第六章 救済の標べ



抗争が始まりつつあった。


何者かによるポートマフィア武器庫の襲撃。


敵組織の名はミミック。太宰の部下が捕虜に吐かせたのはたったそれだけの情報だった。


そして、坂口安吾の行方の調査に向かっていた織田作之助が掴んだ情報。一つの金庫。その中身はミミックが徽章エンブレムとする灰色の旧式拳銃。それが意味するものは何か。真実が解らない今、マフィア内には坂口安吾の裏切りの疑惑が広まっていた。



いつ抗争が過激化し、死体の山が出来てもおかしくはない。そんな細い糸が張り詰めたような緊迫する状況の中でさえ、時間というのは過ぎていく。



ルナは緑のマフラーを揺らし乍ら地下へと続く階段を下りていた。薄暗い場所へと続く空間にはルナの足音が響き、進むたびに強くなる臭いがルナの鼻を刺激していたが、彼女にとって慣れた臭いだ。


ルナが辿り着いた場所は捕虜などを捉え拷問する場所。壁や床に血がべっとりと付いている地下収監所の奥にある特別収監房。


ルナは或る人物に此処に呼ばれたのだ。そして辿り着いた時に感じたのはこの場の雰囲気が凍っているだ。それはどうやらルナを呼んだ張本人である人物による者らしい。


『呼んだ?太宰』


ルナの声にその場にいた全員が振り向いた。そして、響めきが起こった後直ぐに太宰を除く黒服達が緊張した面持ちでルナに敬礼した。



「やぁ、ルナか。待っていたよ。……と云いたいが、私の出来の悪い部下の所為で君にやってもらう事がなくなってしまった」


ルナは呆れた口調でそう云う太宰を見て、その奥にいる死んだ捕虜を見た。ミミックの兵士だ。ポートマフィアが経営する地下カジノに太宰が罠を貼り生け捕りにしたミミック兵。拷問して情報を吐かせる為此処に連れてきた筈。その捕虜が死んでいた。



死体から視線を外したルナは太宰の前で血を吐いて蹲っている芥川を見た。


太宰は捕虜の拷問を手伝わせる為、ルナを呼んだ。しかし、その前に芥川が捕虜を殺してしまい、そしてその罰として太宰が芥川を殴ったのだろう。転がっている弾丸を見れば撃ったことも判る。



ルナはゆっくりと芥川に近づく。視線の端に入った靴先に気付き芥川は呼吸の荒いままルナを見上げた。


「ルナ、さん」

『可哀想に。大丈夫?』


ルナは芥川の隣に膝をついて苦しそうな彼の背中に手を添えて摩った。労わる言葉に反して温度を感じない手。それに摩られている背中がやけに冷えるのを芥川は感じた。


黒背広を着た太宰の部下達が芥川を介抱しているルナを見て何か治療道具でも持ってきた方がいいかと視線を彷徨わせていた時、太宰は芥川の背中を摩り続けるルナを怜悧な瞳で見ていた。そして、冷たく呆れたような声で云った。


「善くも心にもない事云えるねぇ君。
“可哀想”なんて感情、知りもしないくせに」


太宰のその言葉に芥川の背中を摩っていたルナの手がピタリと止まる。そして、立ち上がったルナ。芥川が恐る恐るルナを見上げた時、彼の瞳には何の感情も感じないオッドアイの瞳が映った。


「…ルナさん」

『用がないなら私は戻る。いいよね?太宰』

「嗚呼、構わないよ」


ルナの名を呟いた芥川に見向きもせずルナはそのまま去って行く。太宰はその後ろ姿を見送った後、死体の隅から隅まで調べ敵組織の情報を探るのに取り掛かった。




***



その後、新たな情報が流れた。


行方をくらました坂口安吾はポートマフィアのスパイとしてミミックに潜り込んでいたのだが、裏切りがバレてしまいミミックは坂口安吾を排除しようとした。それを首領の命令により織田作之助が救助して任務は成功。しかし、今度は坂口安吾のポートマフィアへの裏切りが発覚。坂口安吾の本当の正体は内務省異能特務課のスパイであった。


欺き欺かれを繰り返すこの抗争で彼等は何を得て何を失うのか。

一人一人の行動と意思が物語を複雑に絡めて刻々と時を進めていた。




ルナは首領執務室で椅子に座る森の横に立っていた。


五大幹部会が招集され、マフィアの全戦力を持ってミミックを迎撃する事が決定されたのが数日前。そして、昨日、ルナの耳に入った情報は敵組織であるミミックの長と織田作之助が対峙したと云うものだった。太宰の説明では「織田作はミミックの長から熱烈な求愛を受けたようだ。週末には結婚式だね。着ていくドレスくらい選んどきなよ」と云うものだったが、正直意味が解らない。


『首領、私は何もしなくていいの?』

「否。君にはこれからしてもらう事が沢山あるよ。今まではただの準備に過ぎないからね。これからが本番だ」


指を組みながら微笑する森。首領には何か考えがあるのだろうとそれ以上は聞かなかったが、ふと前から疑問に思っていた事が頭に浮かんだ。


『…織田作之助を坂口安吾の救出に命じたのは、如何して?』

「おや、君も織田君と面識があったのかい?」

『少し…。太宰がいつも話してたし、此間会った』

「彼は如何だった?」


何故そんな事を訊くのだろう?


ルナは森の問いを疑問に思い首を傾げた。何て答えていいか判らない。暫く考えたが結局まともな返しを思いつかなかったルナは此間織田作之助に会った時に話した内容を思い出した。



『判らないけど……。私と中也は友人じゃないって教えてくれた』


森はその返しにきょとんと目を丸くした。だが、直ぐに可笑しそうに声を上げて笑った。


「ははは、面白い会話をするのだねぇ君達。うん、確かに彼の云う通りかもしれないね。君と中也君は“友人”ではない」

『面白い?うーん、判らないけど…』

「中也君に教えたらどんな反応するかなぁ。帰ってきたら訊いてみよう」


未だにクククッと笑っている森にルナはよく判らず更に首を傾げた。


ふと、笑っている森から視線を外し壁にかかっていたカレンダーを見たルナ。そして、今日の日付を見て『はぁ』と一つ溜息を吐く。


そんなルナの溜息に気付いた森は同じようにカレンダーに視線を向けた後、微笑みを浮かべた。


「後数日もすれば帰ってくるよ」


森のその言葉にルナは胸が高鳴るのを感じた。


ルナが見ている日付。その日は準幹部である中原中也が任務から帰ってくる日だ。今現在遠くの地方で長期任務を行なっている中也。その為、今ルナは中也に会えることはない。


『本当にあと少しで帰ってくる?』

「本当さ。中也君から仕事は順調に進んでいると連絡があったからね」

『…そっか』


森の言葉に安心したのかルナは小さな微笑みを浮かべた。普段滅多に見せないルナの笑みに森はまるで父親なような瞳を向けた。流石は中也君だ、と心の中で呟く森。首に巻かれたマフラーを口元に持ってきて笑うルナの表情は心の底から喜んでいるものだった。


そのルナの笑みを暫く見つめた後、森はゆっくりと視線を外し、そして横浜の街を眺める。街はイルミネーションの光でまるで星々のように輝いていた。


この街を守る事こそがポートマフィアの首領の使命であり、責任である。誰を犠牲にしても、どんな手を使っても。


森は再び視線をルナに戻した。


そこには先程までの優しげな瞳はない。
鋭く冷酷な瞳。ポートマフィアの首領の瞳が其処にあった。


「ルナちゃん。これから、君に任務を与える。
___これは命令だ。いいね?」


____命令。


その言葉にルナは口元から笑みを消した。







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