第七章 快楽は毒なり薬なり
久坂葉子はDOPの知識がある重要な協力者である為、五大幹部である中也の配属となった。つまりは中也の部下である。
「宜しくお願いします、中原幹部」
「おう、宜しくな」
軽い挨拶を済ませ乍ら森の執務室を出て行った二人。この後、上司となる中也が拠点内を案内するらしい。観光か!と突っ込みたくなる。
『首領、何で彼女を中也直轄の部下に付かせたわけ?』
面白くないと云った顔で森に視線を向け、不満を零すルナ。
「彼女は非戦闘員だよ。だが、麻薬の知識がある以上現場に赴いて貰わなければならない。戦闘能力が高く幹部である中也君の部下になるのは最適解だと思うがね」
『ご最もな理由ね。で?他の
ルナの鋭い瞳に森は笑みを深めたまま何も云わない。数秒、二人の間に出来た氷のような冷たさに空気が震える。だが、それはルナが諦めの深い溜息を吐いた事で音もなく消えた。踵を返して扉に向かうルナに森は「何処に行くのかね?」と問うた。
『中也んとこ!』
バタンッと大きな音を立てて部屋を出て行ったルナに森はやれやれと云う風に力なく笑う。そして、机に置かれた麻薬、DOPを見据え何かを密かに黙考していた。
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「と、こんなモンだな。判らない事がありゃその都度訊いてくれりゃいい」
「ご丁寧に有難う御座います」
重要区域以外、拠点内の案内を終えた中也は久坂を連れて自身の執務室に向かう事にした。廊下を歩く二人。彼女の高いヒールの音がリズムよく響いている。偶に通りかかる黒服の構成員が二人を不思議そうな視線で見てくるがその内組織にも彼女の事が知れ渡るだろうから、今はその視線を殆ど無視した。
チラリと中也は横目で久坂は見る。彼女はふぅーと、小さく息を吐き出している所だった。
「緊張してたのか?」
ふとした中也の問いに面食らったのか目を丸くした久坂だが、直ぐに頰をほんのりと赤く染め乍ら髪を耳にかけた。
「お恥ずかし乍ら…。まさか私のような者がポートマフィアの首領様とお会い出来るなんて。緊張で上手く呼吸が出来ませんでした」
「まあ、緊張すんなって方が無理か。俺でも身を引き締める 」
「あら、中原幹部こそ威厳があって緊張しなさそうなのに」
「あァ?そうか?ま、首領の前で緊張なんて言葉を知らねェ奴はアイツくらいなもんだろ」
くすくす、と上品に笑う久坂。白衣を着ているから研究者に見えるものの、それがなければ育ちの良いご令嬢に見えるほど落ち着いていて大人びている。
中也と久坂は会話を弾ませ乍ら廊下を歩いていく。
そんな二人の背中を見据える一つの影。
その瞳に映るのは、楽しげに話す中也とそんな中也の話を聞く度にお淑やかな笑みを浮かべ相槌を打っている久坂の横顔。
中也の執務室に行くつもりだった。
いつもど通りに。
だが、その人影は二人に背を向けて踵を返す。
緑のマフラーが名残惜しげにその場に揺れた。
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一室に響く銃声の音。
銃口から放たれた弾が真っ直ぐに飛び、人型の的を貫いた。
「(強く、強くならなければ)」
ゴーグルを着けたまま拳銃を両手で支え狙いを定める樋口。
此処はポートマフィア拠点内にある射撃訓練場。拳銃は勿論本物で人型の的はミリ単位で表示され、銃弾を全て撃ち終えれば精密な機械が命中率、誤差、順位などなど詳細に記録する。まさに射撃の訓練にはもってこいの場所だ。
全て撃ち終えた樋口はゴーグルを上げて表示された記録を確認する。銃は樋口の得意分野だった。だが、表示された記録、そして順位に溜息を吐いた。自分はまだまだだと思い知らされる結果だ。
先刻様子のおかしい構成員に襲われそうになった時、樋口は助けられた。自分の力じゃどうにも出来なかった。それが樋口には如何しようもなく悔しかったのだ。
樋口はゴーグルを台に置き、新しい弾を装填していく。額から流れた汗を袖で拭い乍ら。最後の弾を入れて安全装置を外し深呼吸した。
____が、その時訓練場の扉が大きな音を立てて開け放たれた。
驚きに飛び跳ねた樋口は危うく手に持っていた拳銃を落としそうになったが何とか耐える。そして、視線を扉の方に向けた。
「ルナさん?」
そこに居たのはルナ。俯いた顔が前髪に隠れていて表情が見えなかったが、その雰囲気が異常に不穏だ。樋口はそれを感じ取り、口を噤んだままルナに視線を向ける。
何も云わずに歩き出したルナは台の上に揃えられた拳銃を手に取る。そして、的に向かって構えたと同時に撃った。
部屋には、
漸く止まった銃声。電版に表示された記録。
命中率100%、誤差0.00ミリ、順位1位。
「(す、凄い…)」
樋口はルナの記録を見て心の中で感嘆の声を上げる。あんな乱射にも全く誤差がないなんて人間技じゃない。それを目の前の彼女はいとも簡単にやってのけてみせた。それは矢張り流石という他ない。これがポートマフィア随一の暗殺者の腕。
『何で…』
「へ?」
そう呟き乍ら台に拳銃ごと手を叩きつけたルナ。まさか、こんな素晴らしい記録に不満なのか?と樋口は目を見開いた。
『何ッでッ!私が遠慮しなきゃなんないのよ!!!』
しかし、ルナの口から出てきたのはそんな言葉。目を吊り上げて怒鳴る顔は恐ろしい。此処には怒りをぶつけに来たと云うより唯の八つ当たりだろう。それで最優秀得点を取られても困る。樋口の立場がないのだから。
「あの、ルナさん…、何かあったのですか?」
『判ってるよ!?協力者で部下になったんだから一緒に行動して当たり前なんでしょ!案内するのだって!楽しそうにお喋りするのだって!判ってるけどさ!』
否、私は判らない…、出来ればそう云いたい樋口だが、それを云うと怒りの矛先が此方に向きそうだったので喉から出る前に飲み込んだ。
『判ってる…だけど、』
段々と弱々しくなるルナの声。ズルズルと屈み込み俯くルナの表情は見えないがいつもの明るさがない事は確か。そんなルナを見て、樋口は拳を握りしめ、口を開いた。
「あの、ルナさん。失礼に聞こえるかも知れないのですが…、ルナさんには遠慮なんて言葉、らしくないのでは?」
『…らしくない?』
「はい。ルナさんはいつでも真っ直ぐで、明るくて、強くて」
ルナさんは圧倒的な力を持って組織に貢献している。けれど、いつかルナさんと任務を共にした時、私はルナさんの後ろに追ていくのに必死だった。おまけに私は最後まで守られたまま任務は完了。情け無い自身を恥じた。
それに、何よりもルナさんに憧れるのは…。
ルナさんは中也さんの隣を歩いている。
中也さんに想いをしっかりと告げられている。
中也さんの力になれている。
凄く羨ましくて。
だから、私にとってルナさんは、
「憧れの女性です」
ポツリと声に出た言葉。無意識に近いその呟きに気付いた樋口はハッとしてルナに視線を向ける。ルナは俯いていた顔を上げ樋口を見据えていた。そして、眉を下げて軽く息を吐き出したルナは立ち上がって伸びをした。
『私が憧れなんてやめておいた方がいいよ』
目を丸くする樋口を見てルナは苦笑する。そして、自身の首に巻かれたマフラーを口元に持ってきて瞳を閉じた。
『いつでも真っ直ぐ明るい…、か。でも、良かった。今の私はそんな風に見えるんだね』
「ルナさん?」
『ううん。何でもない』
パッと表情を変えたルナは両手をヒラヒラさせる。そして、自身の頬を両手で叩いた。
『樋口ちゃんの云う通りだよ!私に遠慮なんて言葉似合わない!てか、抑遠慮する意味がない!ありがと樋口ちゃん』
ルナはそれを叫ぶように云って訓練場を出て行った。いきなり来てそして、去って。まるで嵐のようなルナに樋口は追いつかなかったが、何故だか胸の内から零れるような微笑が出た。
一瞬、マフラーに隠れたルナの表情、そして纏う雰囲気が触れてはならない何かだったのを感じた樋口だが、今の彼女がそれを知る事はない。
樋口はゴーグルを掛け直し、再び手に持っていた拳銃を構えた。