第八章 邂逅〜運命の一頁〜
造船所の建物内にある応接室で太宰は鼻歌を歌いながら宴の準備をしていた。倒産して所有者が不在となった造船所跡地で、今では廃屋となっている為、どんな改造をしても誰も文句はつけてこない。
「楽しみだなあ。自由を得た記念にこんな盛大なパーティを催して貰ったと知ったら、チビな彼はどれくらい喜ぶだろうか。おお、この飾り紐ながーい!これなら部屋の壁を全部飾りで埋め尽くせそうだ。ほら、蘭堂さん、端持って、ルナはこれ持ってて。これだけ豪華な飾りを付けたら、彼は感動して涙を流すね」
部屋には年頃の少年が好みそうな陽気な現代音楽が流れていて、大きな机の上には二十人を満腹にできそうなほど巨大なホールケーキが載っていた。
「いや太宰君……この歓迎をされたら普通の人間は“殺す”と云うと思うが……」
「なんで?お菓子も飲み物も、いい感じの音楽もあるんだ。他に何がいるんだい?」
「若い人達のことはよく知らぬ……が、少なくとも、“落とし穴”ではないと思うが……」
蘭堂の視線が絨毯に移る。言葉通りその絨毯の下には落とし穴が隠されているからだ。入口から見える巨大なホールケーキの手前。さあ奥へ、と促されれば必ずそこまで行くだろう完璧な位置。
愉悦に頰を上気させ乍ら太宰は中也への
「ふふふ、ただの落とし穴ではないよ!奥へと促されたチビな彼はここですとんと地下階に落ちる。勿論、その程度の罠では彼は躓きもしない。下の床を蹴って直ぐに戻ってくるだろう。だが残念、下の層に足場はない。何故なら下はアメンボだって溺れ死ぬこと請け合いのどろどろの軟泥だからだ。幾ら彼でもこれを蹴って一瞬で脱出するのは難しい。そして、このパーティの本当の主賓は泥の中でもがく彼の上から降ってくる20瓩にも及ぶ大量の小麦粉だ。落とし穴が開くと同時に
今までのどんな表情よりも子供らしい表情をしている太宰は無表情で長いリボンを持たされた儘のルナの周りを回り乍ら燥いでいる。そんな中、蘭堂は完全に引いていた。唇の端がひくひくと動き止まないのは仕方ない事だ。
そして、漸く準備を終え、蘭堂とは向かい側の椅子に腰掛けた太宰を蘭堂は「ところで……」と引きつっていた口元を戻した。
「例の《荒覇吐》の件。君は犯人が判ったと云っていたが、あれは本当であるか?それとも中也君を虐めるためについた嘘か?」
「両方だよ。彼の前で云ったのは彼に賭け勝負を受けさせる為だけど、犯人が判ったのも本当だ」
「ほう、それは誰だ?」
「貴方だよ、蘭堂さん」
静かな湖面に枯葉が一つ落ちて、微かな波紋を広げたような沈黙が広がった。しかし、太宰は構わず続ける。
「貴方が先代の姿を偽装し、《荒覇吐》の噂を広めた。……何か云う事は?」
「……根拠はなんだ?」
「貴方はミスを犯した。迚も初歩的なミスをね」
「そのミスとは?」
「海だ」
太宰の瞳はいつまでも静かに蘭堂を見据えている。蘭堂も表情を変えぬ儘目の前の、自分を犯人だと糾弾する少年を見据えるだけ。そして、そんな二人の様子を黙って観察するルナ。
慥かにあの時蘭堂は云った。
黒い炎の《荒覇吐》を目撃した時、遠くにある海が静かに凪いでいた、と。
現場は擂鉢街の中心地。そして、擂鉢街とは爆発のために半球状にえぐれた盆地。
つまり______。
「見える筈がないんだよ。海なんてね。直径二粁程の巨大窪地の中にいたら、どう背伸びしたって海なんか視界に入らない。じゃあ何故、貴方は海が見えるなどと云ったのか?他の証言は完璧で《荒覇吐》の説明には真に迫った説得力があった。貴方は実際に見たからだ。海を。だから間違えた。あの擂鉢街から海が見えたのは、ずっと前、……八年前の爆発の時以前だ」
太宰の話を聞き終わると蘭堂は小さく息を吐いた。
「君と中也君は賭けをしていたな。ならば賭けは君の勝ちか。より早く犯人の許へ辿り着いたのだから」
「感謝するよ蘭堂さん。これで彼を一生犬としてこき使え___」
太宰の言葉は云い終わらなかった。何故なら、何かが壁を突き破って部屋に飛び込んできたからだ。そして、その何かが蘭堂の体を横向きに外まで叩き飛ばした。
大量の土煙が巻き起こるが、それさえも吹き飛ばして、蘭堂に突進した小柄な人影。
「これであの陰険野郎との賭けは俺の勝ちだ。犯人は手前だ、蘭堂。俺の目からは逃れられねぇよ。アンタが嘘をついてた事くらい、とっくにお見通しだ」
「はーいストップ」
「あ?……手前!何でこんなトコにいんだよ!」
賭けに勝ったと思っていた中也は後ろから歩いてきた太宰に向かって噛み付くようにそう叫んだ。太宰の後ろにはルナもいる。
「犯人告発は僕の方が先だからね。今まさに犯行の説明をしている最中だったんだから」
「最中ってことは、まだ終わってねぇんだろ?だったら、俺の勝ちだ」
「君の勝ちってのはあり得ないけど、推理は訊いてあげるよ。何で蘭堂さんが犯人だと思った?」
「推理も何もねぇ。奴の話を訊いてりゃ誰でも判る。これまでの目撃証言は先代のジイさんを見たっていう話ばかりだ。だが、そいつは《荒覇吐》本体を見たと云った。そんなことありえねぇんだよ」
中也は蘭堂に視線を向けながらそう云い切った。確信さえつくその物言いに蘭堂は中也を見据え乍ら口を開いた。
「神などと云うものは存在しないから、私を犯人と考えた、と?」
蘭堂が問うたことに中也は「違ぇよ。逆だ」と答える。そして云った。
「神は存在するからだよ」
中也のその言葉はやけに辺りに響いたようだった。海のように青い瞳は揺れることなく鋭い瞳で蘭堂を捉えている。
「俺はそれを知ってる」
「《荒覇吐》が存在する事を君は知っているのか?」
「嗚呼。あんたも見たんだろ?八年前のあいつを。じゃなきゃあそこまで正確に姿を証言できねぇからな」
蘭堂は中也の言葉を聞いた後、ゆっくりと体を起こす。蘭堂の瞳には今迄感じた事のない熱を持っていた。
「中也君、ならば君は知っているのだな。
_____《荒覇吐》が今、どこにいるのかを」
「知っているなら教えてあげなよ。何方にしろ蘭堂さんはポートマフィアを危機に晒した咎で処刑されるんだから」
「…ったく。何奴も此奴も、何であんな奴に会いたがる。あいつには死人を蘇らせる力なんかねぇ。それどころか、人格や意思そのものが存在しねぇんだ。颱風や地震と同じだ」
「人格など問題ない」
辺りには蘭堂の厳かな声が響き渡った。
そしてその声の儘、蘭堂は続ける。
「大いなる破壊。地を焼き、空を染め、大気を震わす、理解の及ばぬ、彼岸のもの。その“力”だけで、私には十分なのだ。教えてくれ、中也君。人智を超えた存在は____私を焼いた者はどこにいる?」
中也は直ぐには答えない。自分の掌を眺める姿は時が過ぎるのを待っているようにも見えた。だが、軈て一つ息を吐き、青い瞳に蘭堂を映した。
「そんなに知りたきゃ教えてやるよ。
《荒覇吐》はな………、
______俺だよ」
中也は語っていった。
静かな声で、表情で、感情で。
己が暗闇の中で過ごした微かな記憶を_____。