第七章 快楽は毒なり薬なり




シン……と静まり返った部屋。


この部屋は先刻まで荒い呼吸と淫乱な喘ぎ声が響いていたのだが、今、部屋に残るのは情事の特有な香りと、小さな寝息だけ。



乱れた寝台の上。


うつ伏せの状態でルナの丸い胸を枕にし乍ら目を瞑って眠っている中也。


ルナは少し高めの枕に頭を預けて、母親の腕の中にいる子供のように眠る中也の頭を抱き締め乍ら髪を撫で続けていた。


数時間にも及んで行ったセックス。ルナのナカに何度も欲を吐き出した中也は力尽きたようにルナの上に倒れ込んだ。既にルナのナカは限界まで精液で満たされていたが、ルナは中也が全て吐き出すまで付き添い、最終的には繋がったまま意識を手放した中也を優しく抱き締め返したのだった。



今では呼吸は正常で、異常なまでに熱を帯びていた体は何時もの情事後の体温に戻っている。


恐らく、快楽を手に入れて欲情と云う苦しみからは解放された筈。後は中毒症状が起こるかどうかだ。それを取り除くのは本物の解毒薬ではなければならない。



汗で濡れた赭色の髪を撫で乍ら何かを黙考しているルナ。瞳は底の見えない暗さを帯びていて、そこに垣間見える感情が睨み付けるように何かを見据えていた。


それを遮るように鳴ったのはルナの携帯。着信を伝えるその音に目を向ければ、直ぐにそれは切れた。確認しなくとも誰から何て瞬時に理解できる。何時くるかと思っていたところだ。しかも、まるで計ったかのようなタイミング。心底嫌気が差した。


ルナはもう一度中也に視線を落とす。
細めた瞳に宿るものは“愛おしい”と云う感情。


体を捩り、何とか中也の下から抜け出したルナは眠る中也に肩までシーツを掛けてやる。立ち上がった瞬間、秘部からどろりと白濁とした液が漏れ出たのを感じたルナは顔を赤く染めた。


本当に激しかった。何度もイッた躰に追い討ちを掛けるように刺激を与えられて、奥を突かれ続けた。それでも、私を求め続ける中也が愛おしくて堪らなかった。私のナカに中也のものが注ぎ込まれるあの熱も中也が私の名を呼ぶ声も鮮明に思い出せる程、私の躰に残っている。


屹度、今、物凄くえっちな顔をしている。


首をブンブンと左右に振った後、シャワーを浴びた方が良さそうだと自身の体を見て思ったので中也の部屋にあるシャワーを借りる事にした。


汗と体中に付いた体液を洗い流して、シャワー室を出る。予め中也の部屋に置いてあった下着とワンピースを着た。寝台にある場所に戻れば、まだ眠っている中也。ゆっくりと近付いて顔を覗き込んだ。



『行ってくるね、中也。ゆっくり休んでいて』


ルナは口元に優しい笑みを浮かべて、中也の頬に口付けた。そして、床に落ちていた自身の黒外套とマフラーを拾い上げる。取り出した錠剤を口に含み、静かに部屋を後にした。




*


銃で武装した屈強な見張りが扉の前に立っていた。そんな男達の額に冷や汗が浮かぶ原因はその男達の前に立つ小柄な女。その圧に押され乍ら男達は無言でその扉を開いた。


「やあ、待っていたよ」


執務机に肘を乗せて手を組む森。
その口元は弧を描いて、無表情に部屋の中へと入ってきたルナを真っ直ぐ見据えている。


「中也君の容体は如何かね?」

『…今は落ち着いてる』


答えたルナの表情は無表情だ。「それは善かった」と笑みを深めた森をルナは黒外套の袖に隠れた拳を握り締めて睨み付けた。


『首領、貴方は黒幕の正体に気付いていた。なのに、敢えて協力者という形であの女を組織に入れ、中也の部下に付かせた。……中也がこうなる事を判っていながら』

「怒っているのかね?」


眉間に力を入れて森を睨むオッドアイの鋭い瞳。森の云ったように今、ルナの中で暴れ回る感情は、“怒り”なのかもしれない。


『五大幹部の中也を危険に晒してまで企んでいた事は何?私に命令を出さなかったのもそれと関係があるんでしょ』

「命の危険はないと判断しての事だが?」

『……DOPは致死毒よ』

「それは回数を重ねればの話だ」

『そう云う問題じゃないッ!』


怒涛のような叫び声。
爪が喰い込んだ掌から血が滲んだ。


首領の云う通り、今回の任務で命の危険はなかったのかもしれない。首領はあの女の陰謀に気付いていたからそう判断したのだろう。そして、それは矢張り正しかった。だが、何も聞かされていなかった私は黒幕が中也と共に行動していると判った時、どうしようもない不安に襲われた。あの女が中也を見詰めていた瞳。あれは中也の命を狙っていたのではないことに気付いた。そこにあったのは歪んだ愛情だ。あの女は私から無理矢理中也を奪おうとした。


若しあの時、中也があの女を抱いていたら……。


その光景を私があの場で見てしまったら。


私はどうしていたのだろう。



「君を試したのだよ」


唐突なその言葉に我に返されたルナは森を見据える。森の口元には先程の笑みはなかった。


「君は私の“命令”には決して逆らわない。どんな任務も完璧に遂行し、私の為だけに動いてきた。そこには一度たりとも君自身の意思はない」


執務椅子から立ち上がり、遮断されていた壁を開け、横浜の街を一望できる窓の前に立った森を目だけで追うルナは黙って見据える。


「だから、今回私は君に明確な指示を出さなかった。黒幕の正体を自身の手で掴み取った君はその後、如何するのか…。まあ、以前の君の行動なら容易に予想がつくがね」


目を閉じて、昔のルナの姿を思い出す森。


そう、昔の君なら……。


何もしなかった、、、、、、、だろう。敵が逃げようが、敵が誰を殺そうが。私の命令があるまで君は何もしない」



その通りだった。


昔の私は何もかも自分で判断が出来なかった。
命令された事しかしない……、唯の人形。
私には意思がなく、私を唯一動かす事ができるのは首領の命令。


感情を持たない人形。
それが、私。


「だが、今の君はそうじゃない」


ルナは無意識に俯いていた顔を上げて、森を見た。森も此方を向いていた。そこには、胡散臭い笑みでもなくて、何処か優しささえ感じる笑み。


「だからこそ、試したのだよ。今の君は私の命令がない時、何を考え、どう行動するのか。……否、試さなくとも本当は判っていたがね。ルナちゃん、君が唯一自分の意思だけで動くのは、全て中也君が関わるときだけなのだよ」

『中也……?』

「そう。だが、中也君が危険に晒される場合は、敵味方関係なしに周りの者を殺してしまう。そんな君の行動は、少々考えものだがね」


苦笑した森。ルナは疑いの目で森をジッと見据えた後、諦めたように溜息を吐いた。


つまり、全てはその為か……。
全く持って油断ならない人だ。


「今回はよく耐えたね」

『判っていて龍ちゃんを配置させた癖によく云うよ』


肩を竦めたルナにニコリと笑顔を向けた森。結局は私も中也も、そしてあの女も全ては首領の掌の上で踊っていただけか……。


『でも、首領。あの女の拷問はさせてね』

「知りたい情報はもう殆ど拷問班が訊き出したよ?」

『約束したもの。死よりも恐ろしい地獄を見せてあげるって。あの女ァ、中也に手を出した罪は並大抵な拷問じゃ足りないって事思い知らせてやる』


ごきっと手首を鳴らすルナの顔はまるで犯罪者だ。否、マフィアだから犯罪者だけれども……。


流石の森もこの後の久坂に同情せざるを得ない。ルナの拷問は知る人ぞ知る残虐さを詰め込んだものだ。あの歴代最年少幹部であった太宰さえ認める拷問の手口を見れば一ヶ月はまともに食事が喉を通らなくなる。拷問される方も死んだ方がマシだと思うだろう。


拷問が終われば、処刑。
それは免れない。
遅かれ早かれ、久坂の命は朝日が登る迄が最後だろう。



『そうだ解毒薬は如何だったの?』

「彼女が泊まってたホテルに隠してあったよ。もう既に部下に回収させているから、後で君に渡そう」


判ったお願い、と片手を振って扉に向かうルナを見据えて森は「彼女の父親は何年も前に亡くっている」と何の脈絡もない話でルナを呼び止めた。ルナは扉に掛けていた手を止めて、再び森に振り返る。森は窓の外を眺めたまま続けた。


『そう云えばそんな事云ってたような…』

「彼がポートマフィアに尽くしていたのはまだ先代の頃だった。一介の専属医であった私から見ても研究熱心な男だったよ。そんな彼が突然死んだと報せが入った。しかし、先代の時代は暴政。誰が死のうと可笑しな事ではなかった。だが、一つだけ解った事があった。それは死因だ」

『死因…?』

「毒殺だったのだよ」


森のその言葉にルナは口を噤んだ。
何となく森が云っている事が判った。
酷く遠回しで、伝わり難いものだが。


『どんな動機であれ……、私は中也を傷付けた相手に情けを掛ける心算はない』

「判っているさ」


ふっ、と笑った森を最後にルナは執務室の扉を開けてそのまま出て行った。



執務室に一人残った森は背中で手を組み乍ら歩き出し、執務机に置かれた写真立てを見詰めた。


ピースして笑顔を向けるエリスに腕を組まれている少女。今よりも短い水浅葱色の毛先だけが白銀に染まった幻想的な髪。オッドアイの瞳は何処まで暗く、無表情で立っている姿は人形のようだった。



16/19ページ
いいね!