第七章 快楽は毒なり薬なり
血の臭いがこびり付いた地下。
奥にあるのは特別収監房。
その場所へと続く階段をルナは一人で下りて行く。
数多の悲鳴と絶望を吸い込んだ血塗られた牢獄。
そこに
そして、この女もそのうちの一人。
ルナは前を見据えた。ルナの視線の先には監房処の見張り番の黒服が背筋を伸ばして立つ奥に壁から垂れ下がる鎖に繋がれた女、久坂葉子がいた。俯いている為黒い前髪に隠れた顔は見えない。情報を全て吐いたと云っていたが、目立った外傷がないところを見ると恐らく拷問される前に自白したのだろう。
ルナは久坂の目の前に立った。ゆっくりと視線を上げた久坂がルナを見て、微かに指を動かした。
『私が云った事覚えてるよね?』
久坂の脳裏に掠めたのはあの時のルナの言葉と殺気。
『アンタには死よりも辛い地獄を見て貰う。
____簡単に死ねると思うな』
久坂の体中が恐怖に染まった。震える喉を魚のように動かして、何とか言葉を発する。
「っ…ほ、欲しい情報は、凡て話したわ」
『いーやまだだね。私はアンタに訊きたい事が山の様にある』
短刀を取り出して、それを空中に投げたりと手で弄ぶルナを見て青い顔で視線を下へと映した久坂。無意識に逃げようとした体を許さない鎖が虚しく響いた。
『先ずは…、如何して中也を狙ったのか訊こうか』
中也の部下に付いたから?
一番、手取り疾かったから?
それとも久坂の
そんな単純な理由だけではないと、そう云う勘がルナにはあった。唯の勘だと云われればそうだが、ルナ自身のその勘が確信に近い予測だと思わずにはいられなかったのだ。
「……あの後、中也さんは」
問いには答えずにそう云った久坂に青筋を浮かべたルナは力任せに足を叩きつけ、地面を震わした。パラっと天井から欠片が落ちる。
『私を抱いて私のナカに全部吐き出したからもう安静にしてるけど何かァ!?』
仁王立ちして恥ずかしげも無く叫んだルナ。
因みに“私”を強調した。
そんな叫びを聞いて見張りの男達は顔を赤くさせ乍ら気まずそうに俯く。上司のそう云った話を聞く事を遠慮している部下にとっては尚更だ。
「……そう、矢っ張り…、そうなのね」
何かを納得して譫言のように呟く久坂をルナは無表情に見据えた。諦めの色を浮かべる久坂の表情。何を諦めたのか。生か、それとも別のものか。何方にせよルナには如何でもいい事だ。拷問する相手に、情けは不要なのだから。
ルナは振り返って『ねぇそこのアンタ達』 と見張りの男達に声を掛ける。直様返事をした見張りは背後で手を組んで敬礼した。
『此処はもういいから、出てっていいよ。後は私一人でするから』
「し、しかし」
『明日から美味しくご飯を食べられなくてもいいなら、居てもいいけど?』
青白い顔をした見張りの男達はルナに頭を下げた後、逃げるように出て行った。そんな彼等の背中を見送り、却説…とルナは久坂に向き直る。
ルナの雰囲気は変わっていた。それは静かな殺気。久坂が初めてルナの怒りに触れた時に感じた禍々しい殺気とは違う。目の前にいるのはまさに地獄の使者だった。
『最初は何処からいこうか?』
一歩近づいたルナに久坂はひっと声を上げて後退る。だが、背後は壁、手首には鎖。逃げ場なんて最初からない。ガクガクと震える脚に力は入らず腰を抜かした久坂は鎖に吊るされた儘目先に立ったルナを恐怖の色で染まった瞳の中に映した。
『中也を触ったその手?』
刃の先が久坂の手に向けられる。
『それとも、中也の声を聞いたその耳?』
刃の先が久坂の耳に向けられる。
『それとも、中也を映していたその目玉?』
刃の先が久坂の目に向けられる。
『ねぇ、どれがいいと思う?
_____イヴ』
ルナの足元で黒い影が揺れた。
そこから覗く血のような赤い瞳。
それを見た瞬間、久坂は悟った。
それは、地獄の門が開かれた瞬間なのだと。
***
霞む視界の中、弱い自身の心臓の鼓動を聴き乍ら、掠れた声で私は私の、久坂葉子の生い立ちを目の前の悪魔に語った。
私の父は研究熱心な人だった。
ポートマフィア傘下の研究者として働いた父は凡ゆる薬学を勉強し、薬品の研究を続けた。
毎日毎日、研究研究。
数年ぶりに自宅に帰ってきた時でさえ、自室に篭ってそればかり。
妻と一人の娘にさえ見向きもしないで。
幼い頃、私は逢えない時間が多い父に構って欲しくて仕方がなかった。
だから、幼い乍らに考え、何とか父に構って貰おうとした私が始めたのは父と同じ薬学の勉強だった。
薬の事を学び、いつか父と会話を出来るくらい知識を身につければ、父は振り向いてくれると、私達家族の元に帰って来てくれると、信じていた。
だけど、それでも父は私に見向きもしなかった。
それどころか、重い病を患った母にも無関心で研究に没頭していた。
私は久し振りに逢った父にお願いした。
母の病を治す薬を使って欲しい、と。
当時、12歳だった私が初めて父親にしたお願いだった。
なのに、父は、あの男は私と母に向かって無情な言葉を投げつけた。
〝そんなものよりポートマフィア様のご依頼の品が先だ!この邪魔蟲共め!!〟
あの男は自分の名誉の為に私達を捨てた。
私を見下ろす冷たい目。
そこにはたった一人の娘への愛情が一欠片もなかった。
それ以来、一度たりとも父が私達の元に帰ってくる事はなかった。母が死んだ時でさえ。
ある日、私は家にあった父の薬学の資料を読んだ。
幼いながらも目で追った難しい学書。
だが、簡単だった。
それが初めて私が作った薬。
私は初めてそれを父への贈り物にした。
父はそれを受け取った。
私が心を込めてつくった
泡を吹いて死んだ父を見て、私の心に残ったのは悲しみでも、寂しさでもない。
歓喜だった。
自分が作った薬剤はこんなにも簡単に人体に影響するのか。父が家族を捨てるまで没頭した事も頷けた。
それから私は父と同じように研究者となった。
日本から離れて、欧州へ。
そこで始めたのは薬の研究。
表向きでは凡ゆる病の治療薬を作る秀才研究者。
もう子供ではなかった私にも恋人という者が何人も出来た。一度、私と一線を越えれば私を見る瞳が一変する男達に父の面影を重ねていた。
愛情とは何なのだろう。
公園で遊ぶ親子。
手を繋ぐ恋人。
それを見る度に私の中で愛情というものが歪んだ感情になるのを感じていた。
そして、また新しく恋人が出来た。欧州で生まれたけれど、私と同じ日本人らしい。彼は付き合って一週間もしないうちに私を抱いた。
〝 快楽を無償で手に入れる事が出来たらいいな。いつかそんな夢のような薬を作ってくれないか?〟
腰を振り乍ら快感を噛み締める男は冗談でそんな言葉を云ったのだろう。だが、その言葉を聞いた瞬間私の中である考えが過ぎる。
私と違って、世の中には恋仲と幸せそうに愛し合う男女が存在する。だけど、若し人が快楽への急激な渇望を抱いたら?恋人じゃなくとも、そこに愛情がなくとも良いのでは?
私はそれを証明する為にその恋人とは分かれて研究に没頭し始めた。
そして、出来上がったのがDOP。
快楽の夢を与える私の最高作品。
DOPが欧州で広まった時は最高だった。
凡ゆる人が欲望に負けた。
瞬く間に黒社会の住人にとってDOPは喉から手が出る程欲しい薬剤となった。
快楽を求める人々の欲は誰であろうと素直だ。
私は産まれ備わった自分の才能を最大限活かした事で私自身の情報が世間に出回る事はなく、隠し通せた。そして、私は半年前まで欧州で過ごしていたのだ。
しかし、突然私の目の前にかつての恋人が現れた。彼は私に云った。“DOPを作ったのは君だろう?”と。私は頷いた。そして、私は彼の口封じの為、手に入るその金を全部やる代わりに、次の計画に参加してほしいと頼んだ。DOPを売ると手に入る大金。それに目が眩んだ彼は二つ返事で了承した。
私の次の計画。
私の生まれ故郷である横浜の地。
そこで新開発したDOPの為の被験体を見つけること。
そして、私は横浜に来た。