第七章 快楽は毒なり薬なり
体を支える手さえ力が入らなくなる。
中也は荒い呼吸を繰り返し乍ら何とか木箱に体を預け、視線だけを横に動かした。そこには硬く閉ざされた扉。此処は窓もない地下。おまけに鉄の扉で閉ざされた空間。完全に密閉状態だ。
耳に付けている通信機は先程から雑音が響き機能していない。それは恐らく久坂が白衣のポケットに隠し持っている通信阻害機の仕業だろう。
軽やかなヒールの音を響かせ乍ら久坂は中也の傍に屈み込む。愉しそうに笑みを浮かべる久坂を睨み付けて中也は「どう云う心算だ」と再度久坂に問う。
先程よりは薄まったが未だに空気中に漂う白霧。体に異常が出たのはこのガスが原因である事は一目瞭然。不可解なのは症状の違いだ。異常な程に中也の体が何かを求めている。それはまさに媚薬を飲んだ時の症状に近い。
なのに目の前の女は如何だ?体に何の変化も見られない。同じ空間にいて急なこの襲撃に備えていなければ今の中也と同じ症状になる筈だ。でなければ、このガスに備えていたと云う事になる。
「如何やら成功したようです」
嬉しそうに笑みを浮かべた久坂に中也は怪訝な瞳を向ける。久坂は今迄見せた事もない無邪気な笑顔で立ち上がり、両手を広げて大きく息を吸い込んで、吐き出した。まるで空気の良い場所で深呼吸をする様に天井を仰いだ。
「やっと完成した。気体状のDOPなら効率よく人体に影響させる事が出来る。それは皮膚から染み込む最新の麻薬!」
「成る程、な。手前、が…黒幕か……」
それが目の前の女だとしたら納得できる。
そして、もう一つ判った事。
それはこのガスの正体がDOPであった事だ。
「その通りですよ、中原幹部」
両手を広げながら振り返った久坂は笑みを消さない儘、再びゆっくり中也に近づいた。
「貴方と出逢って、貴方の部下として過ごすうちに私は決めたのです。貴方を新たなDOPの被験体にしようって」
力が入らず異能力さえ上手く扱えない中也の体を押し倒して久坂は中也の上に馬乗りになる。耳に掛けられた髪が一束垂れるとそこから女の香りが鼻を擽った。自分の意思とは関係なしに勝手に体がそれを欲する。
「貴方は、本当に可愛い人」
唐突に久坂は中也の上で白衣を脱いだ。そして、何の躊躇いも見せぬ儘釦を外して下着姿になる。中也の目の前にたわわな胸が晒される。欲情が昂る今の中也に女の裸体は誘惑そのもの。それを判っていて久坂は笑みを深める。
「中原幹部、否、中也さん。私を抱いて下さい。そして、獣のように快楽を求めて?そうすれば、体は楽になる筈。さあ、疾く」
中也の手を取って自分の胸を握らせた久坂。手から伝わる柔らかさが熱に変わり一気に中也を欲情させた。しかし、最後の理性を繋ぎ止めて久坂を突き飛ばした中也。
「はあっ、はあっ」
それでも熱に魘されたように頭は朦々とする。
今直ぐにでも女を抱いて、欲望を吐き出したい。この苦しみから解放されるなら、一層のこと目の前のこの女を抱いて楽になってしまおうか?
そんな考えが俺の頭を掠めた時、先程久坂を突き飛ばした同時に胸ポケットから床に落ちた物が目に入った。
暗くても光を放つ金色の懐中時計。
そして、その開かれた蓋の裏に刻まれた文字。
“愛しい貴方の日々が無事でありますように”
『だって、折角贈り物するなら渡す迄秘密にしたいじゃん』
頭にルナの笑顔が浮かんだ。
そうだ…、ルナはあの日、テレビに映る占いをジッと見ていた。俺の星座がビリだと揶揄っていたが、その後に発表されたラッキーアイテムをルナは聞き漏らさないようにしていた。そんな彼奴が思う事なんて考えれば判る事だ。
それなのに、俺は……。
力の入らない手で床に落ちた懐中時計に手を伸ばす。
俺は糞野郎だ。
一瞬でも他の女でもいいと考えた自分自身を殴りたい。
俺がこの手で抱きたい女は、
「ルナ、手前だけだ」
伸ばした手が懐中時計のチェーンに触れた。
その瞬間、懐中時計がバキッと音を立てて高いヒールの靴に踏み潰された。
「この期に及んでまだあの女の事ですか?中也さん」
冷たい瞳で中也を見下ろす久坂。呆れを含んだその瞳を動かして割れた懐中時計を見据えた久坂はそれを道端に転がる小石を蹴るように払った。
「てっめぇ…!」
「私には判りません。貴方の好みは気品のある女性なのでしょう?なのに何故あんな子供っぽい女を…」
久坂をそこで言葉を止めて床に脱ぎ捨てた白衣のポケットからあるものを取り出す。それは何かの液体が入った注射器。それを見た瞬間、中也の脳が警告信号を出した。だが、それとは反して思うように動かない身体。ゆっくりと近づいてくる久坂は動けない中也の手首を掴んでニンマリと笑った。
「お察しの通りこれはDOPですよ。さあ、快楽の夢の続きをどうぞ」
針が手首に刺され、血管の中にドロリとした液体が流れ込むのを感じた。
**
ルナは暗い地下を駆けていた。
疾く、もっと疾く、と自身の走る脚に命令を送り乍ら全速力で駆け抜ける。
黒幕は、久坂葉子。
ルナはそれを確信した。
嘗てDOPの被害は欧州で記録されている。そして、秀才の研究者である彼女が半年前まで欧州で薬の研究に携わっていた。それが偶然であるものか。薬とは名ばかりの毒。人の快楽を毒の材料に死へと追いやる麻薬。
何故もっと疾くに気付かなかったのか。
否、気付ける筈がなかった。
私は嫉妬に駆られて中也の傍にいなかったのだから。
嫉妬の情に遮られて的確な判断が出来ていなかったのだから。
けど、あの時、中也を見詰めていたあの瞳が途轍も無く不快だと感じた時に直ぐに行動出来ていれば。
拳を握り締めたルナの前方に固く閉じられた扉が見えた。ルナは速度をさらに上げてそこに辿り着く。暗証番号式の扉。その解除鍵がエラーになっている。その鉄の扉を叩くがビクともしない。流石のルナでも中也みたいに鉄を叩き割るほどの力はないのだから。
だが、破る方法が無い訳ではない。
『イヴ、この扉を壊して』
ルナの言葉に応えるようにルナの背後から現れた黒い影。そこから巨大な獣の腕が飛び出して、鉄の扉をいとも簡単に突き破った。
轟音を立て乍ら破壊された扉。
大きく開いた穴から中が窺えた。
ルナはその部屋の中の光景を見た瞬間、一度だけ心臓が大きく鳴ったのが耳元に感じた。だが、その後は何も聞こえなくなった。
見開いた目に映るそれに呼吸も心臓の音も、他の音も全てこの世界から消えたようだった。
腕から血を流す中也の上に跨がる下着姿の久坂。
ルナの中で何かがプツンっと音を立てて切れた。
驚いた目で此方を見ている久坂がいきなり吹き飛んだ。ルナが立っていた場所に既にルナの姿はない。久坂と中也がいた数米先の壁に背中を打ち付けて苦痛の声を上げる久坂の首にルナの爪が食い込んだ。
「う、くっ……な、」
瞬間移動とも云える速度で移動したルナに驚きの声を上げる暇もない儘、首を握られている久坂。呼吸を許されない首締めをされる久坂の瞳にルナの顔が映った。それを見た時、久坂は今迄感じた事ない程の殺気に当てられて、恐怖に心臓を握り締められる。オッドアイの瞳は絶対零度の冷たさで、何も光を宿していない底無しの闇。
『お前、中也に何した?』
首を締める手に力が込められる。そのルナの手は久坂に答えさせる心算はない。もう目の前の生物を殺す事しか頭になかった。
ルナは懐から短刀を取り出して、それを久坂の心臓目掛けて振り下ろした。
目を固く瞑った久坂。だが、痛みが何もこない事に疑問を浮かべて瞳を開ける。短刀が久坂の心臓を貫かなかったのは短刀を握るルナの手首に黒布が巻き付いていたからだ。それは赤黒い光を纏い乍らルナの手を止めていた。
穴が空いた入口には黒い人影。ケホッ、ケホッと咳き込む口元を片手で覆い、そこに立っていたのは芥川だった。彼はルナ達が潜入中、外で待機していたのだが、無線機から聞こえた「犯人は蓬莱健介じゃない。黒幕は別にいる」と云う珍しく焦ったルナの声を聞いてルナのイヤリングの発信器の周波を辿ってルナを追って来たのだ。
「ルナさん、其奴が真の黒幕であるならば最善は生捕り。この場で殺すのは惜しいかと」
『コイツは私が此処で殺す。それ以外の意見は認めない。引っ込んでて』
それでも邪魔するならアンタも容赦しない、そう云って芥川を殺気を含ませて睨むルナ。流石の芥川もルナの殺気に触れて冷や汗が伝うのを感じた。
「(何て禍々しい殺気だ。この僕さえ足が竦むとはな)」
今のルナは何を云っても止まらないだろう。だが、芥川が首領から貰った作戦書には黒幕は生け捕りと書かれていた。蓬莱健介ではなく、黒幕と記されていた事に目を通した時は不審に思ったが、こう云う事だったのかと今では納得出来る。
首領の命令は絶対。
たとえ、ルナと交戦する事になっても遂行しなくてはならない。勝率は半分以下。ルナが本気で芥川を殺しにかかれば、更に勝率はその半分以下になるだろう。ほぼ0に等しいと云ってもいい。
芥川が外套から手を出して戦闘態勢に入ろうと構えた。それを無表情に見据えるルナ。オッドアイの瞳に囚われると死が間近に迫るとはこの事かと芥川は息を呑んだ。殺気を充満させた空気が辺りを包む。
「手前、ら…、やめろ」
突如、その場に響いた声。
ルナは目を瞠って声が発した方へと視線を向けた。その瞳には先程の殺気は一切含まれていない。
血が流れる右腕を抑えて荒い呼吸を繰り返す中也は途切れ途切れに言葉を続けた。
「ルナ…、俺は、平気だ」
沸騰する体の苦しみを感じ乍も無理に笑みを浮かべた中也を見てルナは唇を噛み締めた。口内に血が滲み、酷くやるせない味がした。
ルナは久坂の首から手を離す。ルナの爪痕を残した首を押さえ乍ら烈しく咳き込む久坂に背を向けて、『この女は生け捕りにする。特別収監房にぶち込んで置いて』と指示を出したルナに芥川は「承知」と頭を下げた。
中也に駆け寄ったルナは荒い呼吸を繰り返す中也の背中を摩って、中也の状態を見る。
目立った傷は右腕。袖で隠れていてよく見えないが、血の量で肉が抉れている事が判る。
あの女がやったのだろうか?
そう考えたがルナは右腕を押さえる中也の左指が真っ赤に染まっている事に気付いた。それは左の指から出ている血ではない。恐らく右腕の……。
『中也、その右腕。まさか自分で…』
「はっ…、情けねェ、だろ。こうでもしなきゃ、理性が、吹っ飛ぶ」
乾いた笑いを溢した中也に「無理して喋っちゃ駄目」とルナは中也の体を支えようとした。だが、その肩を押し返された。悲しみに瞳を揺らすルナの瞳を見て罪悪感に呑まれそうになるも、中也は再び自身の右腕を左手の爪で抉り乍らルナと距離を取る。
「DOPを盛られちまった。悪ィが暫く近付かないでくれ……、無理矢理犯しちまう」
歯を食いしばり左手に力を込める中也。その表情は本当に苦しそうで見ている此方まで苦しくなる。
何も云わずに立ち上がったルナは黒蜥蜴が来たの視界に捉えて、「中也を拠点まで運んであげて」と一言告げる。立原が中也の体を支え乍ら駆け足に去って行く姿を見送った。
続いて芥川に拘束された儘部屋を出ていく久坂の背中を睨み付ける。その怜悧な視線に気付いた久坂が恐る恐ると振り返えれば、瞳には殺気を放つルナの姿が映った。
『アンタには死よりも辛い地獄を見て貰う。
____簡単に死ねると思うな』
乾いた空気が抜ける喉を震えさせ、絶望した表情で俯く久坂は生気を失った抜け殻のように芥川に連れられてその部屋を後にした。
ルナはその背中が見えなくなる迄睨みつけた後、近くにあった木箱を力任せに蹴り飛ばす。胸の中に溜まった激情を晴らすかのように。
ルナが蹴り飛ばした木箱の中から飛び出した小袋が床にばら撒かれる。その様子を無表情で見据えたルナはふと床に幾つか物が転がっている事に気付いた。
一つは注射器。
恐らく、DOPが入っていた物だろう。胸糞悪いとそれを踏みつけた。
次に見つけたのは白衣。久坂の物だ。これは更に胸糞悪いので早々に燃やしてしまおうと考えたが生憎と今は火がない。厭厭ながらもそれを拾い上げてポケットを弄る。出て来たのは通信阻害機、そして、何かの錠剤。DOPか?とも思ったが裏面に書かれていた文字に見た事のある成分が記載されている事に気づき、この薬剤の作用を理解した。ルナは暫くそれを見据えた後、そっとそれを自身の外套のポケットに仕舞う。
この部屋にある木箱は後処理班に任せよう、と踵を返そうとしたルナの視界の端にキラリと光った物が入った。
ルナはその光に導かれるように足を進ませる。
そして、足を止めた。
そこには壊れた懐中時計。
針は動く事なく、もう時を刻んでいない。
壊れた懐中時計をそっと拾い上げたルナは瞳を揺らして、胸の前でそれを優しく握り締めたのだった。