第一章 虎穴に入らずんば虎子を得ず



甘い時間というものは夢の中にいるようにふわふわとしていて、……そして、当然終わりが訪れる。今回、その甘い時間を割いたのは中也の携帯から鳴り響いた機械音だった。


眠っていた中也は腕にある温もりを抱き締めながら、床に落ちている自分のスラックスから音の出所を手探りで探す。手に取った瞬間見えた“首領”と云う表示に慌てて通話ボタンをタップしたのだ。


首領の呼び出しに二つ返事で返した中也はベッドから出て床に落ちている服を着ていく。眠っていたルナは急に消えた温もりに目を覚まして、既に服を着ている中也を見て眉を顰めた。


『何処行くの?』

「首領ンとこだ。まだ報告終わってねぇから呼び出し食らっちまった。ちょっくら行ってくる」

『あ、中也待っ__』


ルナが待って、と云う前にパタンと閉まる扉。シン…と静まり返った室内で一人ベッドの上で座り込むルナは溜息を一つ吐いた。


首領め、許さん。


中也と二人っきりの時間を奪った張本人の顔を思い浮かべてルナは舌打ちをした。そして、ルナも服を着ながら、そう云えば人虎捕獲作戦はどうなったのかと思い返す。緑のマフラーを巻きながら携帯を取り出し、“龍ちゃん”と書かれた表示をタップし耳に当てた。


『あれ?……出ない』


ま、いっか。と、ルナは靴を履いて中也の部屋を後にしたのだった。



***


「酷い顔」

女子トイレで手を洗っていた樋口は鏡に映った自分の顔を見て溜息交じりに呟いた。数時間前、人虎捕獲作戦は失敗に終わった。人虎は捕らえて、輸送船に乗せた。しかしその後、泉鏡花がポートマフィアを裏切り、芥川は虎の異能を持つ中島敦に敗北した。海に殴り飛ばされた芥川を樋口は助けたのだが、芥川は重傷を負い目を覚ましていない。そして、先程首領の報告をしに行った樋口に彼は冷酷な言葉を浴びせたのだった。その言葉は樋口の胸に痼りを残すように重くのしかかる。


樋口が水を止めようと蛇口を捻った瞬間、首元に鋭利に光る短刀が当てられた。その一瞬の出来事に樋口は声を出す事も出来なかった。


「リハーサルはそのくらいにしておけ銀」


銀と呼ばれたマスクを付けた黒い人影はその言葉に短刀を樋口の首元から離した。前のめりに倒れ、手を手洗い場についた樋口は咳込む。


「黒蜥蜴か」


そこにいたの広津、立原、銀。部下である彼等が上司である樋口に刃を向けたとあれば、自分は用済みなのか。ポートマフィアのような組織では有り得ないことではない。下の者が上の者を蹴落とす為にその首を狙うのは多々ある。此処では上司と部下というのは立場の上下によって出来るものではないからだ。


畏怖と崇敬。


それがあるから部下は力を持つ上司に従うのだ。そして、力のない樋口はいつ首を掻き切られてもおかしくはなかった。


樋口は自身の手を握りしめる。ポートマフィアにいながら力のない自分が酷く惨めで恥ずかしかった。


『ちょっと、ここ女子トイレなんだけど?』


緊迫とした雰囲気を壊すように呑気な声が響く。その場にいた全員が声のした方に振り向けばそこには女子トイレの扉の前に立つルナがいた。いきなり現れた首領補佐に四人は手を後ろ手で組み頭を下げる。


「申し訳ありません。我々は直ぐに捌けますので」

『うーん、広津さんはセーフだけど、たっちーは入ってるからアウトね』

「どんなルールすか!つか、それなら銀もアウトだろ!」

『は?銀ちゃんはいいに決まってるでしょ』


立原を押し退けて手洗い場の前に立つルナ。ちなみに、ルナは立原のことを“たっちー”と呼んでいる。


樋口は緊張しながらもあまり話した事がないルナに視線を向ける。ルナはそんな樋口の視線を気にせず鏡の前で何かをし始めた。綺麗なアメジスト色の両目をパチパチと動かしたルナはそのまま指を右目に当てて__


「えっ……」


樋口は驚きのあまり一歩後退る。鏡越しに見たルナの瞳。先刻までアメジスト色の瞳だったのに振り返ったルナの瞳は左右違う色をしていた。左は先刻と同じアメジスト色だが、右目は異様だった。ルナは普段左目と同じアメジスト色のコンタクトで右目を隠しているのだ。血のように赤く、鋭い瞳孔を持つ瞳を。


『何?樋口ちゃん』

「い、いえ」


にこりと笑ったルナに樋口はそう答えるしかなかった。そして、樋口の中で菊池ルナという人物について聞いた噂の一つが確信に変わった瞬間だった。



“菊池ルナは呪われた右目をもつ者”



だが、樋口が知ったその噂の正体は菊池ルナという名の彼女が持つ幾多の噂のたった一つの噂にしか過ぎないのだった。











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