しなくては、生きることの全体像は掴めない」
「つまり、自殺願望の手前が生きたくなった、ってことか?」
「試してみる価値はある、そう思っただけさ」
にやりと笑った二人。何かを決意したように、強大な敵を前にして諦めるでもなく、寧ろ勝利への道を掴むように何かが彼等を動かしている。
突如、太宰の頭上の空を大鎌が斬った。
「無用じゃな。子供は死ぬ時間じゃ」
「そうかい」
振り回させる鎌を避けて、太宰は中也へと手を伸ばしたが、蘭堂による亜空間が邪魔をしてその手はあと一歩中也には届かない。それでも太宰の口元からは笑みは消えなかった。
「そういう事だ。判るよね?」
「俺に指図すンじゃねぇ」
再び蘭堂の亜空間波が中也を襲う。次々と放たれる攻撃を中也は素早く避けて、蘭堂へと蹴りを仕掛けた。重力の乗った強力な蹴り、それを亜空間で防ぐ蘭堂。数回繰り出された中也の蹴りを蘭堂は難なく受け止めている。
「八年前の君を、《荒覇吐》を異能生命体として取り込もうとした。だが、《荒覇吐》が周囲の全てを吹き飛ばしてしまった。同じ失態はおかさぬ。今度は完全に絶命させて、必ず取り込む」
蘭堂は中也の脚を亜空間で取り込んだ。そして、それを捻り折った。鈍い音と中也の悲鳴が上がる。蘭堂は中也を地面へと投げ飛ばし、そして巨大な亜空間を中也の上に叩き込んだのだった。
*
_____キンッ、カキンッ。
金属の音が響き渡る。
それは、蘭堂によって閉じ込められた亜空間内でその壁にルナが短刀を斬りつけていたからだ。もう既に刃を斬りつけた回数は軽く千を超えていた。しかし、それでも亜空間にヒビどころか傷さえつくことはない。
そして、ルナが力を込めて斬りつけた時、パキンッと音を立て折れた刃。破片が飛び散り、ルナの頰を切った。ルナは頬から垂れた血を拭うこともせず、刃が折れたナイフを見据える。そして、自分自身に困惑した。
何故、私は此処から出ようとしているのだろう。
まだ、私は命令を貰っていないのに。
なのに、何故?
こんなにも焦っているのだろう。
何故、こんなにも……、
疾くあの人の許に行かなくちゃと思うのだろう。
ルナは自身の中にある不思議な感覚を疑問に感じ乍ら無表情の儘立ち尽くし、徐に左手を胸に当てる。
_____イヴが、騒いでいる。
それはルナの焦りに反応しているのか。
それとも、もっと他の“何か”か。
理由は定かではないが、今、イヴはルナの中から無理矢理出てこようとルナを騒つかせていた。しかし、此処でルナがイヴを呼んだとしても意味はない。
何故なら、此処は蘭堂の亜空間内。
蘭堂の亜空間は、通常空間から隔絶された異世界である。そして、イヴは通常空間内、つまりは実現世界でしか姿を保つことが出来ないのだ。
『ねぇ、イヴ……、あの人は、無事……?』
左手を胸に当てた儘ルナはそっとイヴに語りかける。だが、返事が返ってくる事はない。
瞬間、ルナを閉じ込めていた亜空間が白い光に包まれていた。
『……異能力、無効化?』
ルナがそう呟いたと同時、亜空間が無効化され、一瞬で消えた。