第六章 救済の標べ
横浜の港から少し離れた海上。
そこに小ぶりの観光船が浮かんでいた。
その船に乗っているのは僅か数名。
一つの丸机を挟み椅子に座るのはポートマフィアの首領森鴎外。向かいに座っているのは異能特務課の長官種田山頭火。
森と種田の背後には其々護衛の者が控えていた。種田の背後には背の高い黒い特殊部隊の男。そして、森の背後には小柄な少女。無表情なオッドアイの瞳が真っ直ぐ前を見たままピクリとも動かない。
「本日は御足労頂き有難う御座います。
繰り返しますが此れは非公式の会合です。」
緊張した声音で発したのは机の前に立つ坂口安吾。彼の額には冷たい汗が流れ落ちている。
秘密裏に行われる今回の会合。非合法組織であるポートマフィアの長と内務省異能特務課長官が武器も無しに対面するなど、嫌な汗が垂れるのは仕方がない事だ。
「今日は御招き有難う。本職に戻ってから調子はどうかな?」
「うちの若いモンを虐めんで頂きたいですなぁ。ポートマフィアの親分さん」
「うちのエリスちゃんがアイスクリームを所望でね。政府御用達の佳い店でもないかね、種田長官?」
「そりゃあ微笑ましい話ですなぁ。うちの官僚達にも土産を持って帰ってやらんと。御宅の首なんか、さぞ喜ばれるやろなぁ」
種田の言葉に森の背後から発せられた爆発的な殺気が船全体を覆った。その禍々しい殺気、ルナから発せられる殺気に触れて仲介役の安吾は喉をごくりと鳴らす。否、安吾だけではない。種田もその背後にいる黒い特殊部隊の男も同じだ。全員が神経が警告するような“何か”に圧せられた。涼しい顔をして笑っているのは森だけ。
種田は森の後ろにいるルナに目を向けた。先刻からまるで人形のようにピクリとも動かない。生きているのか本当に疑ってしまう程に。
種田の視線がルナに向いている事に気付いた森はニヤリと不敵な笑みを浮かべる。まるで自慢の娘を他人に見せびらかすように。
「早速ですが、本題に入らせて頂きます」
強張った喉を無理やり動かしてそう切り出したのは安吾。言葉の一つ一つを選びながら慎重を要した。それだけ、何時誰の首が飛ぶか判らないからだ。
特務課から森鴎外に出す要求は二点。
一つは、坂口安吾に今後一切の関知をせず、危害を加えない事。
もう一つは欧州より日本に不法入国した異能犯罪組織ミミックを壊滅させる事。
____以上だ。
その要件に森は微笑を浮かべた。
「一つ目に関しては問題ないよ。だが、二つ目は確約しかねるなぁ。兎に角怖い連中だからね。出来れば泣いて逃げ出したい位だよ。ねぇ、ルナちゃん?」
『(態とらし…)』
側で聴いていたルナは急に此方に笑顔で同意を振ってきた森を呆れた目で見ながら心の中でそう呟いた。
「まぁ、条件にもよるがね」
初めからその心算だろうに。
その森の言葉に黙った種田は安吾に目をやった後、ゆっくりと机の上に“ある物”を取り出した。
一葉の黒い封筒。
それを見て森の口が弧を描く。
「ふっふふ。アッハハハハハ!!」
辺りに森の笑い声だけが響き渡った。
***
太宰は長い廊下を早足で駆けていた。
そして、辿り着いた部屋の扉を開けて無遠慮に入室する。部屋は市街地を見渡せる窓硝子から入る夕焼けの光で照らされていた。その窓を前にして椅子に腰掛けている森は驚いた表情で太宰に視線を向ける。
「おや太宰君。君の方から来るとは珍しいな」
「首領。織田作を救援する為、幹部級異能者の部隊編成の許可を頂きたい」
「いいよ、許可しよう。だが、理由を教えて貰えるかな?」
太宰の用件をあっさりと許可した森だが、その瞳の奥には鋭い怜悧な色しかない。
太宰は森に織田が単身で敵の本拠へ行ったと報告する。そして、このままじゃ貴重な異能力者である彼を失う、と。
その理由に森は「織田君は恐らく誰の救援も求めていない」と、それに関してどう思うかと太宰に問う。そして、まるで子供に聞かせるように「太宰君」とゆっくりした口調で云った。
「首領と云うのはねぇ、組織の頂点であると同時に組織全体の奴隷だ。組織存続の為ならどんな非道でも喜んで行わなければならない」
取り出した黒い封筒。
それを見て太宰はハッとして息を止めた。
「そうか、そういう事か…」
太宰は今、全て判った。
頭の片隅に引っ掛かっていた“何か”が、空白に
太宰は踵を返して森に背を向けた。「何処に行くのかね?」と云う森の言葉を背に太宰は扉に向けて歩き出す。
「織田作の許へ」
そう太宰が云った時、銃を構える音がした。
太宰に向けられたのは、一つの銃口。
「……ルナ」
太宰は自分に銃を向ける少女の名を呟いた。
光のないオッドアイの瞳が太宰を冷たく見据えている。
「まだ議論の途中だ、太宰君。ルナちゃんを振り切って織田君の救援に向かう気かい?だが、無理だよ。君は武力で彼女に勝てない」
空虚のオッドアイの瞳を見つめ乍ら太宰は呟くように「ずっと考えていました」と背後の森に云った。
ポートマフィア、ミミック、異能特務課。
この三社組織をめぐる対立を誰が操っていたのか。
この大胆かつ精緻な絵を描いたのは誰か。
それは___、
「首領、貴方だ。」
太宰は部屋の中央まで戻り机に置かれた黒封筒を手に取る。
それだけその黒い封筒に価値がある。
いくら強大な力を持つポートマフィアでも政府機関である異能特務課の機嫌を損ね弾圧される可能性があることを常に怯えなくてはならない。だから、これが必要だった。異能組織として活動を許可する“異能開業許可証”が。
それを手に入れる為、森は犯罪組織ミミックの脅威を利用し、異能特務課を交渉のテーブルに引きずり出した。そして、その計略の中心的な手駒になったのが坂口安吾。彼をマフィアのスパイとしてミミック内に潜入させたのはミミックの情報を得る為ではなかったのだ。何故なら、森は坂口安吾が異能特務課だと最初から知っていたから。
「首領、彼等の密入国を裏で手助けをしたのは貴方だ。貴方は異能特務課を焦らせ、重い腰を上げさせる為に態と敵対組織を横浜に招き入れた」
「そう。現にこうして異能開業許可証は手に入り、事実上政府から非合法組織としての活動を認可され、厄介な乱暴者は織田君が命を賭して排除してくれている。大金星だよ。なのに君は何をそんなに怒っているのかね?」
森は太宰を見た。太宰の表情は確かに怒っていた。それは顔には出にくく赤の他人から見れば判り辛いものかもしれない。だが、心の底から彼が怒っているのを森は判っていた。
「納得出来ないだけだ。貴方は織田作が養っていた孤児たちの存在をミミックに
全ては森鴎外の狙い通り。彼は許可証を手に入れる為、何年も前から計略を張り巡らせてきた。そして、その中に織田の死がある事も解っていた。この完璧な計略を森は幹部にさえ、太宰にさえ伝えずに描いた。たった一人の少女を除いては。
太宰は溢れる怒りを抑えて踵を返えした。
そんな太宰を鋭い声で森は呼び止める。
「君は此処に居なさい。それとも、彼の許へ行く合理的な理由があるのかね?」
「云いたい事は二つあります、首領。
一つ、貴方は私を撃たない。ルナに撃たせる事もしない」
『……。』
その通りだった。ルナが森から受けた命令は“太宰を撃て”ではなく“太宰に銃を向けろ”だった。たったそれだけだ。“織田の許へ行くのを止めろ”でもなかったのだから。
森が何を考えているのかルナには判らなかった。だが、ルナには従う以外の選択肢はない。
「…どうしてそう思うのだね?」
「利益がないからですよ」
「君が私の制止を振り切って彼の許に行く利益などないと思うが?」
「それが二つ目です、首領。確かに利益はありません。私が行く理由は一つ」
そう云った太宰は森を見た。
森は太宰の表情を見た。
細められた太宰の目は穏やかな光を灯し、口許に笑みを浮かべている。
「彼が友達だからですよ」
太宰のその言葉にルナの瞳が微かに見開かれた。
なんと単純で他愛のない理由なのだろうか。
太宰らしくもない。
首領の命令を振り切ってまで彼の元に向かう理由でもないのに。
なにの、如何して?
太宰は今度こそ森を振り返る事なく此方に進んでくる。森も止めなかった。ルナも撃たなかった。太宰は何も云わず、ルナの横を通り過ぎて部屋を出て行った。
部屋には森とルナだけが残る。
ルナは銃を持っていた手を下ろし、俯いた。
「如何したのかね?ルナちゃん」
森は指を組んだ儘、ルナの方を見ずにそう問う。
『如何して太宰を止めなかったの?首領が私に命令すれば私は必ず太宰を止めるのに…』
「止めて欲しかったのかね?」
『……判らない』
森の問いにルナは正直に答えた。“何か”が。心の奥底にある“何か”がルナに警告していた。それにルナは気付きながらも無理矢理蓋をしたのだ。それが今心を蝕むようにルナを苦しめているのに。
しかし、森はルナの答えに満足気に頷く。
「それでいい。何も気にする事はないよルナちゃん。君は私の指示通り全てを完璧に遂行した。よくやったね」
首領は私を見て微笑んだ。
気にするな、か。
じゃあ、気にするのをやめよう。
そう、思う事にした。
そうする事で、
溢れそうな“何か”に蓋をする事が出来るから。