第一章 虎穴に入らずんば虎子を得ず


中也が西方へ出張に行ってから早数ヶ月。そう感じる構成員を余所にルナにとってはそれはそれは長い時間だった。


或る日は中也に会えないストレスが溜まりに溜まって近づいた者を殺してしまうのではないかと思われる程機嫌が悪い日、或る日は中也に会えない悲しみから生気を失ったように部屋に籠る日、或る日は中也がいない寂しさを紛らわす為か莫迦みたいに笑いながら暴れまわる日。
とにかく、情緒不安定なのである。


だが、そんな日を繰り返していたルナの耳にある報せが入った。それは遊撃部隊隊長である芥川龍之介がその部下である樋口と共にある少年の捕獲に専念しているとか。その少年とは虎に変身する異能力者であり、裏社会で70億もの懸賞金が付いているという。景気のいい話だ。


だが、その70億がどうとかルナは特に興味もないのでいつものように中也が帰ってくるまで時を過ごしていた。



***


そして、とうとう中也が帰ってくる日が近づいてきた今日。ルナはそれはそれは陽気な雰囲気を周りに振りまきながら廊下を歩いていた。そして、そんなルナに近づく影が一つ。


「ルナさん」


静かな声が聞こえたのでルナは後ろを振り向く。そこには口元を押さえて咳をする青年、芥川が黒い瞳で見据えていた。


『あ、龍ちゃん!』

「その呼び名はいい加減やめて頂きたい」


コホ、ともう一度咳をした芥川は眉間に皺を寄せながら不満を零した。この2人は齢は同じなのだが立場上ルナが上な為、芥川はルナに敬意を払っている。が、ルナの陽気さに付いていけない芥川は時にその言葉に棘を混ぜる時があった。

『で、何か用?』

「人虎捕獲の次の手に泉鏡花を駒として使わして貰います。その許可を」

『うん、いいよ。姐さんは厭がるだろうけど』


あっさりと許可したルナに芥川は驚くことはせず。腕を組んで頭を下げた。芥川も背を向けて歩き出そうとしたその時、ルナが『あ!そうだ』 と手を打って芥川に振り向く。アメジスト色の“両目”が怪しく光った。


『あの子を外に出す前に発信機を埋め込んでおいたほうがいいかもね』


それだけ云ってルナは再び芥川に背を向けて歩き出す。その小さな背中を数秒見据えた後、今度こそ芥川も背を向け歩き出したのだった。


***


それから数日後、再び私の耳に届いたのは太宰治を捕らえたと云う報せ。人虎はどうした?と首を捻りたい。でも、まあそんな事今の私には全く関係がなかった。何故なら今日__

『中也が帰ってくるぅぅ!』

ぴょんぴょん、と兎のように飛び跳ねるルナを指を組みながら微笑む森。首領の執務室でこんな事が出来るのはルナくらいである。


『本当に今日帰ってるのよね!?ね!首領!』

「ああ、先刻連絡があったからね。間違いないよ」


執務机に乗り出して訊いてきたルナに優しく返してやった森は「嬉しそうだねぇ」と苦笑した。

喜びのあまり飛び跳ねていたルナだが、急に何を思ったのか手を叩き出し、『中也の執務室で待ってよう!』 と早々に部屋を出て行った。


まるで嵐のようなルナに森は再び苦笑する。淡い橙色のランプが灯る室内には静けさが戻り、執務椅子に座る森と床でお絵かきをしている赤いドレスの少女、エリスだけがその場に残ったのだった。





中也は半年振りに拠点に帰還した。そして、帰って早々その足で速足に或る場所へと向かっていく。その顔には随分と愉しそうな笑みを浮かべていた。


中也が向かった先は薄暗く、血の臭いがこびり付いた地下の拷問場。彼はそこに繋がれたある人物に会いにきたのだ。


「いいねぇ、こりゃ最高の眺めだ。百億の名画にも勝るぜ。えぇ?太宰」


中也が帰って早々耳にした報せは太宰治を捉えたと云うもの。これは好機だと中也は思った。これを機に奴に厭がらせが出来る。長年耐えてきた屈辱を今こそ返す時だ、と。もう、中也にはその事しか頭になかったのだ。だから、彼は忘れてしまっていた。半年前にした約束を。





ルナは嬉嬉と階段を降りていく。下の方がざわざわしている事に気付いたルナは中也が帰ってきたのだと分かった。だから、迎えに行くために外に繋がる出入り口へと足を向けたのだ。

黒服の構成員がぞろぞろと入ってくるのを視界に捉えてルナは背伸びをして中也の姿を探した。しかし、まだかまだかと待っていたのだが一向に黒帽子の彼は現れない。最後の一人と思われる黒服が入ってきた時ルナは眉を顰めた。


『ねぇ、中也は何処?見当たらないんだけど』


近くにいた黒服にそう問えばサングラスを掛けたその黒服は言葉を詰まらせながら云う。

「太宰治という捕虜がいる地下の拷問部屋へ行かれました」

『……は?』

その瞬間、黒服の男は喉からヒュッと音が出た。それは目の前のルナから発せられた殺気を肌で感じたからだ。空気さえ裂くような感じたことのないそれに彼は指さえ動かせなくなった。


『なんでよ……約束、したのに』


ルナはそう呟いた後、緑のマフラーを揺らしながら地下へと足を向けた。




「二度目はなくってよ!」

ルナが地下へと続く階段を下っているとき、そんな高い声が響いた。ルナの視界に入ったのは内股で此方に背を向けている中也と爆笑している太宰。そんな、可笑しな光景をルナは無表情な顔で見据える。


「おや?ルナじゃないか」


いち早く気づいた太宰は笑いで出た涙を指で拭いながら階段の上を見上げた。太宰の言葉にギクリと肩を揺らして振り返る中也。その首が上手く回らず機械のようにギギギっと音が鳴った。中也はルナの光のない瞳と目が合った瞬間思い出した。半年前、自分が彼女にした約束を。


「……ルナ、これは、だな」

『随分と、楽しそうだね。中也』


笑っていねぇ。目が笑っていねぇ。
俺は久し振りに感じた恐怖に体が強張った。そんな俺を余所に太宰の呑気な声が響く。


「元気そうで善かったよ。一段と綺麗になったね、ルナ」

『それはどうも。太宰こそ相変わらず胡散臭い笑みだね』

「酷いな」


太宰は肩を竦めて笑う。これ以上此処にいて太宰が余計な事を云わないように俺は階段を上がる。ルナも俺と同じように階段を上がり始めた。前で揺れる毛先だけ白銀に染まった水浅葱色の髪を見ながら、俺は無言でルナの後を付いて行く。額から冷や汗が伝うのは気のせいではないだろう。




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