第七章 快楽は毒なり薬なり
二人並んで森の執務机の前に立つルナと中也。 何方も仏頂面で不機嫌丸出しと云った雰囲気である。
「また喧嘩かい?君達。今回は何方が原因かね」
『中也』
「コイツです」
人差し指で中也を指したルナ。
親指でルナを指した中也。
二人の間にバチっと火花が散った。
『首領聞いて下さい!中也ったら心が狭いんですよ!?』
「おい首領の前だぞ止めろ」
『私は中也が構ってくれなかったからあまりの寂しさに机に置いてあった酒瓶を窓から投げ捨てただけで!恋人の可愛い嫉妬でしょ!?』
「そんな嫉妬あってたまるか。大体話がずれてンだよ。俺が聞きてェのは今朝の事だ」
『だから、それは三日後話すって云ってんの!』
「はいはい君達そのへんで」
手を二回叩いた森は苦笑しながら喧嘩をヒートアップさせる二人を制した。中也は直ぐに姿勢を正し森に向き直ったが、ルナは未だに膨れっ面で腕を組み森に視線を向ける。
一つ息を吐き出した森は報告書と共に机に置かれてある物を指で摘み上げてみせた。
「これを見給え」
森の手にあるのは小さな袋。透明なその袋の中には何か白い粉が入っている。
「薬、ですか?」
「そうだよ。此れは昨夜、黒蜥蜴が殲滅する筈だった敵組織の拠点内に落ちていた物だ。敵の構成員は我々が到着する前には既に生き絶え、生存者は一人だけだった」
『その生存者は?』
「拷問班に任せている。だが、喋れる状態ではないらしい」
「つまり、その薬が関係していると?」
中也の問いに森は瞳を閉じて、「…だろうね」と呟く。何とも歯切れの悪い答えに中也が疑問を浮かべた時、森は鋭い視線を二人に向けた。
「これは麻薬だ」
森が発したその単語に中也は顔を強張らせた。
麻薬。
それは極めて厄介な薬物だ。確かに闇社会で麻薬商売は
「人体にどんな作用があるかははっきりとは判らない。LSDやMDMAなどと成分は似ているが、恐らくは異なる物だろう」
『……先刻の黒服の構成員とも関係ある?』
ルナの問いに中也はルナを驚きの目で見つめた。ルナは無表情のまま森を見ている。森もルナの瞳を見つめ黙った。手に持っていた小袋を机に置き指を組む。
「嗚呼。今先刻、彼の口内から同じ薬物反応が出た」
樋口を襲おうとした男。
彼もまた麻薬に手を出した一人。
麻薬の影響は裏社会だけではなく、表社会、街全体に重大な被害が及ぶ可能性がある。それは一度広がれば、収拾がつかなくなってしまうだろう。
おまけにポートマフィアが知り得ていない何かが動いているのだ。これは闇を支配するマフィアとしては決して見過ごす訳にもいかない。
「この件は迅速に対処すべきだ。よって、協力者を雇った」
『協力者?』
「薬物に詳しい人物でね。そろそろ来る筈だよ」
森は口元に笑みを浮かべる。
いつの間にそんなものを用意していたのかと心の中で溜息を吐き出したルナ。協力者という事は外部の人間だろう。それが此処、直接首領と対面すると云う事はそれ程薬物に関して知識のある者だ。どんな人が来るのかとルナは扉に視線を向けた。
「ルナちゃん」
だが、呼ばれて視線を再度森に向けたルナ。ルナの視界には真意が読み取れない笑みを浮かべた森。
「君は私の娘だ。いいね?」
『…はぁ、了解』
つまり、そのフリをしろと云う意味だ。
喩え協力者でも外部の人間に変わりはない。否、外部の人間じゃなくても、
中也も森の言葉の意を理解した。
そして、扉から控えめな叩音の音が響く。森は「入り給え」と扉越しに声を掛けた。開いた扉。繊細な足音を立てながら入ってきたのは若い女性だった。
肩くらいの長さで内巻きに揃っている黒髪が彼女の着ている白衣に映える。華奢に見える程の細身だが女特有の胸はとても大きい。
「この度、ポートマフィア様の命を受け協力者として参りました。久坂葉子と申します」
丁寧にお辞儀をしたその女。顔を上げて美しい顔で笑みを浮かべる。
「待っていたよ、久坂君。ようこそポートマフィアへ」
歓迎の言葉をかけ森も笑みを返す。
そして、ルナと中也の前に止まったその女はルナに視線を向けて頭を下げた。
「彼女は私の娘だよ。歳も近いだろうから仲良くしてやってくれ給え。そして、彼は五大幹部の中原中也君だ」
何が仲良くしてやってくれ、だ。この設定は本当にやり辛いから困る。
心の中で何度目かの溜息を吐いたルナだが、此処は黙っておこうと頭だけを下げて挨拶した。そして、しかしなぁ…とルナは女を見据える。森が協力者に選ぶくらい薬に詳しい人物と聞いたから、てっきり年老いた研究者が来ると思っていたルナ。だが、現れたのは森の云う通りルナと然程歳も変わらなさそうな女性。雰囲気から云えばルナより大人っぽく見える。なんか狡いとルナは心の中で愚痴った。
「久坂君の父親とは私も面識があってね。もう亡くなってしまったが、彼はポートマフィア傘下の研究者だったのだよ」
「私も昔はよく父から話を聞いておりました。ポートマフィア様の為と父は薬の研究に熱心でいつもそれを誇りに思っていましたから…。死んでしまった事でそれが出来なくなった事本当に無念でしょう」
久坂というその女性は悲しみの色を混ぜた瞳を揺らしたがそれを懐かしみ乍ら思い出すように膨よかな胸に手を当てる。
「彼に娘がいて、まさかその娘である君も研究者になっているとは思わなかったよ」
「私は研究熱心な父を尊敬しておりました。父が死んだ後、私は半年前まで欧州で薬の研究に携わっていたのです。今でも父の背中を追いかけて凡ゆる病の治療薬を開発しております」
「それは素晴らしい。君の協力があればこの件は疾く片付けられそうだ」
「恐れ入ります」
目を伏せた久坂は小さく森に頭を下げる。それを見届けて森は「早速だが」と話を切り替え、机に置かれた薬を再び持ち上げた。
「この薬について知っているかね?」
「はい。事前に資料を拝観させて頂きました」
「これは麻薬だ。それは間違いないかい?」
「仰る通り、麻薬の一種です」
先程よりも静かな声で云った久坂はその白い粉末を見据える。
「その麻薬は嘗て欧州でも闇社会に出回った薬剤です。その作用はあまりにも強力で依存性が強く、経済を混乱に陥れました」
久坂は一度瞳を閉じた後、息を吐き出した。
そして、云った。
「その麻薬の名は、“DOP”。又の名を、“快楽の夢”」