第七章 快楽は毒なり薬なり
ポートマフィアの実働部隊を担う武闘派組、黒蜥蜴。
その百人長である広津柳浪は十数名の部下を連れ、ポートマフィアと敵対する組織の殲滅に来た。
突き止めた拠点の扉の前。広津は自身の右手を鉄製の扉に添える。扉は本来の形から歪み、吹き飛ぶ。武装した黒服の部下が一斉に中に入り、銃を構えた。
銃撃音は、鳴らなかった。
「おい、どう云う事だこりゃあ…」
十人長である立原道造は構えていた二丁拳銃を下ろして、眉間を顰め乍ら呟く。部下たちの間をゆったりとした速度で通り抜けた広津は先頭に立って足を止める。視線の先には、横たわる男達。敵組織の構成員だ。
広津は横たわる男の傍に座り、首に指を当てる。男は、死んでいた。倒れる男達全て既に息をしていない。
「中を隈無く調べろ。若し、息のある者がいれば捕らえろ。生け捕りだ」
広津の命令に頷き、拠点内の詮索に当たる黒服達。散らばった部下を確認し、広津は黙考する。
ポートマフィアより疾く何者かに襲撃されたのか?
しかし、一体誰に?
不可解な点は一つ。
死んでいる男達の周りには一滴の血もない。それどころか誰かに拠点内を踏み荒らされた形跡もだ。まるで、自滅したような…。
「百人長」
部下の一人が広津に駆け寄る。広津は立ち上がり、「何か見つけたのか?」と問う。部下は頷き、硬い声で「生存者を見つけました」と答えた。
「しかし…」
最後に言葉を濁した部下。広津は云い淀む部下を制し、捕らえた者がいる部屋に足を運ぶ。簡易ベッドが置かれた部屋に入れば、黒服の部下に銃口を向けられ縛られている男がいた。しかし、何やら様子が変だ。
男は灰色のシャツを着ていたが随分と着崩れていて、全身汗だくだった。焦点が合わない視線。自分の状況が判っていない様にも見える。何処か幸福さえ感じているような笑みを浮かべ乍らブツブツと聞き取れない単語を呟く。
簡潔に云うのなら、その男はおかしかった、と云う他ない。
此処で拷問しても男の様子が変わる事はないだろう。そう判断した広津は部下達に男を連れて行くように命じた。
男は抵抗せずに抱えられて連れて行かれる。それを見送った広津もその場を後にしようとしたが、ふと先程男がいた場所に何かが落ちているのを見つけた。広津は手袋を嵌めた手でそれを拾い上げる。
「…薬剤か?」
切口が破かれた袋に残っていたのは、白い粉末だった
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「えっと…、此れが黒蜥蜴からの報告書か」
拠点内の廊下を歩いている樋口は手元の書類を確認し乍ら一人呟いた。昨日は一日休暇だった樋口。休みを貰える日は嬉しいが、その次の日に手元に来る膨大な情報量を頭に入れなくてはと思うと休みの日が必ずしも良いものであるとは云えない。
ふと、樋口は書類から目を離して前方を見た。ふらふらと覚束無い足取りで歩いてくる黒服の構成員。壁に手をつきながら歩いているその姿は体調が悪そうに見えて、樋口は小走りにその構成員に近寄る。
「大丈夫ですか?具合が悪いんじゃ」
「…おん、な」
「え…?」
男が呟いた単語に樋口は首を傾げる。だが、その瞬間、男が倒れるように樋口に覆い被さってきた。書類の紙が宙を舞う。回る世界に頭が追いつかず、気づけば背中を床に打ち付けた痛み。そして、視界には天井と男の顔。
「なっ、何ですか!?」
「体が熱い、疾くッ!抱かせっ」
「やめなさ、いッ」
手首を押さえつけられる。凄い力だ。
様子がおかしい構成員。押さえつけてくる手さえまるで沸騰してるのではないかと思う程熱い。樋口は自身の身に危険を感じて男の下でもがいた。だがビクともせず、寧ろ男の力が強くなる。
近付いてくる男の顔に樋口は瞳を固く瞑った。その瞬間、脳裏に靡く黒布。いつも追いかけている背中。
「(芥川先輩!)」
樋口は心の中で叫んだ。
突如、樋口に跨っていた男が物凄い勢いで横に飛んだ。樋口は目を見開いて、壁に激突した男を見る。そして、上体を起こしてから男を蹴り飛ばしたであろう人を見上げた。
『厭がってる可愛い子を襲うなんて最ッ低』
「ルナ、さん」
片脚を挙げたまま冷たい視線を男に向けるルナに樋口は目を見開いて名を呟く。そんな樋口のか細い声にルナは地面に足をつけて樋口に手を差し伸べる。
『平気?樋口ちゃん』
「は、はい。何とか…。助けて下さり有難う御座います」
『あーいいのいいのお礼なんて。しっかし、こんな処で上司である樋口ちゃんを襲うなんて、この人盛んな猿か何か?』
下賎なものを見る目で男を睨むルナ。樋口は自身の手首を摩り乍ら先程の男の様子を思い返す。矢張りどう考えても普通じゃなかった。
「ッ…熱い、疾く欲し、い、」
よろよろと立ち上がった男。ルナに蹴られた脇腹を押さえ譫言のようにそう呟く。ルナの蹴りはそこらの男より強烈な威力があり、並の男では蹴られれば痛みで暫くは立ち上がれない。だが、男は立ち上がった。それは恐らく、痛みよりも鋭い他の何か、得体の知らない何かに魘されているようにルナには見えた。
そして、遂に男は懐から拳銃を取り出してそれをルナに向けた。それはどんな理由があれ許されない行為。首領専属護衛であるルナに銃を向けると云う事は、首領の命を狙うと同義。この組織に属する限りその行為は裏切りを意味する。
「誰でもいい抱かせろッ!体が苦しいんだ」
『うわ、ほんと最低な発言。女の口説き方も知らないの?』
「っ、うわァァッ!!」
男は叫び乍ら
小柄なルナからは想像も出来ない程の体術。樋口はポカンと一瞬で男を地に沈めたルナを見据える。まるで塵掃除を完了したかのようにルナは手の汚れを
間も無く、銃声の音を察知した黒服の構成員達が駆け寄ってきた。そして、その光景に一瞬たじろぐ。それもその筈、首領補佐のルナとその足元には気絶した同僚がいれば状況を一瞬で吞み込める者は数少ないのだから。
『牢に突っ込んでおいて。あと、彼の体に何が起こってるのか調べるように』
「「はっ」」
しかし、流石はマフィアの構成員。自身の思考は後回しにルナの指示に従う。男を連れて行く構成員を見送りルナは蹲み込んだ。
『災難だったね樋口ちゃん』
「あ、ルナさん。私が」
散らばった書類を拾うルナを慌てて制して、書類を拾う樋口。ルナは半分程拾った書類を樋口に手渡して立ち上がる。
『今度は龍ちゃんに助けて貰いなね。そっちの方が樋口ちゃんも嬉しいでしょ?』
「い、いえ!私はそんな」
真っ赤な顔で慌てふためく樋口。ルナはニマニマと笑いながら樋口の肩をポンポンと叩いた。確かに襲われる直前に樋口の頭に浮かんだのは芥川だった。だから、完全には否定できない自分に樋口は恥ずかしくなる。口元を書類で隠して誤魔化した樋口は何とかルナに反論しようと顔を上げた。
「あ、」
『ん?いでっ!』
急に顔の熱が引いてそう声を出した樋口を不思議に思ったルナだが、頭に走った痛みに声を上げる。
「おい莫迦ルナ。一度ならず二度までも道草食ってやがるとはいい度胸じゃねェか」
『どうどう中也』
ゴキッと手を鳴らす中也はルナを一発殴りそうな程にお怒りの様子だ。先程一度殴ったが。両手を上げて中也を抑えるルナは口元を引攣らせ乍ら云い訳を話す。
『今先刻のは不可抗力よ。樋口ちゃんが猿に襲われてたら普通助けるでしょ?』
「嗚呼、そこは褒めてやる。ちゃんとした理由もあるからな。だが、朝のアレは何だ手前。途中で車降りてそのまま一時間帰ってこねェ。それこそ大層な理由があンだろうなァ、あ?」
『んー、と……三日後に判るよ』
「巫山戯んなッ今話せ!」
『厭だ。教えない』
「てっめ!隠し事は無しッつってンだろ!」
『中也だって私に隠し事してるじゃない!』
「はあ!?俺が何時した!」
『とぼけないでよ!此間買ったお酒私に内緒で家に隠してる事知ってるんだから!』
「そりゃ手前が俺の酒瓶割りまくるからだろうが!」
ぎゃーぎゃーと喧嘩をし出した二人に樋口は顔を青ざめ乍ら「あ、あの…」と声を掛ける。が、喧嘩中の二人には樋口の声など小蝿の羽音より小さい。
「手前がこの前割ったのがどんだけ
『中也が酒ばっかり相手してたのが悪いんじゃん』
「酒に妬くなッ!」
「あ、あの!!」
樋口は叫んだ。これ程誰かを呼ぶのに腹筋を使った事があったろうか。漸く振り向いた二人。その顔は何方もおっかなく出来れば逃げ出したい。樋口はその鋭い視線を逸らす為、隣に立つ黒服の男を指差した。
二人が喧嘩している間現れた背の高い黒服の男。その場に静かに立っている男は二人の視線がようやく向けられた事を確認して口を開く。
「ルナ様、中原幹部。首領がお呼びです」
機械のようにそれだけ伝えた男は二人に礼をして去っていく。
ルナと中也は再びお互いに視線を向けた。だが、直ぐにふんっと同時に顔を逸らして、そのまま歩き出す。
残された樋口は去っていく二人の背中を見据える。まだ喧嘩中なのに、それでも二人並んで歩いていく姿に和やかな溜息が漏れた。