第七章 快楽は毒なり薬なり
私は暗くて先が見えない場所を走っていた。
息を切らし乍ら動かす足は重くて、自分がちゃんと前に進んでいるのかも判らない。
ただ焦りと不安で心が押しつぶされそうで。
薄ぼんやりと見えた奥には鉄の扉。
硬く閉ざされているそこに手を伸ばして、その扉に触れた。
その瞬間、頑丈な筈の鉄鋼製の扉が砕け散る。
破片が舞う中、私は叫んだ。
____中也!
音にならない叫びが私の耳元だけで響く。
そして、目の前の光景を見た時、私の中でガラガラと音を立てて何かが崩れるのを感じた。
私の視界に映るのは二人の男女。
大きな胸を厭らしく揺らし乍ら喘ぐ女とその女を組み敷いて激しく腰を揺らす男。
女は久坂で、男は中也だった。
「あっ、中也さん、あっアッ、激しいっンッ」
「久坂ッ」
それは、中也が私以外の女を抱いている光景だった。
私の頬に冷たいものが伝う。
それが地面に落ちて溶けていく。
目の前が真っ暗になる。
私の頭を撫でた優しい手は、他の女を抱いていた。
私の名を呼ぶ声は、他の女の名を呟いた。
私を映すその瞳は、乱れる他の女を捉えていた。
私の心を蝕むこれは何なのだろう。
あの時とは違う。これは“怒り”じゃない。
これは…、この心が凍るように冷えるものは___。
嗚呼、そうか。
私は“悲しい”のだ。
辛くて、苦しくて、悲しい。
私の脳に響いていく女の淫らな声。
交わる二人の奥で、壊れた懐中時計が忘れ去られたように鈍い光を儚げに灯していた。
***
はっ、と目を見開き覚醒する。
息の仕方を忘れていたかのように自分自身に目を瞠った私は視線を彷徨わせる。中也の自室。私は椅子に座っていて、中也は静かに寝息を立ててベッドに横たわっていた。
そうだ……、
あの後、黒服の部下に解毒薬を届けて貰って、中也に解毒薬を打ち、そのまま中也が目を覚ますまで傍で看病していたんだった。
それで、寝てしまったのか……。
『はあ、やな夢…』
目元を片手で覆って俯く。
夢で魘されるなんて然う然う無い事なのに。
然も吐き気がする程最悪な夢。
現実では中也は久坂を抱かなかっなじゃないか。
それに久坂はもういない。
あれは夢。夢だ。夢。
閉じていた目を開けて、眠っている中也を見る。徐に椅子から立ち上がって手を伸ばした私は中也の頰に触れた。
……うん、大丈夫。
「寝込みを襲う気か?」
突然の声に吃驚して飛び退いた私の手をパシッと掴んだ手。視線を落とせば目を開けた中也が此方を見て笑みを浮かべていた。
『お、起きてたの!?』
「厳密に云ァ、手前が俺に触れた瞬間にな」
ほんと今先刻らしい。
そのまま上体を起こした中也に『体は平気?』と訊けば、「嗚呼」と答えたのでホッと息を吐く。如何やらちゃんと解毒薬が効いたらしい。
「悪かったな、色々迷惑掛けちまって。五代幹部ともあろう者が情け無ェ…」
『迷惑だなんて思ってないよ。中也が無事ならそれで十分』
私は黒外套からある物を取り出す。私の掌にあるそれを見て中也は目を瞠った後、悲しそうに瞳を揺らした。
「悪ィ…、折角手前がくれたモンなのにな」
中也が私の手から取り、指で撫でたそれは私が中也に
『ううん、気にしないで』
「…此奴は本当にラッキーアイテムだったぜ」
『え…?』
「朝の占いを見て此奴をくれたンだろ?
……あの時、理性が吹き飛びそうになる時、此奴が俺を繋ぎ止めてくれた。俺は何時も手前に救われてばかりだ。ありがとな、ルナ」
私を見詰めて笑った中也。
私の贈り物が中也の役に立った。
中也を守ってくれた。
溢れ出す想いに胸が張り裂けそうだ。苦しいけど、でも全然厭な気持ちじゃない。でも、それを抑える方法を知らなくて私は懐中時計を持つ中也の手を両手で握り締めた。
『中也を救えるなら、守れるなら、私は何だってするよ。たとえ何を敵に回しても。それが死神だろうが、悪魔だろうが、何だろうが』
云い終わると同時に引き寄せられた体。そのまま片腕で抱き締められれば心臓が跳ねて鼓動が疾くなる。
『ちゅ、中也?』
「それじゃあ俺の気が済まねェ」
耳元で囁かれた低い声が耳を擽る。中也が云った意味を理解出来ず首を傾げれば中也は私をゆっくりと離して私の瞳をジッと見据えた。
「男が惚れた女に守って貰ってばっかで如何すんだ。手前が俺の為に死神や悪魔に喧嘩売ろうってんなら、俺が手前より先に其奴等纏めてぶっ殺す。手前が俺を守ろうとする様に、俺も手前を守る為なら何を敵に回したって構わねェ。___そんだけ、俺には手前だけなンだよ」
嗚呼、狡い。
そんな事云われたら先刻の夢のことなんて忘れちゃうじゃない。
背中に手を回して抱き締め返せば、中也の心臓の音も聞こえて来る。私と中也の鼓動が共鳴して一つの音になったかのようだ。暫く抱き合った後、肩から顔を離した私は中也の青い瞳と視線が合う。何方からともなく顔を近づけて、目を閉じれば、二つの唇が重なった。
触れるだけの優しいキス。
惜しむようにそっと離れた唇はとても熱い。
キラキラと輝きを放ち、一日の始まりを伝えに来た朝日の眩しさを口実に、私は赤くなった顔を俯かせる。触れただけのキスなのに何故か恥ずかしくて、中也の顔が上手く見れなかった。
「___ルナ」
名前を呼ばれて視線を中也に向ける。
ズイッとあまりにも近くにあった顔に驚いたが、それよりも気になったのが中也の表情。その顔のまま、ところでよ、と甘い雰囲気をぶち壊した中也は私を疑いの瞳で見据えてくる。
「手前、蓬莱健介の囮役になった時、何もされてねェよな?」
私は固まった。ここでその話?と思う訳で無く、一瞬誰だっけ?と首を傾げてしまうが、思い出した。結局は黒幕は久坂葉子だったし……。「奴は殺す価値もないが生かしておく理由もない」と、龍ちゃんが切り刻んだって云っていたかな。
あの男の生存は如何でもいいとその話を蹴った中也は再度「何もされてねェよな!?」と私に詰め寄った。私はそろ〜っと視線を逸らす。
『特に大した事は…』
「あ"ァ?」
『……その、一寸だけ、押し倒されて、胸を触られたり?』
ピキッと中也の何かが切れたのが判った。
あ、不味い…。と思ったらもう後の祭りと云うもの。ガッと手首を掴まれて、反転した私の背中はベッドに付いており、視界には不機嫌な顔の中也と天井。驚く暇も与えない速さで手早く私の服に手を掛けた中也は釦を外し出した。
『ちょ、ちょ、中也!療養中!安静に!』
「もう治った」
『それでも駄目だってば!』
「他の男に触らしといて俺は駄目なのかよ」
『うっ…』
そんな捨てられた仔犬のような声で云われても。
何だ何だ?私が悪いのか?私が悪者か!?
中也、幹部でしょ!?
そんな威厳の欠片もない可愛さでいいの!?
『…っ、許す!』
はあ、つくづく私も莫迦かも……。
「んじゃ、遠慮なく」
声のトーンを変えた中也はそう云って下着を取り払い晒された私の胸に手を滑らせる。変な声が喉から溢れるのを抑えて私は先刻のは演技だなと中也を睨み付けた。
『中也!まだDOPの効果が残ってるのね!?今すぐ追加の解毒薬を持ってくる!からストップ!!』
「残ってねェ。消毒だ」
私の胸に口付けた中也。そんな言葉を云われて一気に体の熱が上がった私はもう抵抗する手段を持ち合わせていない。
「他にどこ触られた?全部消毒済むまで俺は止めねェぜ、ルナ」
『…もう、莫迦中也』
熱を帯びる瞳から視線を晒して悪態を吐いた。
消毒なんてとっくに済んでいるのに。
でも、もう消毒されたけど、何回されたっていい?
それなら、今度は中也が私の薬になってね。
私の体は毒が効かないけれど、
中也と云う薬には物凄く効いちゃうのだから。
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