私は一人、草原に立っていた。


草の青々しい香り。
暖かな日差し。


素足が触れる地面は草がクッションのようで、時折吹く風に揺れると私の足を擽った。


何処までも広がる蒼い空と緑の草原。この広い空間に一人立つ私はこの世界ではちっぽけな存在に思えた。


此処は何処だろう。

知らない場所。知らない景色。知らない空気。
どこか現実味がないその場所は知らないはずなのに、知らないと云う言葉で云い切れないのは何故かと私は首を傾げた。


その瞬間、風が通り抜けた。
私は髪を押さえて反射的に目を閉じた。
暫くして止んだ風。私は目を開けた。


目の前に広がっていたのは無数の墓標。
新しいものから古びたものまで。


私は引き寄せられるように前に進んだ。
遠くまで不規則に並ぶ墓標の道を。
時折、暮石に刻まれた文字を読み乍ら。


そこに刻まれた文字は知らない名前ばかり。全てを見たわけではないが、此処まで歩いた間には一つも知っている名前はなかった。


私は更に歩いた。
生茂る草原の真ん中を。


そして、前に進んで歩いているうちに気づいた。

先刻まで着ていた黒外套が無くなっていた事に。何時もその中に着ている白のワンピースも着ていない。私が着ていたのは黒い布のような服。襟元が緩み左肩からずり落ちている黒布。随分と懐かしい格好だった。


私は首元に手を運んだ。そこにいつもの緑のマフラーが巻かれていた。それに私は安堵した。



突然に誰かの気配を感じた。


私が辺りを見渡せば同じように墓標がいくつも並んでいた。


だが、一つ。たった一つだけ。
私の目に留まった墓標があった。
それに目が留まった理由はその墓標に人が居たからだ。


小さな墓標を背凭れにして寄り掛かり、静かに目を閉じている男。


知らない男にみえた。


蓬髪で黒外套を羽織った男。


男は当然のように其処に居た。何時から其処に居たのか、何故其処に居るのかは判らない。しかし、その男はまるでこの不思議な空間の住人であるかのようにこの場所に溶け込んでいた。


男はゆっくりとした動作で閉じていた瞳を開き此方に視線を寄越した。


その時、私は気付いた。


私はこの男を知っていると。


知らない人のように見えたのは彼の顔に包帯が巻かれていなかったからだ。彼はいつも右眼を包帯で隠していた。まるで現実という名の世界から逃げるように。見え過ぎる全てを遮断するように。


そんな彼が包帯を着けていない事に違和感を覚えた。だから、私は彼が別人のように見えたのかもしれない。


彼は墓標に肘をかけて立ち上がった。


そして、私を焦げ茶の瞳でジッと見据えた。


私はその瞳から逃げるように彼の足元の墓標に視線を落とした。


此処に来るまで、一度だって墓標に刻まれた名前に覚えなど無かったのに。


その墓標に刻まれた名だけはまるで湖の水面に波紋を作るように広がり私の中に落ちてきた。


私はその名を知っている。


私は理解した。


今まで辿るように歩いてきたこの道にある墓標。


それは全て＿＿＿＿、



私が殺した者達のものである、と。






目の前に立つ男が口を開いた。
何かを云っている。


だが、私の耳は酷い耳鳴りが鳴り響きその声は聞こえなかった。


私は彼の口元の動きを見た。
如何しても彼の言葉を読み取りたかったからだ。


それでも、今度は白い靄が邪魔をして私の目を霞ませた。


「＿＿＿。」


彼が云った。


だが、私は聞き取れなかった。


屹度それは、私が知りたかった答えだった筈なのに。




白い靄が全てを包んだ。

目の前の男も。
無数にあった墓標も。
蒼い空も緑の草原も。


私の視界は全て真っ白に染まり、軈て消えた。