第七章 快楽は毒なり薬なり
「エリスちゃん!これ!これ着てみて!」
「厭。今、お絵描き中よ」
フリルの付いたドレスを手に締まりのない顔をする森。そんな森をしっしっと鬱陶しそうに払うエリスは赤いクレヨンでお花の絵を描いていく。
「お願いだよエリスちゃん。着てみて!これは私が一流のデザイナーに特注で作られせた二つと無いドレスなのだよ!」
「厭ったら、いーや!」
「そんなァ!可愛いエリスちゃ」
バタンッッッ。
森が云い終わらないうちに執務室の扉が開け放たれた。目を見開いて入ってきた人物を見た森。無遠慮にズカズカと入ってくるその人物、ルナはこれまた凄い雰囲気を樽いっぱいに背負っているかのように発している。
「中也君の処に行ったのではなかったのかね?」
森の質問には答えずにルナは無言で森の横を通り過ぎ、自室の扉を開けて中に消えていってしまった。
森はエリスに視線を向ける。
エリスも森に視線を向けていた。
「少し静かにしとこうか」
「そうね」
**
ルナは自室の扉に入って直ぐに扉に寄り掛かった。床を見据え、息を整える。先程から空気がピリピリと悲鳴を上げていた。それはルナから漏れ出る殺気によるものだ。一つ息を吸い、吐き出す。暫くそれを繰り返した。
漸く落ち着いた頃、ルナは視線を床から外して部屋を見渡す。相変わらず広く、何も無い部屋だ。あるのは着替えと暗器が入った棚一つ。その他の物は何も無い。
『…イヴ』
ルナは扉とは反対にある窓に歩み寄り乍らポツリとその名を呟いた。
ルナの背後を蠢く黒い影。
それが徐々に姿形を持ち、巨大な白銀の獣が現れる。
ルナが窓の側に腰掛ければ、イヴはルナに寄り添うように伏せた。そして、赤い瞳をゆっくりと閉じる。眠ったイヴの毛並みを撫で乍ら窓の外を眺めたルナ。
外の景色はいつのまにか雲が空を覆い、鉛色の世界へと変わっていた。数時間も経てば雨が降ってきそうな曇天。陽の光も差し込まず、灯りのない部屋が唯の黒く暗い空間のようだ。ルナの心も似たようなもの。
ルナはイヴに背中を預けゆっくりと瞳を閉じた。浅い眠り。意識を保つこの眠りは考えたくない事を無理矢理引っ張り出してくる。何時間もずっと胸の中心から溢れ出て掻き乱してくる黒靄が鬱陶しくて仕方ない。
如何してこんな気持ちなのだろう。
ルナは一人自分で疑問を零す。だが、その答えに何となく気が付いている自分がいる。
私は嫉妬している。
それは判る。昔、同じ気持ちを感じたから。あの時は本当に判らなかったけれど、二回目以上ともなれば理解できない事でもない。
他の女が中也の傍にいるのは初めてじゃないから。
でも、それでも、本当に厭な理由。
あの女を見て、気付いた事があったから。
それは……、
ルナは何かの気配を感じてゆっくりと瞳を開けた。灰色の雲からは止め処なく雨が降り始めている。二時間くらい経っただろうか。ゆっくりとイヴから体を離して窓の下を覗き込んだ。
見慣れた黒い車が一台。
2つの人影が動いている。
中也と久坂だった。
中也が助手席側の扉を開ける。それに礼をして久坂がそこに乗り込んだ。座った事を確認した中也が扉を閉めて運転席側に乗り込む。そのまま車は雨の中走りした。
ルナは外套から携帯を取り出して電子伝言欄を開く。そこにはDOPの新たな情報が書かれていた。他組織が密輸した商品のリスト内からDOPらしき物が発見されたらしい。恐らく、戦闘になるだろう。
ルナは窓枠に伏せて走り去る車を眺める。
雨霧に紛れて消えていく車。
『私の、特等席だったのにな』
暗い室内に寂しげな声が一つ漂った。
**
「中原幹部、先程は危ない処を助けて頂いて有難う御座いました。それに加え、私は何のお役にも立たず、申し訳ないです」
「礼はいらねェよ。寧ろ謝ンのはこっちだぜ。危険な目に合わせただけで結局は行く事自体無駄足だったンだからよ」
情報通り、DOPの密輸現場を突き止めたが有力な情報を得られなかった。何しろ今一番手に入れたい情報はDOPの出所とそれを横浜に持ち込んだ犯人だ。
捕らえた密輸業者は知らないの一点張り。抑その薬が麻薬だって事も知らなかったらしい。あれは拷問しても意味ないだろう。結局は軽い銃撃戦になったが、適当に潰して帰ってきた。
「ですが、地道な調査も大事ですよ。ふとした処に手掛かりが在るかもしれませんから」
助手席に座る久坂が微笑み乍らそう云った。雨の中走る車の窓に雨粒が当たる度にパチパチと音を立てる。
「
「犯人は一体何が目的なのでしょうか…」
久坂が顎に手を当ててそう呟いた。薄化粧の清楚な顔立ちが雨粒が滴る窓に映し出され、何処か繊細な作り物のように見える。
「さァな。だが、注目や金が目当てじゃねェって事は確かだ」
「そうなのですか?」
「嗚呼。厄介なのは其奴が物凄く頭の切れる奴って事だな。ポートマフィアの情報収集力は伊達じゃねェ。なのに、犯人の情報は一切掠りもしねェ。そんな奴が金目的やらの為に麻薬を広めると思うか?金が欲しいならもっと効率の良い手が山程あるってのに。ま、其奴の目的が何かなんざ結局は其奴にしか判らねェよ」
成る程と頷く久坂は一度視線を窓の外に移す。雨に濡れる街の景色と対向車線の車のタイヤによって跳ねる水飛沫が踊るように跳ねている様を見て久坂は「あの、中原幹部」と小さな声で中也を呼びかけた。
「何だ?」
「幹部は、好きな女性の
「はァ!?何だよ急に」
丁度赤信号で車が止まる。片眉を上げて久坂を見た中也。久坂はほんのりと頰を赤く染め乍ら「すみません。気になってしまって…」とチラリと中也に視線を向けた。赤信号の所為で運転に集中する口実を奪われた中也に答えないという選択肢は無くなった。視線を反対の窓に移した中也は一度咳払いをして、口を開く。
「あー…、気品のある
正直に答えた中也。久坂は「そうですか…」と少し嬉しそうにそう云って黙った。居た堪れない車の中。赤から青に変わった信号に助けられ、中也は無言で車を発進させた。
**
拠点に帰り再び軽く書類整理を済ませとると気付けば夜になっていた。初日で仕事を手伝って貰った久坂には今日はもいいと帰して、簡単な片付けを一人で済ます。
「アイツ、あれから来なかったな…」
機嫌が悪かったからなのかは判らないが、何時ものルナじゃなかった。それに気付き乍らも構ってやらなかったんだ、屹度今頃拗ねていじけている筈だ。
俺は今日の分の書類だけ持って首領の執務室を目指す。ルナも自室にいるだろうから、迎えに行ってやればいい。
昇降機に乗り込み最上階を目指す。昇降機から出て長い廊下を数分歩けば漸く首領の執務室に辿り着いた。
「首領、中原です」
扉の前でそう声を掛ければ「入り給え」という静かな声が中から響く。その返答を聞いて俺は扉を開ける。中を見れば、首領が執務机の上で羽ペンを走らせていた。首領もご多忙だ。こんな時間まで仕事をしているのだから。
「今日の分の書類を届けに来ました」
「嗚呼、助かるよ」
机の前まで歩み寄り差し出された手に書類を手渡す。首領がパラパラと中を確認する間、奥の扉を見据えた。開く気配がない扉。中には誰もいないのだろうか。
「ルナちゃんとまだ喧嘩中かい?」
書類から目を離さない儘首領はそう問うた。
「あ、否。…彼奴は部屋に居ますか?」
「居るよ。だが、どうも出てきたくないみたいなのだよ。入ったら切り刻まれそうだから暫くそっとして置こうと思ってねぇ。君も今日は自室で休むといい」
書類を机に置いて苦笑した首領にそれ以上何も云えなかった。一度だけ静まり返った扉を見据えた後、首領に頭を下げ執務室を後にした。
その夜、ルナがいない寝台で寝るのは随分と久し振りだと感じ乍ら浅い眠りに身を沈めたのだった。