第七章 快楽は毒なり薬なり
ルナは中也の執務室に辿り着き、その扉をそろりと開ける。出来た隙間に中を覗けば誰も座っていない椅子が見えた。目を左右に動かして部屋を見渡す。視界に人影が映らなかったのは誰もいない証拠だ。
『何だ、いないじゃん』
てっきり執務室に向かったとばかり思っていたのに。無意識に出た溜息を零しルナは部屋の中に入った。そして、いつものソファへと腰掛け、天井を仰いだ。
今朝から中也とは喧嘩中。アレくらいの喧嘩は別にいつもの事だし気にしない。気付けば仲直りしているから。でも、今回は如何だろうか。
ルナは天井から扉へと視線を移し閉じられたそれをジッと見た。その扉が開いた時、中也があの女と一緒に入ってきたら…と思うと心の中に何か判らない靄が陰った。それが変な感じだ。
それを遮るように目を伏せて閉じようとした時、ガチャと音を立てて扉が開いた。入ってきた人物がソファに座るルナに気付く。
「手前、いたのか」
『何時もいるし』
「はっ、それもそうか」
扉を後ろ手で閉めた中也はソファに座るルナの前を通って、椅子に腰掛けた。そして、執務机に置かれた書類を片手に目で文字を追い始める。
『…あの女は?』
「久坂の事か?彼奴なら研究室に居るぜ。同じ研究者同士とか云って梶井と意気投合してたな。意味の判らねェ話で俺にはさっぱりだ」
小さな溜息を吐いた中也。若しかしたら、その研究室から逃げてきたのかもしれない。それもそうだろう、梶井は自身の研究の事に関して話し出したらまるで滝のように止まることを知らないのだから。あれに巻き込まれたら睡眠時間という物を根こそぎ持っていかれる事間違いなしだ。
横目で中也を盗み見る。普段通りの中也に見えないのは私の中の靄の所為なのか。中也があの女の名を云うだけでそれが染みのように広がる。あまり佳い物と云えないそれが私の口を勝手に開かせた。
『よかったね。あんな大人っぽい美人が部下に付いて』
「はァ?」
『どうせ案内してる間ずっと鼻の下伸ばしてたんでしょ』
書類から目を離してルナを怪訝な目で見る中也。対照的にルナは中也の顔を見ないまま袖に隠れた手で拳を握りしめた。
「手前、何苛ついてンだ」
中也のその言葉にルナはバッと立ち上がり、『だって!』 と叫んだ。だが、その直後聞こえた叩音に続きを云うのを阻まれる。
「中原幹部、お待たせしました」
「おう、久坂」
入って来た久坂に中也はそう返事をして彼女に視線を向けた。そんな中也を見てルナは拳に力を込めたが、大人しく座り直す。
「あら…、貴女は首領様の」
『……。』
ルナに気付いた久坂が視線を寄越す。その視線から逃れるようにルナはソファ前の机に視線を落とした。重い沈黙が部屋を覆う。そんな空気の中、最初に言葉を発したのは中也。
「随分疾かったじゃねェか。梶井と話は終わったのか?」
「はい。とても楽しい方でした」
「なら、今日はもう自室で休んでもいいぜ?仕事は明日からでもいいと首領からも云われてるしな」
「いいえ。中原幹部もご多忙なのでしょう?お手伝いします」
久坂は中也の執務机に散らばった書類を整えていく。そんな久坂を見て中也は「助かる」と一言云って簡単な書類の説明をし始めた。
*
「中原幹部。ここにサインをお願いします」
「見逃してたか?悪りぃ」
「この資料は明日の朝まで大丈夫みたいです」
「ンなら、先にそっちのをやるか」
久坂はその歳で優秀な研究者になるくらいである為か、物覚えが疾く要領が良かった。仕事も着々と進んでいく。だが、片付ける書類が減っていくのとは対照的にルナの苛つきは溜まりつつあった。
『(こんな事務仕事してないで、とっとと研究室で麻薬の事調べればいいのに)』
ソファにうつ伏せで頬杖をつき、心の中で愚痴を零すルナ。仏頂面のその顔は治る事を知らず筋肉がその表情で固まりそうである。
「中原幹部、この書類なのですが」
チラリとルナは仕事をする二人を見た。書類を受け取った中也が文字を追い、指をさし乍ら説明するのを久坂は垂れる髪を耳にかけ、中也が持っている書類を覗き込んで頷いている。
『(顔の距離近くないアレ)』
苛々する。如何しようもなく厭な気分だ。
ルナはソファから飛び起きた。そして、中也の執務机にバンッと手をつく。いきなりのルナの行動に目を見開く中也と久坂。
『ねぇ、中也!ゲェムしよ!』
「阿保か仕事中だ」
『じゃあシュークリーム食べたい!』
「食えばいいだろうが」
『一緒に買いに行くの!』
「仕事中だって云ってンだろ」
そう云って書類に視線を戻した中也。ルナは一度唇をギュッと噛み締めたが、此処で引くものか眉を吊り上げた。
『じゃあ!』
「ルナ様」
中也の気を引くために再度提案をしようとしたルナを鋭い声が制した。ルナは自分の名を呼んだ久坂に視線を向ける。そこには厳しい顔をした久坂。
「中原幹部はお仕事中です。お遊びなら違う場所でして下さい」
『…私が邪魔だって云いたいの?』
「失礼ですが、否定はできません」
一瞬空気が震えた。それはルナから溢れ出た何かによるものだ。その何かを感じた中也が止めようとした時、それより疾くルナが踵を返した。
『どうもお邪魔しました』
吐き捨てるようにそれだけ云ってルナは執務室を出て行く。音を立てて閉められた扉。部屋には微かに重い空気が漂った。
「中原幹部、お仕事再開しましょう」
「あ、嗚呼」
久坂は何事も無かったかのように書類を纏め始める。ルナが出て行った扉にチラリと視線を向けた中也だが、仕事をし続ける久坂の手前直ぐに書類に目を落としたのだった。