第八章 邂逅〜運命の一頁〜




「これはどうにもならないねぇ」



古び瓦礫が転がる診察所の一室に響いた声。


その声の主はつい一年前にポートマフィアの首領になった男、森鴎外である。着古した白衣を羽織り、首には聴診器を掛けて、適当に後ろに流した黒髪を掻き毟って溜息を吐いた。


書類束を隈ができた目で睨み付け乍ら呪いのように愚痴を零し、最終的にはこの仕事に向いてないのかなあ…と弱々しげに呟く始末。


「ねえ、どう思う?太宰君」


森は椅子を回し、薬品棚の前で医療用スツールに腰掛けている少年に問いかけた。大きすぎる黒背広を羽織り、額と手首に白い包帯を巻いているその少年の名は太宰治、齢15歳。


「あのね、森さん。お金がないとか部下からの信用が無いとか、そんなの最初からわかっていたことでしょ」

「酷いなぁ…。ところで何故君は高血圧と低血圧の薬を混ぜているのかね?」

「一緒に飲んだら楽に死ねるかなぁっと思って」

「死ねません!」


森が太宰の手から薬品瓶をふんだくれば、「やだやだ、死にたい!」と太宰は玩具を寝だる幼児のように両手をばたつかせた。その様子を呆れた瞳で見て、椅子に座り直して溜息を吐いた森。


「太宰君、君は私が先代より首領の座を継いだ時にその場にいたうちの一人、、、、、。つまりは遺言の証言者なのだよ。そう簡単に死なれたら困る」

「別に僕がいなくてもその子がいるでしょ」


太宰は森の机の側にいた少女を指差す。


先程からピクリとも動かずに飾り人形のように立っている少女。死神に見紛うような黒い布を纏っているが、その布は彼女の小柄な体には大きいのか襟が肩からずり落ちていて、白い肌が晒されていた。肩より上の短い髪は不思議な水浅葱色。だが、毛先だけは白銀に染まっている。その姿すら異端に見えるのに、何よりも異様なのは少女の瞳だ。アメジスト色の左目に、血のように赤い右目。オッドアイの双眼は光を灯さず、無表情で壁の一点を見据えている。


この人形のような少女の名は菊池ルナ、齢13歳。


森はルナに一瞬視線を寄こした後、再び太宰に向き直った。


「勿論ルナちゃんも大事な証人だ。私と君、そして彼女の三人で秘密作戦を実行したのだから」


それは、ポートマフィア先代首領の暗殺。


一年前、森が太宰とルナを共犯者として実行した作戦だ。手術刃で先代の喉を掻き切って殺し、病死と偽装した森。そして、遺言の捏造の為の証言者となったのが太宰とルナ。


「アテが外れたね」


突然、太宰が澄んだ声で云った。


「自殺未遂の患者を共犯者に選んだのは良い人選だったのに。一年経っても、こうして僕は生きている。おかげで不安の種は消えない儘だ」

「アテが外れてなんかない。私達三人で見事に作戦を遂行してみせたじゃあないか」

「作戦って云うのは暗殺と遺言捏造に関わった人間の口が封じられて初めて完了って云うんだ。その点、僕は共犯者としては適任だった。だって、誰も疑わないから。僕の証言で貴方が次の首領になった後、僕が動機不明の自殺を遂げたとしても」


冷たい太宰の瞳が森を見据えた。無言で視線を交わし合う森と太宰。微かに空気が震えた気がした。


「君に似た人を知っている」


沈黙を破るように云った森の言葉にきょとんとした表情を浮かべる太宰。そこにはもう怜悧な瞳はない。森は椅子を回して太宰から視線を離し、そうだ太宰君、と今思い出したと云う呑気な口調で話を替えた。


「君に一寸した調査を頼みたい。何、大した仕事じゃあない。危険もない」

「胡散臭」


森が太宰に頼んだ調査とは、最近流布されている横浜租界の近く、擂鉢街に現れたある人物の噂の真相の調査。銀の託宣と呼ばれる権限委譲書を差し出した森を見た太宰は「誰の噂?」と訊く。森は「中ててご覧」と笑みを深めた。


太宰は顎に手を添えて何かをぶつぶつと数秒呟いた後、成る程、と呟いて立ち上がり森の方へ歩み寄る。


「現れたのは先代の首領だね?」

「その通り。世の中には墓から起き上がってはならない人間が存在する」

「墓から起き上がってはならない人間、ね……」


森の言葉を反芻し乍ら視線だけを横に動かした太宰は先程からずっと動かないルナを見た。ルナは此方を一切向かない。太宰は暫くルナを見据えた後、溜息を吐き、ルナから視線を離した。そして、森が持っている銀の託宣を受け取る。


「これが君の初仕事だ。ポートマフィアへようこそ」


森のその言葉を無視してスタスタと扉に向かった太宰。しかし、ふと思い出したように扉の前で止まった。


「ねぇ、先刻云ってた……、僕に似てる人って誰?」

「私だよ」



少しだけ微笑んで答えた森。その表情にはどこか悲しみの色が混ざっている様に感じた。だが、それを気付かせない森は「私からもいいかね?」と言葉を続けた。


「何故、君は死にたい?」

「僕こそ聞きたいね。生きるなんて行為に何か本当に意味があると本気で思ってるの?」


暗い瞳の影を最後に残して太宰は診察所を出て行った。



暫く森は太宰が出て行った扉を眺めていた。この調査は太宰に適任だろう。彼は頭が切れるし屹度…、否、必ず情報を見つけてくる。


「でも、途中で自殺されちゃ困るなぁ。ねぇ、太宰君大丈夫かな?ルナちゃん」


自身の側に立っていた少女に眉を下げ乍ら話しかける森。その言葉に反応して壁の一点を見据えていたルナの瞳が動き、目線の先を森に移した。森は再び「どう思う?」とルナに問う。


『……簡単には…、死なない』


機械のような無機質な声。


主語も無く不明確な言葉だが、森はその言葉の意味を理解して頷いた。


「ふむ、確かにそうだね。君の云う通りだ」


森の質問に答え終えれば、目線を森から外し、再び前方にその空虚な瞳を向けたルナ。そんなルナに森は苦笑を浮かべた。



菊池ルナとは森鷗外が拾った少女だ。



彼女は生まれながらにして殺しの才能を持っていた。森が首領になってから一年の間、先代派による森鴎外の暗殺計画が幾度も実行させた時、ルナはその襲撃してきた者達全てを抹殺した。先代派の構成員は森に接触する事すらなく、幼いこの少女に一瞬で殺されたのだ。


太宰は先程、自分を共犯者に選んだのはアテが外れたと云った。だが、同じく共犯者である彼女はどうだろう。ルナは何事にも無関心であり乍ら森鷗外にだけは従順だった。だから、共犯者としては太宰よりも適任なのである。


太宰治と違って、菊池ルナは森鴎外を裏切らない。


そんな確信が森自身にはあった。



森は一度瞳を閉じて意味深な笑みを浮かべた後、窓の外に目を向ける。




空は何処までも青く広がる晴天だった。








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