第五章 死んで花実が咲くものか
横浜の街は矢張り賑やかだ。
お昼に散歩でもすれば行き交う人も多く、道路には何台もの車が走っている。だが、その賑やかさが今の私には居た堪れなかったので逃げるように人が少ない方へと足を運んだ。
一つ買って齧ったシュークリームはいつも通りの味な筈なのに全く美味しく感じられなかった。そして、海がよく見えるベンチに腰掛けボーッと眺めている事数時間。段々と夕日が街を照らし出した。橙色の空は矢張り中也を連想させる色で、それを見るのが辛いと思ってしまう今の私は大分参っているらしい。
漸く動いた足はよろよろと進み気付けば誰もいない川沿いを歩いていた。
『ん?』
そんな時だ。
川の中に何かがいるのを見つけた。その“何か” には烏が群がり、水面からはぷくぷくと気泡が出ている。伸びた足がピクピクと動いているところを見るとまだ生存らしい。
『あぁ最悪。見てはいけないものを見た』
その“見てはいけないもの”に気づかれたら面倒くさいことこの上ないので、方向転換しようとした時、
「太宰さん!ちょっといい加減にしてくださいよ!国木田さんが疾く連れて帰ってこいと怒ってます!」
と、聞いたことある声が辺りに響く。
てか、やっぱりその“何か”は奴か……。此処は絶対関わるべからず。疾く帰ろうと再び踵を返したその時に幼気な少年の声。
「疾く連れて帰らないと僕も怒られちゃうんですよぉ」
うぅっ。なんて可哀想な少年なのだろう。迷惑を言葉にしたような上司に手を焼き。その上そのクソな上司を連れて帰らなければ、厳格な上司の思い鉄拳が飛んでくるなんて。しかも、その少年とは此間私をシュークリーム売り切れ地獄から救い出した天使くんではないか!此れを助けず誰を助ける!?たとえ会いたくない人物がそこにいるとしても!たとえ心身的に参っていたとしても!
私は仕方なく川の方へと向かった。
*
敦は困っていた。
国木田に太宰の阿呆を連れ帰って来いと云われ、探しにいけばいつもの川に彼はいた。というか流れてた。自殺が趣味である太宰に何とかして帰るようにいうのだが彼はブクブクしながらどんぶらこだ。
川に飛び込んで助けると云う方法もあるが、服は濡れるしもう夕方で少し冷え込む。まだ業務が残っている敦には躊躇う方法である。
しかし、どんなに声をかけても此方に反応しない太宰に敦がどうしようかと困っていた時、敦の視界に入ってきたのは一匹の巨大な獣。
「えっ?」
敦が驚いているのを余所にその獣は太宰の襟を咥え川辺に放り投げた。ズベシッと音を立てて地面に放られた太宰。敦はその一部始終をポカンと見ているだけ。
『昨日ぶり、人虎君』
「ルナちゃん…。何で、此処に?」
『唯の散歩だよ。そしたら、人虎君の悲痛の叫びが聞こえたから堪らず助けにきたの。可哀想に厭な上司に虐められているんだね。でも大丈夫。生きてれば人間悪い日ばかりじゃないかもしれなくもないから。因みに私は今どん底級に悪い日なのよ…』
結局どっち?と訊きたかったが、およよよ、と泣き出すルナに敦はそれが出来なかった。
その理由はルナとの接し方を敦は今一測りかねているからだ。彼女はマフィアでそれも凄腕の暗殺者。普通なら敵だ。だが、そんな彼女は幼い少年を助けてくれた。その理由は判らないが、少年を助けたと云う事実があるからこそ敦には彼女の真意が読めない。
取り敢えず、少年を助けてくれた事のお礼は云っておこうと口を開いた敦はふとルナの横を見た。
「ひっ!」
巨大な獣が此方にその鋭い瞳を向けているのを見て、恐怖の為喉から小さな悲鳴が漏れた敦。そんな敦の脳裏に先日の光景が過ぎた。赤い血の池と肉塊。そして、それを作り出した白銀の獣。
敦は無意識にカタカタと体が震えていた。そんな敦を見てルナは哀れみの目を向けて苦笑する。
『嗚呼、そんなに怖がらないで人虎君。大丈夫、私と仲良くしてればイヴは切り裂いたりしないから』
へぇ、そんなんだ。よかったぁ。
……なんて云える訳ない。
と、僕は心の中で否定する。
『イヴはいい子なんだよ』と毛並みを撫でているルナちゃんにイヴと呼ばれた巨大な獣が甘えるように喉を鳴らしている姿はまるでご主人様に従順な犬のようだ。狼だけれど。否、狼なのかも怪しい。
「いたた、溺れかけたと思ったら今度は投げ飛ばされてしまった」
その時突然響いた声に僕達は視線を向ける。というか今の今迄忘れていた。太宰さんは強打しただろう腰を摩り乍ら立ち上がり、僕を見てそして、ルナちゃんへと視線をやった。
「やあ、ルナ。久し振りだね。最後に会ったのは停戦協定の会議以来かな?」
『さぁ、一々覚えてない』
「相変わらず酷いねぇ君」
何だろう?
何か雰囲気が凍っているような気がする。
謎の緊張に僕は喉をゴクリと鳴らし、2人の様子を伺っていた。
「はーぁ、今回も入水は失敗だ。何故私を助けた?君はそんな事しない筈だろう。命令がない限りね」
『別にアンタを助けた訳じゃない。私が助けたのは幼気な人虎君』
いきなり出てきた自分の名前に敦は肩を揺らすが2人の会話に入るほどの勇気を生憎と持ち合わせていないのがこの少年だ。2人の側で黙って見てることにしよう、と敦は決めた。
「確かに君の云う通りだね。でも、理由は本当にそれだけかい?森さんの命令で私をマフィアに連れ戻す、という可能性も考えられなくもない」
太宰はルナを試すような目で見た。
そして、その言葉にルナは太宰を睨む。
『調子に乗るな、裏切り者。本来ならマフィアを裏切ったアンタは即処刑。私が首領にその命令を受けていない事を有り難く思いなよ』
「へぇ。なら、命令を待たずとも今此処で私を殺せばいい。君なら一瞬だろ?」
その瞬間、イヴが太宰に向かって唸り出した。それは太宰がルナに向けて殺気を放ったからだ。その殺気を感じ取ったイヴは鋭い牙と爪を剥き出しにして今にも太宰を切り裂きそうである。
敦は冷や汗が背中を伝うのを感じていた。
太宰が殺されると思ったからかもしれない。否それは勿論あるが、1番に感じたのはこの化け物の逆燐に触れた、と云う事だ。
止めた方がいいか?だが自分の力でこの化け物に勝てるわけがない。
そう思い焦り出した敦の耳に聞こえたのは随分と落ち着いた声。その声はイヴの前にスッと掌を出したルナのもの。
『イヴ、落ち着いて。首領から命令は出てない。殺す必要はないよ』
ルナの声にイヴは唸るのを止め、黒い影となり軈て消えた。
「なんだ、止めるのかい?」
『そんなに死にたいならお一人でどうぞ』
ルナは踵を返して後ろ手で手を振りながら吐き捨てるようにそう云った。太宰と会うと碌なことがないし、今日は本当に最悪な日だなと、ルナが溜息を吐いた時、「ルナ」と後ろから名を呼んだ太宰の声が聞こえた。
その声に反射的に振り向いたルナの視界に映ったのは笑みを消した太宰の顔。その瞳はマフィアにいた頃の太宰を思い起こさせた。
「例え森さんの命令があっても、君は私を殺さない。
___否、殺せない」
ルナの顔から表情が無くなる。それは体温さえ失われてしまったみたいに見えた。瞳から光は消え、宝石のようなアメジストの瞳は泥沼に沈んだかのように暗く淀んでいる。
その瞳を見据え太宰は哀れむような目を向けて嗤笑した。
「君は本当に愚かだね。感情さえ持たなければ、そうならずに済んだのに」
『何が…、云いたいの?』
「君は“後悔”をしているのだろう?」
___後悔?
ルナは頭にその言葉の意味に疑問を浮かべ乍ら無意識に自分の拳を握りしめていた。血が出るくらい強く。そうしないと何かが身体中に溢れる気がしたから。
だが、あの日からずっと心の片隅に残っていたある疑問がルナに向かって叫んでいた。
黙ったままのルナを見て太宰は一度不安そうに此方を見ている敦に目を向けて、「先に戻ってくれ給え」と云った。敦はその場の雰囲気を察して何も云わず頷き直ぐにその場を去った。
二人残ったルナと太宰。
漸くルナは乾いた喉を動かした。
『太宰』
出たのは太宰の名。
その後に続いた言葉は微かに震えている。
『私を、恨んでいるんでしょ?』
その問いに太宰は暫く答えずルナを見たままだったが、徐に歩き出す。そして、背の低いルナを見下ろすようにルナの前で止まった。
『私を殺したい程、憎んでいるんでしょ?』
太宰はその問いに何も答えない。代わりにゆっくりとルナの方へと手を伸ばす。そして、ルナのスカートを少し捲り上げてそこに隠されていた暗器を取り出してルナの首に当てがった。
冷たい風が二人の間を通り抜けた。ルナは微動だにしない。このまま太宰が力を込めれば首に刃が届くと云うのに。
静かな川の流れ。
そのゆったりとした流れに反して時間と空気が重くのし掛かるように二人の空間だけが取り残されたようだった。
「私に殺されるつもりかい?ルナ」
『…私の質問に答えて』
ルナはずっと求めていた。太宰の答えを。
だからこそ、ルナは今回その答えの為に少年を利用した。憎しみや恨みに触れれば解ると思ったから。
でも、結局……、解らなかったのだ。
「確かに君は変わった。
___だけど、矢っ張りまだ“人形”だ」
ルナはその言葉に目を見開き、太宰を見上げる。冷たい瞳が此方を見下ろしていて、何処か安心したような顔。それは心の内側を見透かされているような冷酷な瞳。
ルナの中から感情が消えていく。
流れる川より速く、音もなく、静かに、跡形もなく。
しかし、ルナの視界が黒い何かで遮られ、太宰の瞳が見えなくなった。それと同時に後ろに引っ張られ背中に何かが触れる。
「何してやがる糞太宰」
頭上から聞こえた声。
それが耳に触れた瞬間、逆流するように感情がルナの中に戻った。冷たく凍った心が溶かされるようにゆっくりじわじわと広がる温かな感情。
如何して此処にいるの?
怒ってたんじゃないの?
私を避けていたんじゃないの?
沢山訊きたい事があったのにどれも言葉にならないのは矢っ張り感情が溢れているからなのだろうか。
「随分なタイミングだね中也。よく此処が判ったものだ」
「…偶々通りかかっただけだ。それより早く
ピリッと空気が震え、小石がパラパラと音を立てて空中に上がった。それは中也が異能を発動させているからだ。
「冗談冗談。少し揶揄っただけさ」
太宰はそう云い乍ら暗器を地面に放って両手を挙げる。そして、くるりと踵を返して歩き出した。結局、ルナの問いには答えないまま。
『……。』
ルナは目を覆われている状態で暫く動かなかった。最初に何を話していいか判らない。謝った方が善いのか、お礼を云った方が善いのか。
ルナがそう考えていれば、スッと手が離れて視界が開けた。ルナは恐る恐る後ろを振り返る。だが、ルナの視界に入ったのは中也の後ろ姿。階段を登って堤防の上へと登って行ってしまった。
ルナの目に悲しい影が過ぎる。眉を下げ乍らルナも中也が登った階段をとぼとぼと上がった。
『あ…』
てっきりもう行ってしまったと思ったのに。
見覚えのある一台の車。
それがエンジンを掛けずに静かに止まっている。その運転席には腕を組んで座る中也。ルナは早足に駆け寄って、少し躊躇いながらも助手席に乗り込んだ。
中也は何も云わずにエンジンを掛けて車を発車させる。見慣れた道路を進む中、中也とルナの二人の間に会話はない。ルナはチラチラと中也の横顔を見ては口を開こうとしたが、結局出掛かった言葉は喉の奥に詰まってしまう。膝の上に置かれた自身の手を何度も組み替えながら落ち着かなかった。
そして、辿り着いたのは中也の自宅。
それは高級ビルの最上階にあり、駐車場に車を止めた後は昇降機に乗り込んで上の階を目指した。
狭い密室の中でも二人は無言。
中也が前でルナが後ろ。中也が振り向かなければ目線は合わないのでルナはその背中をジッと見つめる。振り返って欲しいような欲しくのような。そんな葛藤を繰り返しては気の重さから中也に聞こえないように小さく息を吐き出した。