第七章 快楽は毒なり薬なり





蓬莱の腹を貫いた短刀。


キラリと光る刃先からは赤い液体が滴り落ちて純白のシーツを染めていく。蓬莱は腹に突き刺さる短刀に視線を落とし、そして自身が組み敷き、跨っている女に目を向けた。


「な、ぜ?動ける、筈が…ッッ!」


血が混じる呼吸で発した蓬莱を蹴り飛ばした足。そのまま壁まで蹴り飛ばされた蓬莱は腹の傷を押さながら辛うじて息を吸い込んだ。肺が酷く圧迫されて呼吸が上手く出来ない。それでも激痛に顔を歪め乍ら蹴り飛ばしたであろう目の前の人物を見据えた。


『アンタの間違いは二つ』


寝台からむくりと起き上がったルナは晒されている下着を隠す事もせぬ儘立ち上がる。


『アンタがDOPの情報をペラペラと話し出した口の軽い男だったって事』


ゆっくりとした動作で近づいて来るルナのしっかりとした足取り。恐ろしいものを見た怯えた目でルナを見る蓬莱の表情には先程の余裕な顔はなかった。唯そこにあるのは恐怖に染まった弱者の姿。


『そして、もう一つ。
私の体を毒ごときで動かなくさせようとした事』

「あ、有り得ない!いくら致死毒でないにせよ通常なら一日中体が動かせなくなる麻痺毒を飲ませたんだぞ!普通の人間なら歩く事は勿論立つことすら儘ならない!」

『普通じゃないもの』


淡々と云ったルナの言葉に蓬莱は口を開けた儘固まる。それはルナが自身の右眼に指を当てて何かを外したからだ。


赤く鋭い瞳孔。


普通じゃない。ルナの言葉の通り。その瞳は人間の瞳とは思えないものだった。


『私の体は凡ゆる毒に慣れている。耐性がない毒でも常人の数万倍の速さで解毒出来る』


冷や汗を垂らしてルナを見上げる蓬莱は何かにハッと気づきルナを睨みつけた。そして、掠れる叫び声を上る。


「な、なら僕に犯される間、無抵抗だったのは麻痺している訳じゃなく、全て演技…、自らの意思と云う訳か!?」


何時の間にか一人称が“私”から“僕”に変わっている蓬莱を蔑みの目で睨みつけたルナは顔を顰める。


『その解釈は不愉快なんだけど?私の意思じゃなくて首領の指示。私は情報を得る役だから必要なものを使っただけ。今回は偶々それが私の体だった…、それだけの事よ』


ただ…、と言葉を止めたルナは手に持っていた短刀の血を払い除けて再びそれを蓬莱に向けた。ひっ、と情けない声を上げて後ずさった蓬莱だがその後ろはすぐ壁なのでそれをする事は不可能だ。


『私は囮役を終えてからの指示を貰っていない。アンタを殺せばいいのか、生け捕りにするのか…』

「こ、殺さないでくれ!僕は金が欲しかっただけなんだ!これからDOPに関わる事は二度としない!だから見逃してくれ!頼む!」


ポートマフィアの怒りを買って生きて逃れることなど出来るはずもないのに。生け捕りとは一時的なもので用が済めば死体にしてポイっだ。


頭を床に擦り付けて泣き叫ぶ蓬莱を見てルナは溜息を吐く。これでは紳士的で話し上手な第一印象はガタ落ちだ。先程までの余裕たっぷりな姿を録画しておけば良かった。そうすれば生捕りにした後の拷問の材料に出来そうだと密かにルナは考える。



だが、本当にこんなのがよく今迄ポートマフィアの目を欺き、DOPを裏社会の組織に売っていたものだ。拍子抜けとはこの事か。


『まあ、いいや。取り敢えず生け捕りって事にしとこう。残りのDOPの保管場所と解毒薬の事は拷問部屋で吐いて貰わないといけないし』


ルナは乱れたドレスの裾に隠していた黒外套を羽織り、同じく隠し持っていた緑のマフラーを首に巻く。ドレスの何処にそんな物隠していたのかと疑問に思うが、普段からあらゆる種類の暗器を体に忍ばせているルナにとっては薄い服に物を隠し持つなど造作もない事だ。服を整えたルナは耳に付けていたイヤリング型の発信器を調整して電源を入れた。そして、ホテルの外に待機している構成員に、居場所を伝えて直ぐに来るよう指示を出した。



「拷問だと!?僕が持っているのはこのホテルの地下にある物だけだ!残りのDOPなんて知らない!」

『はあ?今更しらばっくれるつもり?』

「ほ、本当に知らないんだ!解毒薬も持ってない!僕はただ大金が手に入ると云われただけで!絶対バレないからと!」


突如、ルナは床に手をつく蓬莱の胸倉を掴み上げる。お腹の痛みに苦痛の表情を浮かべ乍らルナを恐る恐る見る蓬莱の瞳には目を瞠ったルナが映った。


『如何云う事?DOPを横浜に持ち込んだのはアンタじゃないの!?』

「た、確かにDOPを欧州から横浜に持ち帰って売ったのは僕だ。だが、DOPを作り、横浜に広めようと計画していたのは僕じゃない!信じてくれ!僕は唯あの人の指示に従っただけなんだ!」


胸倉を掴まれ乍ら命乞いのように叫ぶ蓬莱を床に放り投げたルナは目を見開いた儘、片手で口元を覆う。


『黒幕が、いるって事?』


DOPを横浜に持ち込んだのは蓬莱健介。


だが、DOPと云う麻薬を欧州で作り、横浜に広めようと策略したのは別の人物。


ポートマフィアさえ欺く事が可能な程に頭の回転が疾い人物がいるのだとしたら。


そいつがこの男を切り捨てて囮にしようとしたのなら。


ルナは床に這い蹲る蓬莱に見向きもせずに部屋を飛び出した。その表情には、焦りと不安。


此処は高層ホテルの上の階。
事前に頭に入れた建築構造を思い浮かべてルナは窓を突き破って飛び降りた。




『お願いイヴ!疾く中也の処へ!』




風圧に負けないルナの叫びに黒い影がルナを包んだ。姿を現した巨大な白銀の獣はルナを背に乗せてビルの壁を足場に地上へと駆け下りた。







____お願い無事でいて、中也。





地上に着地したイヴの背から跳び降りて、地下へと続く道を駆けるルナは心の中でそう叫び続けた。






**




暗い地下室を奥深く進んだ。


想像していたよりずっと広い地下に驚きつつ、確か此処はホテルができるずっと前、大戦末期の地下避難所だったと資料に書かれた事を思い出した。蓬莱はDOPを保管する為にホテルのサービスを使ったと云うよりはこのホテルの地下構造を利用して隠したと云った方が正しいかもしれない。



漸く辿り着いたのは金属性の厳重な扉。その扉の横には暗証番号入力装置が見られる。取手も何もない扉はまるで巨大な金庫のようだった。


「此処か?」

「今、開けますね」


中也の問いに頷いた久坂が暗証番号を何の迷いもない指で押した。そして、開いた扉。


「手前、何時の間に…」

「先刻の通信管理室で少々」


ウィンクをした久坂。あまりの速い手際に少々驚きつつも中に入っていく久坂に中也も続いた。


中は矢張り薄暗かったが、物を認識できる程なので特に灯りをつける必要もない。


中也は辺りをぐるり見渡す。倉庫のような場所を想像していたが違った。何方かと云えば部屋だ。普通の部屋よりは広いだろうが、幾つもの木箱の所為で少し狭く見える。怪しい物と云ったら矢張り木箱。


中也は木箱に近づきそれをジッと睨み付ける。蓋の表面を払い少し揺らせば微かな揺れ具合に相当な量の物が入っている事が判った。蓋は釘で固定されており容易には開けられないが、中也の力は別。手で無理矢理こじ開けた。


壊れた蓋を取り外し、あったのは黒い布の袋。
その結び目を解き、中を覗いた。


小袋に詰まれた白い粉末。


「おい、あったぞ久坂」




中也が振り返って久坂に呼びかけた瞬間、中也の耳にシュゥゥゥ…と云う何かガスが漏れ出る音が聴こえた。ハッとした時には部屋中を包み混む程の白い煙が視界を覆った。


瞬時に口元を手で覆って息を止めた中也は体勢を低くして、辺りを見渡した。


「(催眠ガスか?久坂は……ッ!)」


ドクンッ。


心臓が強く脈打つ。


口元を押さえていた手を床につく中也。目を見開いて、自身の体に起こっている変化に困惑した。視界が霞み、体が重い。眠い訳じゃない。何故ならこの煙は催眠ガスではないからだ。


次の瞬間には体が燃えるように熱を持ち出し始め、呼吸が荒くなる。全身から汗が吹き出したように沸騰した。


そして、何より物凄く下半身が疼いた。




_____このガスは一体何だ?




沸騰する体を抑える為に歯を食い縛る中也の耳にカツンと音が聞こえた。胸元の服を押さえ乍ら中也は音のした方へと視線だけを向ける。




白煙の中に白衣の裾が揺れた。
三日月のように赤い唇が弧を描く。




「ふふ、苦しいですか?中原幹部」



「て、めッ……如何いう事だ、


____久坂」



立つ事も儘ならない中也の視線の先にその女、久坂は愉しげに笑みを深め、美しく嗤っていた。






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